第23話 ジェノサイドポーラベア
「まさか……」
マルハチは言葉を失った。
辿り着いた山小屋は巨大な氷に押し潰され、見るも無惨な姿に変わり果てていた。
「兵は!?」
分厚く、しかし透き通った氷の塊に駆け寄ると、中を覗き込んだ。
遥か数メートル先に、ひしゃげた小屋が閉じ込められている。
何がどうなったのかは分からないが、想像するに、侵食した氷によって、掌で握り潰したかのように小屋は捻り潰されたのだろう。
小屋の扉も砕け、床の辺りに赤い染みが見えた。
中にいたであろう兵士も、この氷に押し潰されたに違いない。
「マルハチさん。これではダー君を置いてはいけませんね。」
珍しくミュシャの声が沈んでいた。
「ああ。」
マルハチはゆっくりと馬車に近付くと、馬の首を抱き締め、しきりに自分の首筋を押し付けていた。
「馬を放してあげるの?」
ダクリが問い掛けた。
「ああ。繋いではおけないからね。こうやって僕の匂いを付けてやれば、野生の獣にも襲われない。」
銀狼は魔界における野生の食物連鎖の頂点のひとつだ。
その匂いを纏った馬を補食しようなど、ジェノサイドポーラベアやポイズンリザードタイラントなどの他の頂点生物でなければまず思わない。
「ミュシャ。最低限の荷物だけを纏めるんだ。それと、何があってもダクリは守るんだよ。」
「はい♪」
マルハチはダクリに向き直ると、片膝をついて顔を覗き込んだ。
「ダクリ。ここから先、何があっても僕かミュシャから離れるな。分かったね?」
「……うん。」
ダクリは唾を飲んでから答えた。
「それと、」
「それと?」
「僕やミュシャに何かあった場合、絶対に見捨てて逃げろ。」
「…………。」
その言葉に、ダクリは何を言うべきか分からない様子だった。
「いいね?」
それでもマルハチは念を押し、返事を求めた。
「…………うん。」
その答えを聞き届けてから、マルハチは立ち上がると荷台から荷物を降ろし始めた。
あの夜まとめたズタ袋を取り出して肩に掛け、その上から大きな白いシーツを纏わせた。
「マルハチさん♪」
隣で、デフォルメされたウサギの顔を象ったリュックサックを引っ張り出しながら、ミュシャが声を掛けてきた。
「どうした?」
「スゴロクは持って行ってもいいですか?」
「………そうだな。暇な時にやるかもしれない。」
流石に今は冗談を言う気分ではない。
ミュシャとダクリにも白いシーツを手渡すと、マルハチは生返事を返しただけで歩き始めた。
氷煌ヘレイゾールソンの領土は本当に狭いものだった。
子供連れのマルハチ達の足ですら、一日も歩けば城に辿り着くことが出来るような範囲でしかない。
しかもその土地のほとんどは大樹の生い茂る密林だ。
身を隠しながら進むには持ってこいな環境である。
が、それは相手にとっても同じことだろう。
マルハチは文献で読んだ氷煌の情報を思い出していた。
氷煌ヘレイゾールソンは精霊族の亜種にあたる。
恐らく配下もジャック・オー・フロストで占められているはずだ。
精霊族は厄介だ。
実体はあるものの、肉体を構成するのはほぼ四元素。つまりは火、水、空気、土だ。
核としての肉体の上に元素を纏っているだけに、かなり自由自在にその形を変えることが出来るのだ。
もちろん環境に姿を擬態するなど容易だろう。
こういった見通しの悪い環境下でやり合う場合、かなり苦戦を強いられるだろう。
出来れば極力出会いたくはない。
しかし、その点ではマルハチ達に分があった。
精霊族は姿を隠すことが出来る。
が、臭いまでは隠せない。
マルハチにはほんの些細な臭いでも嗅ぎ分ける人狼の嗅覚がある。
対する精霊族にはそのような特性は無い。
白いシーツで身を隠しながら進むマルハチ達を、目視で発見するのは困難を極めるだろう。
