第140話 変な場所での戦い
今ミュシャさえいたならば、ここが一体どういった場所なのか分かったのかもしれない。少なくとも、ツキカゲには全く理解の出来ない場所だ。
いや、例えミュシャがいたとして、あのふざけたゴリラ娘のことだ。まともに教えるとも考えにくい。何ならいつも通りに適当にからかって終わりにするかもしれないし、例え万一、何かの間違いで教えたとして、まともに理解出来る説明をするなどまずないだろう。
とりあえずここが何を行う場所なのか、今の自分には関係がない。
この、やたらと広大なタイル張りの広場。そしてその床を間仕切りするように掘られた幾本もの溝と、溝の底に敷かれた2本の細長い鉄の棒。溝には何か意味があるらしき番号が振られているようだが、意味は全く分からない。
広場の天井と壁は金属の格子にガラスが嵌め込まれているのだが、壁はアーチを描きいつの間にか天井に変わっているような、少なくとも彼女の知る文化圏には存在しない建築技法を用いている。
説明すればきりがないし、正直に言えばツキカゲの強い知的好奇心を刺激して仕方のないこの特異な場所ではあるのだが、それよりも何よりも、まず当面は、目の前に現れた敵をどうするのか?
彼女の行動指針はその一点に絞られていた。
「……なんだ、ハズレか」
目の前に立ち塞がった魔族が放った言葉がこれだった。
ツキカゲは思わず絶句していた。
魔界には存在しない、この駅という名の施設、そのプラットホームの上、数本の線路を挟んで彼女らは出会った。
その相手を彼女は知っていた。
幼少のみぎりから、嫌というほど聞かされてきた。
ガリガリに痩せ細った長身の体躯を、鋭利な刃物のように研ぎ澄まされた氷で覆われた姿。
ほんの数か月前、魔界北部を冬で埋め尽くしたものの、魔王プージャの奸計により陥落した。
しかし、その存在自体は伝説。
数少ない、精霊族が排出した魔王の中でも有数、いや、現代まで伝わる史上でも有数の力を持った魔王。
冬という概念そのものの魔王。
氷煌ヘレイゾールソン。
ツキカゲの前に佇んでいたのは、紛うことなき伝説そのものであった。
ツキカゲの片眉がピクリと跳ね上がった。
今、なんと言った?
口にすることすら憚られる。
ツキカゲの静かな怒りのボルテージは、一瞬で許容範囲を振りきっていた。
確かにこの伝説の魔王にしてみれば、自分はハズレなのだろう。
何故こいつが……いやこいつらが復活したのかは知らない。想像はつくが。
どうせ神の涙があたし達にけしかけるために、冥府の深淵より呼び起こしたのだろう。
仮にも神の権能の片割れ。
神の分身。
プージャに出来得ること程度ならば、やってのけるも必然。
そして、蘇った以上は、己を破った者へ復讐を考えて然るべき。
そこまでも想像は容易だ。
だとしても、だ。
このあたしを、ハズレだとのたまった。
このソーサラーの王を。
このツワンダ・キヌ・カッサーラ・ゲシオを。
ハズレだと、そうのたまったのだ。
これを侮辱と言わず、何が侮辱か。
「つまらん」
ツキカゲの心中を知ってか知らずか、尚も氷煌ヘレイゾールソンは続けた。
もはや問答は無用。
ツキカゲは決心した。
この場で、この者は、潰す。
一方、氷煌の心中や、いかに。
史上最古の魔王、神の涙により再びこの世に転生せしめた。
抗うことは叶わぬ、使役契約の関係。
だが、神の涙は言った。
「君がマルハチさんとミュシャを斃したなら、その時はオイラも相手をしてやるよ。あ、プージャ様はオイラの物だからね。もし万一、手を出してごらんよ。その時は、君のお楽しみは全部お預けだ」
彼にとって、最古の魔王は己の陥落に密接に関わっていた。
この魔王がプージャらに荷担しなければ、己の敗北は皆無と言ってよかった。
彼にとって、プージャらに加え、神の涙は復讐の対象に他ならない。
氷煌ヘレイゾールソンはこの言葉を信じることにした。
神の涙自らが、この歪んだ使役関係を許容した。
甘んじて享受する以外に手はないだろう。
だからこそ、
彼にとって、ツキカゲは最も出会いたくなかった相手。
彼にとって、最も価値の無い相手だったのだ。
(こいつがここにいるとなれば、さっさと片付けねばならんな。どんな組み合わせで当たろうが、破壊神と黒薔薇か、神の涙。どれにしろ分が悪い)
彼の心は既にツキカゲなど遥かに飛び越えていた。
仕掛けたのは同時だった。
ひとりは凍てつく冬を侵食させる。
ひとりは洗練しきった殺戮獣を展開させる。
この互いが最も得意とする、中距離での攻防が幕を開けた。




