第141話 仮説
氷煌ヘレイゾールソンの足元から冷気が放出される。タイル張りのプラットホームは瞬間的に冷却され、淡い輝きを放ち始めた。
ほんの数秒でそれは隔たりを越え、ツキカゲまで到達した。
(触れれば足を捕られるな)
ツキカゲは飛び上がった。
瞬間、頭上に影がちらついた。
咄嗟に身をよじったが、彼女は肩口に凄まじい衝撃を受け、叩き落とされた。
頭部への直撃を避けられたことが功を奏し、意識が飛ぶことは回避。
目尻で捉えたのは背後から伸びる、氷で構成されたと思われるしなやかな鞭だった。
(床から伸ばしたか)
骨も筋肉も無事だ。大した重みではない。
浮遊術を発動させ床に叩き付けられることも阻止し、ツキカゲは体勢を整えた。
そこへ氷の鞭が追撃を仕掛けてくる。
視界に3本。この感じなら、死角にもう数本と言ったところか。
大雑把な予測ではあるが、彼女は3体のサルディナを背後に滑り込ませると、魔力展開の思念を送る。3体がそれぞれ頂点となり、彼らの間に魔力障壁面を張る。
視界に収まった鞭はそう速いものでもない。
彼女は更に高く浮き上がりつつ、難なくそれを回避する。
問題は背後。
前方の攻撃も目視しているとは言え、流石に注意を割きながら避けられる速度ではなかったため、背後に関しては魔力障壁頼みだ。
前方の回避を終えた直後、衝撃が走った。
魔力障壁に感じた衝撃は計3箇所。
どれも障壁が破られるほどの力ではない。
だが問題があった。
足に痛みがあるのだ。
見ると、障壁が展開していない方向から伸びた鞭が、彼女の左大腿部を強かに打ち付けていた。
(なるほどな)
足を絡め捕られるのは厄介。ツキカゲはよろめく体を立て直し、胸部を中心に体を後方転回させた。
(プージャの持つ未来予知能力は確か、こいつのものだったな)
腿を打った鞭が彼女を追うように更に伸びる。
スピードだけはかなりのものだ。
およそ浮遊術だけでは逃げ切れない。
ツキカゲは咄嗟に、手近に控えた1体のサルディナを呼び寄せると、自身へと向けて突進させた。
氷の鞭とは比べ物にならないほどの衝撃が走る。
一応は両腕でガードはしたものの、まるでミュシャにでもぶん殴られたかの如き力で、ツキカゲの体は吹き飛ばされた。
吹き飛ばされながら彼女は確認した。
彼女がいた空間の少し、少し上の辺りを、無数の氷の槍が貫いているのを。
(やはり予知はしているな。あたしが移動する先を見越して、きっちりと先回りしながら迎撃している。だが、捉えきれないのは何故だ?)
どちらにしろ、攻められるだけはツキカゲの好みではない。
彼女が召喚したのは、個体として最も充実した状態を保てる20体のサルディナ。
その全てを、氷煌ヘレイゾールソンに向けて解き放った。
(ほう。それなりのスピードだな。威力は分からぬが、まぁ受ける必要はなかろう)
このハズレが放った妙な八ツ目鰻のような生き物は初見だ。
氷煌ヘレイゾールソンは、サルディナの進路を確認するべくビジョンを発動させた。
20体がそれぞれ、しっかりと意思を持ちながら動いている様が見える。
10体は正面から。
7体がその死角に隠れるように追随。
そして残った3体は、背後に回り込んでくる。
(多段攻撃を仕掛けてはいるが、単調と言えば単調だな)
氷煌は魔力を解き放ち、サルディナが通るべき空間に冬を展開させた。
まるでダイアモンドダストが発生するように、ふたりの間の空間がキラキラと輝き始めた。
冷たく輝く空気を切り裂きながら、サルディナの群れが鋭く迫る。
氷煌は、佇んだまま動かなかった。
そしてサルディナ達は氷煌の側を通り過ぎると、床から伸び出た鞭に叩き落とされた。
20体、全てが。
ツキカゲは未だに宙を漂ったまま。
そんな一瞬の出来事だった。
(そういうことか)
この一連の攻防により、彼女の中にはひとつの仮説が立てられていた。
(なら、こうだ)
ツキカゲは再度、サルディナを召喚する。やはり数は20体。
だが今度は単純には突っ込ませない。
氷煌を取り囲むように、周囲へと展開させた。
そのサルディナの動きに合わせるように、氷煌の発した空間の輝きもまた、彼を取り囲むように移動したのが見てとれた。
(恐らくはあの空間の中に氷の結晶が紛れてるのだろう。あそこを通るものは、そいつらによって進路を変えられているのか)
サルディナ達が一斉に青い強酸を放った。
針穴ほどまで絞られた円口で圧縮された強酸は、まるで細く尖った閃光。その威力は金属すら切断する。
一斉照射された強酸が、ダイアモンドダストの中へと差し掛かる。
その時、全てが見えた。
光の帯が鏡にでも反射するかの如く、強酸が輝きを放ちながら空間を駆け巡っていた。
細かい氷の粉を巻き上げながら、何度も何度も空間を駆け巡る青い閃光。
氷煌は身動ぎひとつせず、その中心で悠然と佇んだままだった。
何度かの跳弾を繰り返した後、閃光の動きに異変が現れた。
空間を駆け巡っていたそれらが、一斉に空間を抜けたのだ。
無論、ツキカゲを目指してだ。
(来たか)
ツキカゲが、未だに吹き飛ばされたまま宙を彷徨い続けていた。
宙を漂い、地表からの引力に身を預けたまま、ツキカゲはその様を瞠目し続けていた。
閃光の束が彼女へと襲いくる。
しかし、彼女は身じろぎひとつしなかった。
ただ、一体のサルディナを呼び出しただけ。
秘密裏に呼び出し、上着の背に隠した。
隠し、少しだけ、ほんの少しだけ自身を吊り上げさせていた。
端からはほとんど動きに変化はなかったはず。
だがそれでも、ほんの少しだけでも、ツキカゲの落下には遅れが生じていた。
閃光の束が、彼女の体の下を通り過ぎた。
(やはり)
これにより、彼女の仮説は立証された。