第137話 俺の大好きなあの子。
図らずも懐古の情に取り憑かれそうになる自分に気付き、マルハチはそれを払拭しようと躍起になった。
どう考えてもおかしい。
何故、一瞬のうちにこんな場所に自分はいるのか?
何故、繋がれているのか?
どうやって繋いだのか?
誰が?
(幻術か)
マルハチの中で結論が出た。
幻術ならば物理的な拘束など不可能。だとすれば、この牢獄のみが幻術であり、実際に拘束されていると見るのが妥当。
ここがどこかは分からないが、緋哀の樹の上。敵陣の真っ只中なのは間違いない以上、拘束されているのは由々しき事態だ。
(プージャ様は!? ミュシャは、ツキカゲは!?)
周囲を見回すも、彼女らの姿はない。
最後に見た通り、空中で散り散りになってしまったのだろう。
(くそ! プージャ様を探しに行かないと!)
一気に焦燥感に駆られ、マルハチは再び体を起き上がらせようと試みた。
どこからか、音が聞こえた。
足音だ。
マルハチは耳をそば立たせた。
足音はかなり遠い。恐らくはまだ階上を歩いているのだろう。
だが、この足音は、多分ここへ向かっている。
体重が軽い。靴底は革製だが柔らかい。歩幅も狭いらしく、足音の間隔は相当に短い。
それは、子供の足音。しかもとても幼い子供だ。
やがて足音は階段を降り始めた。
段差が高く降りにくいのだろう。
一段降りては立ち止まり、また一段降りては立ち止まり、ゆっくりとゆっくりと降りてくる。
ようやく足音は地下へと辿り着き、次第に大きく、はっきりと聞こえるようになってきた。
足音が止まり、その足音の主の姿を見留めたマルハチは、戦慄した。
「もふもふ。おっきい、もふもふ。」
戦慄した。
戦慄したのだ。
目の前に、目の前の鉄格子の隙間から…………小さな、小さくて、本当に小さくて、鼻も垂れてるし、ほっぺも真っ赤だし、ヘラヘラ笑ってるし、でもニコニコと、ニコニコと笑ってるし、笑顔でこちらを見つめている、小さな女の子が…………覗いていたのだから。
「……プージャ様」
それは、40歳のプージャそのもの。
だからこそ戦慄した。
マルハチの頭脳は全力で電流を流し続けた。
(これはやはり幻術だ。幼き日のプージャを見せて、俺の動揺を誘うつもりか? いやむしろ懐柔か? どちらにしろ、プージャ様を俺の弱みと確信した行為。ならばやはりこれは、ダクリの攻撃に間違いない)
この時、マルハチは既に冷静さを欠いていた。
彼はいくつかの仮面を持つ魔族だ。
執事としての仮面。
マルハチとしての仮面。
そして、
ガルダとしての、自分としての仮面。
今、彼の心の声は自らを『俺』と称したが、それは彼の心が紛れもなく自分としての仮面しか身に付けていないことを意味していた。
(一体プージャ様に何をさせる気なんだ? プージャ様はこの後、牢獄に入ってくる。それから、俺にエクレアを差し出してくれたんだ。まさか、それを再現するのか? 再現してどうする? 餌付けのつもりか……いや、エクレアに何か仕込んであると考えるべきか)
案の定、幼きプージャは格子に無理やり頭をねじ込むと、懸命に隙間をすり抜けた。
幻術と分かっている。分かっているのだが、それでもその姿に、マルハチは涙が溢れ出るのを禁じ得なかった。
彼女は、プージャ。
幼き日のプージャ。
初めて彼を、己ですら、己の存在を知り得なかった、誰にも知られることのない、世界から見放されたはずの、ただの銀狼を、マルハチだと知っていてくれた、プージャ。
ちょこちょことした動きで鼻先に近付いてくるプージャ。
唯一の存在なのだ。
彼を、彼だと認めてくれた、唯一の存在なのだ。
涙で視界が滲み、きちんと見ることすら出来ない。
マルハチは泣いた。
プージャが愛しかった。
目の前で、一生懸命に歩くプージャが、愛しくて仕方なかった。
そしてあの日同様に、プージャはマルハチの鼻先にしゃがみ込んだ。
(例え幻術だとしても……俺はプージャを傷付けられない!)
マルハチは、一息にプージャを噛み殺した。
あまりの出来事に自らを疑った。
自らの意思に反して、彼の体はプージャの小さな体に牙を突き立てた。
口の中に広がる血の臭い。
舌に伝わる柔らかな肉の触感。
固い小さな骨。
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
マルハチの悲痛な叫びが、牢獄に木霊した。
感覚を閉ざした口蓋から、柔らかな何かが溢れ落ちた。
もはやマルハチの脳は、全ての感覚を感じることを止めていた。
考えることすらも。
マルハチはプージャを噛み殺した。
その事実だけが、彼の脳を支配し、渦巻いていた。
(プージャ様を殺した。プージャ様を殺した。プージャ様を殺した。プージャ様を殺した。プージャ様を殺した。プージャ様を殺した。プージャ様を殺した。プージャ様を殺した。プージャ様を殺した。)
目まぐるしく回る呪いの言葉。
呪いの想い。
自分は、愛する女性を、殺した。
ぐったりと横たわるマルハチの瞳からは、輝きは失われていた。