もしこの場で会敵した場合、
先制して察知出来るのはマルハチの方だった。
が、それは氷煌の配下が精霊族のみであった場合の話だ。
「少し急ごう。それと、」
マルハチは後ろを歩くミュシャとダクリに振り返ると、右手側を指差した。
「遠回りをしないとね。」
「どうしたんですか?」
ダクリが不安そうにミュシャの手を握った。
「恐がらせたくはないが、言わないわけにもいけない。どうやら敵にジェノサイドポーラベアが含まれているらしい。」
「え?」
あまりの名前にダクリは目を白黒させていた。
ジェノサイドポーラベア。
北の大地最強にして魔界最大の魔獣の名だ。
体高は銀狼化したマルハチの倍はあり、その腕力は一撃で石造りの民家でも叩き壊すほど強い。
並の魔族であれば到底敵わない上に闘争本能が強く、よほど手練れた術士でなければ制御は難しい。
が、単純なパワーこそトップではあるが、銀狼ほど五感は鋭くなく、ポイズンリザードタイラントのような特殊能力も備わっていない。
精霊族より鼻は利くが、それでもマルハチの索敵能力に比べれば大幅に劣る。
「出会わなければ大したことはないさ。」
要はそういうことだ。
既にその存在を察知したマルハチは、風下に回るべく進路を変えることにしたのだ。
それで済むと思っていた。
「ひゃっ!」
ダクリが小さな悲鳴を上げた。
「どうした?」
「な、なんか、氷が降ってきた。」
「氷?」
マルハチはダクリの頭上を見上げた。
そして、目があった。
「なっ!?」
ミュシャとダクリの真後ろ。
遥か頭上に巨大な黒い目が浮かんでいた。
白くてよく分からなかった。
が、目をこらして見れば、それは大きな白い熊の頭だった。
顔だけでミュシャの体の倍以上はあり、その大きな口腔から垂れ落ちたヨダレは空中で凍りつき、氷の粒となってダクリの上に落ちてきていたのだ。
(臭いが、まるでしなかった!?)
そんなマルハチの驚きになど構うことなく、ジェノサイドポーラベアは大きな前足を振り上げた。
咄嗟にダクリの体を抱え込むと、マルハチはその場から大きく飛び退いた。
同時にミュシャも大きく跳躍していた。
「ミュシャ。あまり物音を立てるなよ。」
「はい♪」
言いながら、ミュシャはウサギリュックの耳からトンファーを引き抜いている。
大幅に距離を取り、ジェノサイドポーラベアの間合いから外れた辺りにダクリを下ろすと、マルハチはそちらに振り返る。
得物を装着し終えたミュシャは、落下の勢いそのままにジェノサイドポーラベアの後頭部に強烈な一撃を加えた。
しかしあまり効いてはいないようだ。
痛みは感じたらしく、白い魔獣は大きく口を開いた。
咆哮させるわけにはいかない。
マルハチは地面を蹴り、ジェノサイドポーラベアの足元へと滑り込むと、両手で体を持ち上げた。
「ガフッ!」
マルハチの強烈な蹴りがジェノサイドポーラベアの喉を撃ち抜いた。
これで声は出せまい。
マルハチが着地したと同時に、ミュシャもふわりと地上に戻ってきた。
「固いですね♪」
「寒冷地仕様だからね。脂肪が厚いのさ。」
「姫様のお尻みたいですね♪」
「おい!そういうことを、」
声を荒げようとした時だった。
雀蜂に攻撃されて激昂したらしく、白い魔獣は最初よりも更に大きく前足を振りかぶった。
(まずいな。避けたら木に当たる。木が倒れでもしたら、ここで戦ってるのがバレるぞ。)
マルハチがそう考えるよりも速く、ジェノサイドポーラベアは前足を凪ぎ払った。
「(速い!)ミュシャ!」
「はい♪」
マルハチは瞬時に銀狼化すると、大きな前足に飛び掛かった。
そしてミュシャはジェノサイドポーラベアの巨体の真下へと走り込む。
