第18話 ある寒い日に①
その日は底冷えのするとても寒い日だった。
マルハチはマリアベル家の所要で、領内にある大きな街を訪れていた。
今にも雪が落ちてきそうな空模様だ。
薄手のコートの襟を立て、石畳を進む。
(ええと、この辺のはずだが。)
異様に整った字で書かれたメモに目を落としながら歩くマルハチは、とある商店の前で足を止めた。
見上げると、そこは本当に小さな寂れた店だった。
(ここか。)
家屋こそ寂れてはいるが、道に面する窓ガラスや扉は綺麗に磨きあげられている。
(よくもまぁ、こんなところをご存知で。)
思わず笑ってしまう。
ほとんど屋敷から出ることもないくせに。
(薄力粉、中力粉、強力粉。できるだけグルテンフリーのやつ。)
メモに書かれた材料を調達するにはこの店が最適らしい。
窓を覗くと、中には色鮮やかなホールケーキがところせましと並べられていた。
見ているだけで体重が増えそうな気がして、軽い目眩を起こすところだった。
なんとか立て直すと、マルハチは扉のノブに手をかけた。
そんなマルハチの視界の端に、ふと飛び込んできた。
店の窓に顔をへばりつかせ、しきりに中を覗き込んでいる男の子供だった。
種族は分からないが、限りなく人間に近いヒューマノイド。
年頃は、そう、120くらいと言ったところだろうか。
みすぼらしい仕度をしていた。
「そんなところで何してる?」
マルハチに声を掛けられ、相当に不意だったらしい。
体を飛び上がらせて驚いていた。
「あ、あの、その、オイラ、」
しどろもどろになり、必死に弁解しようとしているらしい。
(盗賊か?)
一瞬そんな考えも頭をよぎったが、少年の腹の虫が鳴く音が、その疑いを打ち消した。
「腹が減ってるのか。」
マルハチは小さく息を吐いた。
少年は恥ずかしそうに小さく頷いた。
「入れよ。」
マルハチの意外な言葉に、少年の頬が紅潮するのが分かった。
少年をケーキ屋に迎え入れながら、マルハチは空に目をやった。
(あの日もこんな寒い日だったな。)
大粒の雪が舞い始めていた。
腹の虫がわめき声を上げた。
毎度毎度のことだが、うるさい奴だ。
俺は地べたに座り込みながら、なるべくそいつに耳を貸さないように努力していた。
「おい、308!水、汲んでこい!」
不細工なパンを頬張りながら、バカみたいにでかい声で、バカみたいにでかいトロルの男が俺に話し掛けてる。
本当は無視したいところだが、こいつに逆らえば今日の晩飯は抜きだ。
俺は仕方なく、水桶を抱えて外に出た。
外は雪が降り始めていた。
井戸は町はずれ。
かなりの距離があるが、俺はなるたけ人目に付かないよう注意を払いながら、その井戸を目指した。
井戸に向かう間も、腹の虫は何度も何度も俺に訴えかけている。
俺だって分かってんだよ。
俺は何も考えないようにしながら歩いたが、急に目の前が真っ白になって、道端にへたり込んだ。
情けない。腹が減りすぎた。
行き倒れたってのに、道行く人々の誰も俺に目もくれようともしない。
まぁ、そんなもんだ。
俺みたいにのたれ死にするガキなんざ、この町には五万といるんだ。
しばらく休めばまた動けるだろう。
俺は膝を抱え、少し目をつぶることにした。
しばらくして気がついた時、俺の目の前にガキがしゃがんでいた。
40歳かそこらだろうな。
真っ黒い髪を頭のてっぺんで結んだ、不細工な女のガキだった。
鼻水を垂らし、俺の顔を覗き込んでいた。
「おにしゃん。ねんね?」
「俺は鬼じゃない。」
その意味が分からなかったんだろうか。
ガキは不思議そうな目で俺を見詰めていた。
「おにしゃん。ねんね?」
また聞いてきた。
おにしゃん。
あぁ、そうか。
お兄さんって言いたいのか。
歳の割には随分と言葉の足らない奴だ。
「ああ、ねんねだ。だからどっか行け。」
言ったと同時に腹の虫が特大の悲鳴を上げた。
「おにしゃん。ぺこぺこ?」
ガキが目を輝かせていた。
「うるさいな。あっち行けって言ったろ?」
俺はぶっきらぼうに答えると、立ち上がろうと足に力を入れた。
が、上手く立ち上がれずに壁にもたれかかってしまった。
情けねぇな。
そんな俺を見て、ガキは立ち上がると黒いケープの中から何かを取り出した。
「おにしゃん。まんま。まんま。」
ガキが手に持っていたのは、小さなエクレアだった。
そんな高価なもん食ったことはなかったが、菓子屋の前を通り掛かったときに見たことがあった。
「まんま?お菓子じゃないか。」
「おにしゃん。ぽんぽん、ぺこぺこ。まんま。」
しきりにエクレアを勧めてくるガキに根負けして、俺はそいつを口に放り込んだ。
ガキには大きなそのエクレアは、俺にしてみれば一口で口に収まる小さなものだった。
俺は目をひん剥いた。
口の中いっぱいに、えも言われぬ味が広がった。
甘くて、香ばしくて、外はフワフワで中はしっとりで。
生まれてこのかた、こんな旨いものは食べたことがなかった。
無我夢中で顎を動かして、口の中に広がる天使の食べ物を大切に味わった。
そんな俺の顔を、ガキは嬉しそうな笑顔で見上げていた。
「お前、これ、まだ持ってるのか?」
あまりの旨さに、俺はもうひとつ食べたくて仕方がなかった。
ガキも嬉しそうにケープの中に手を突っ込んでいたが、どうやらひとつしか持ってなかったらしい。
困ったように眉をへの字に曲げ、ヘラヘラと笑顔を浮かべるだけだった。
「なんだよ。こんだけかよ。」
俺は無性に腹立たしくなった。
その時だった。
通りの先から、数人の男達が走ってくるのが見えた。
多分こいつの親か何かだろう。
捕まるのは色々と面倒だ。
俺は水桶をひっつかむとその場から駆け出した。




