第149話 明鏡止水
ふたりが同時に地を蹴った。
同時に地が抉れ、巨大なクレーターが生まれた。
バルモンが大上段から太刀を振り下ろした。
ミュシャが逆袈裟から金棒を振り上げた。
互いの得物はしのぎを削ることなく、互いの肉体を直接に捉えた。
大太刀はミュシャの鎖骨に叩き付けられた。
金棒はバルモンの脇腹を叩き上げた。
ミュシャの鎖骨は大太刀を跳ね返し、また、バルモンの脇腹も金棒を弾き返した。
ミュシャの肉体を突き抜けた大太刀の衝撃波が、彼女の背後の地面を引き裂き、巨大なクレバスを描き出す。
バルモンの肉体を通り抜けた金棒の衝撃波は、彼の背後の空気を打ち付け、空間に大きな真空の繭を紡ぎ上げる。
ふたりの研ぎ澄まされた肉体は、互いの力を受け止めることなく、受け流す。
細胞のひとつひとつがもはや意志を持つ生物のように、その隙間に力を逃がし、受け流すのだ。
得物を引く時間すら惜しい。
ミュシャは金棒を手放すと、バルモンの腹部に両の掌を押し当てた。
バルモンもまた太刀を捨て、ミュシャの腹目掛けて掌を打ち上げた。
剛による外部破壊が通らぬのならば、柔による内部破壊に頼る他あるまい。
互いの思考は一致していた。
しかし、
それすらも、互いの細胞は受け流した。
柔の波動は互いの身体を駆け巡り、傷ひとつつけることなく、外部へと放出された。
もはや打つ手なし。
互いは、互いの感情、気概とは裏腹に、既に肉体のみが明鏡止水の境地へと到達していた。
全てを受け流す互いの肉体を破壊することなど、もはや不可能。
ふたりは悟った。
「ならばその明鏡止水!」
「ぶっ壊れるまでひっぱたくだけです!」
バルモンが身体を捻った。
ミュシャが身体を屈めた。
ふたりの繰り出す無数の乱打が、互いの肉体を、強かに、強かに、打ちのめし合った。
バルモンが大振りに繰り出す左右のフックがミュシャの顔面を、側頭部を、脇腹を殴り付ける。
ミュシャの針穴を突くような正確無比の左右のストレートが、バルモンの心臓を、肝臓を、腎臓を、鳩尾を殴り付ける。
彼らの背後では、まるで羽毛が抜け落ち舞うように、不可視ながらそれでいて可視、肉体を突き抜けた衝撃の羽が咲いては散っていく。
一体どれだけ打ち込めば、この明鏡止水は耐えきれなくなるのだろう。
ミュシャとバルモンは、互いに一歩も退かず、動かず、足に根を張り、互いに打ちのめし合う。
ひとつ衝撃が抜ける度、足元の土が抉れる。
ふたつ衝撃が抜ける度、ふたりの周囲から空気が押し出されていく。
みっつ衝撃が抜ける度、青と金のオーラが、互いを飲み込まんと侵食していく。
よっつ。
これが最後の手となった。
ミュシャの黄金の暗黒闘気の中に、混じり物があった。
ごく微少にして、およそ魔族の目に留まるものではない。
ほんの些細な混じり物は、黄金の闘気の中にあり、それでも浅紫色の健気な輝きを放っていた。
浅紫色の闘気が、バルモンの口許に触れた。
誰も気が付かない。
バルモンも、ミュシャでさえも。
無呼吸で打ち合うふたりだが、呼吸をする時は必ず来る。
浅紫色は待った。
待って、待って、もはやバルモンとミュシャの周囲に何も無くなっても、ふたりが真空の空間に浮き上がり、それでも互いに殴り合うのを止めなくても、それでも待って。
それは実を結ぶ。
バルモンが僅か、ほんの些細な息を吸った。
浅紫色はバルモンの体内に流れ込んだ。
バルモンの中に入り込み、そして誘惑した。
これはサキュバスの意地。
ミュシャという名のサキュバスの意地。
長政海子に生命を差し出さねばならなかった、悲運のサキュバスの意地だった。
ミュシャの意地はバルモンの体内を進んだ。
肺を進み、血中に取り込まれ、魔力核へと辿り着いた。
とてつもないパワーを燃やすバルモンの魔力核に、ミュシャの最後の意地が与えたのは、束の間の安息だった。
(!?)
バルモンの体に異変が起きた。
ほんの些細な、微々たる異変だ。
例えるなら、ほんの微少な食物アレルギーが発症するような。今日は少し体が重いかもしれないと、ほんの少しだけ感じるような。
だが、今の海子には、そのほんの少しの異変で十分だった。
(わたし、頑張れたかな?)
(はい♪ ミュシャちゃんがいなければ、海子は勝てませんでした♪)
(わたし、役に立てたかな?)
(はい♪ 今、海子がここにいるのは、全て、ミュシャちゃんのお陰ですから♪)
(そっか。良かった……海子ちゃん)
(なんですか?)
(ありがとう)
(お礼を言うのはわたしの方です♪ ありがとうございます♪)
ミュシャの黄金の瞳が怪しく煌めいた。
腰を捻り、腕を引き、その拳の先端に、己の全てを注ぎ込んだ。
今、バルモンの胴体はがら空きとなった。
「花……!」
バルモンには目を見開く間もなかった。
まさに神速。
ミュシャの身体を駆け巡る圧倒的な力は、鋼のバネの如く伸び上がる彼女の全身によって更に更に強化を施され、打ち出された。
バルモンの背が、大きく膨れ上がった。
ミュシャの放った渾身のパンチが、バルモンの身体を貫いた。
バルモンの身体は豪快に吹き飛んだ。
ミュシャは全身を伸ばし、腕を振り切った後、叫んだ。
「………ちょう風月六道輪廻ッパァーッッッッチィィィィ!!!!!」
ミュシャの叫んだ会心の技名は、離れ行くバルモンを見送りながら、夜闇の公園に響き渡ったのだった。
しかし、ミュシャは気付いていない。
パンチの『ン』を言い忘れたことに。