強烈な一撃をマルハチが受け止めた。
凄まじい圧力が全身に加わる。
何とか足を踏ん張り、その腕が木を叩かぬよう食い止める。
と同時だった。
ミュシャは体を回転させながら、まるで大弓から弾き出された矢の如き勢いで、白い魔獣の腹部へと突っ込んでいった。
「……グヘァ!」
ジェノサイドポーラベアの口から空気が漏れた。
ミュシャの一撃が、寸分違わずに魔獣の横隔膜を撃ち抜いたのだ。
マルハチが抑え込んでいた前足から力が抜けると、その巨体も力なく大地に突っ伏して動かなくなった。
「やりました♪ミュシャ、頑張っちゃいましたから♪」
雪煙が舞い上がる中、ジェノサイドポーラベアの巨体の脇を、スキップしながら戻ってきた。
「今回はミュシャの勝ちですね♪」
人型に戻り、尻餅をつきながら肩で息をするマルハチの周りをクルクルと回りながら、ミュシャは声を弾ませていた。
「ああ。今回は、そうだな。よくもまぁ、あんな精確に打てるものだ。」
流石のマルハチでも、今度ばかりは認めざるを得なかった。
「あれ?マルハチさん、怪我したんですか?」
不意にミュシャは動きを止め、マルハチの顔を覗き込んだ。
「少しね。」
見ると、コートの下の燕尾服がドス黒い血で染まっていた。
「困りましたね。敵さんのお城に着く前にマルハチさんが死んじゃうなんて。」
眉をへの字に垂らしてはいるが、あまり困ったような素振りには見えないミュシャが言い放った。
「悪いが荷物の中に小さな袋が入ってる。そう、それだ。その中の実を一粒くれないか?」
言われた通りにクペの実の入った革袋を取り出すと、ミュシャは丁寧な手付きでマルハチの掌に実を握らせた。
その実をかじると、マルハチの体は途端に力を取り戻した。
「わぁ!すごい!あんなに深そうだった傷がなくなっちゃいました♪」
「ああ、僕も驚いたよ。まさかこんなに早く効き目が現れるものだとは。そしてすこぶる不味い。」
マルハチの舌には、えも言われぬ程のえぐみと苦味が絡み付いていた。
「でも良かったです♪マルハチさんが死んじゃったら、ミュシャの強さを引き立ててくれる人がいなくなっちゃいますから♪」
「次は君が囮になるといい。見殺しにしてやる。」
ふたりが勝利の余韻に浸っていると、魔獣の鼻を撫でているダクリの姿が目に入ってきた。
「気絶しているだけだから、あまり近付くな。」
ダクリに向かってマルハチが声を掛けた。
「どうやら、ステルスの術が掛けられていたみたいだね。」
振り返ったダクリが言った。
「そうか。だから僕の鼻でも分からなかったのか。」
「うん。だけど、氷煌の配下ってわけじゃないみたい。野生のジェノサイドポーラベアらしいね。」
「そんなことが分かるのか?」
「うん。オイラ、少し魔術をかじってたことがあるから。」
「そう、なのか。」
「マルハチさんの判断は正しかったと思う。きっと、野生の獣が暴れればそこに侵入者があるって分かるように、こういう魔術を掛けたんだね。」
「なるほど。精霊族はそこまで魔術に長けた種族じゃないと聞いたことがある。」
「そうだね。この魔獣を操るには、それこそ、ソーサラー族みたいな高位の魔血種族じゃないと、まず不可能だと思うな。」
「なら、まだ僕達のことはバレてないと考えていいのかい?」
「恐らく。ステルスの術も解けていないし、大丈夫だと思うよ。」
「そうか。」
ダクリの考察を聞き終えた頃には、マルハチの息もすっかりと整っていた。
「では、出発しよう。」
「マルハチさん、マルハチさん♪」
立ち上がったマルハチに、嬉しそうにミュシャが声を掛けてきた。
「次はもっと真面目に索敵して下さいね♪」
「……御意。」
かなり頭にはきたが、とりあえずこう返すしかなかった。




