第136話 いざ、緋哀の樹へ。
「おーい、マルハチぃー! 大丈夫ぅー!?」
風切り音が耳を塞ぐも、それでもなんとか君主の声は届いていた。
だがしかし、今のマルハチはそれどころではない。
プージャ、ミュシャ、ツキカゲ。そしてミュシャが背負う特大の金棒。
複数名を背負い翔ぶことすら初めてにも関わらず、それに加えて常軌を逸した超重量の鈍器を運搬するなど、いかに魔王の力を得たマルハチと言えど困難を極めていた。
「背骨が折れそうです!」
珍しくマルハチが泣き言を口にした。
「もう少しぃー! ファイトぉー!」
プージャが首筋に抱きついたのが分かった。
本来なら、まぁ、それは嬉しいだろう。
だが今は違う。
苦しいから鬱陶しい。
マルハチが抱いた感想はそれだけだった。
そもそも、プージャにしろツキカゲにしろ、由来は違えど浮遊術の会得者である。
マルハチの上に乗る必要はないように思えたのだが、彼女らとマルハチとでは飛行速度に雲泥の差があるという事実。
仕方なく、マルハチは全員を背負う羽目になった。
「大丈夫ですよ! 背骨が折れてもツキカゲさんがげろげろバナナで治してくれますから!♪ 背中ベキベキベキ!ってバナナねじ込んでこれますから!♪」
(それは治すと言えるのだろうか?毎回思うのだが、あの治癒方法はどう考えても使役者限定なんじゃないのか?と言うかそれ以前に、あれは異常行動だと僕は思うのだが)
マルハチの心中はこんなところだった。
「そうだ! 安心しろ!」
ミュシャのブラックジョークにツキカゲも乗っかった。
煩わしいことこの上ない。
そんないつもながらのやり取りを行いつつも、マルハチはぐんぐんと高度を上げていった。
枝葉の如く伸びる建築物に沿うように緋哀の樹を昇りながら、遂に頂上部へと辿り着いた。
眼下に広大な石の街が……ミュシャの言う、ロンドンの街が広がった。
街の上空を滑空しながら、街の様子を探る。
(さて、どこに着地すべきか)
マルハチが思案し始めた、その時だった。
どこからかは分からなかった。
紅い光が発されたかと思うと、次の瞬間にはマルハチの翼は光に貫かれた。
突然の攻撃に、マルハチはバランスを失った。
きりもみ状に回転しながら、マルハチは地上へと落下していく。感じていたよりも遥かに激しい回転によって、背に跨がっていたプージャ達は振り払われた。
プージャ達はロンドンの街に散り散りに飛ばされていった。
マルハチは、ただ見ていることしか出来なかった。
―――目の前がグルグルと回転していた。
平衡感覚は失われ、自分が一体どこにいるのかも分からなくなった。
とにかく体勢を立て直さなければならないと思い、マルハチは翼を広げようと試みる。
しかし、強襲により引き裂かれた翼では、上手く気流に乗ることはままならない。
必死にもがくマルハチを嘲笑うかのように、引力は、彼を石の街へと叩き付けるだけだった。
軽く意識が朦朧としていたようだ。
気が付いた時には、マルハチは冷たく感じる固い地面に倒れていた。
落下の衝撃はあったものの、銀狼化は解けていなかったようだ。
感覚が彼にそう告げていた。
瞬時に己の体が置かれた状況を分析した。
体は確かに痛む。だが、損傷は感じられない。指先から足の先まで順に動かしてみる。
問題はない。
マルハチは目を見開いた。
そこは暗い……屋内のように見えた。
(何故!?)
身を捻り、体を押し上げようと試みた。
だが、何かがマルハチの体を引っ張った。
(なんだ!?)
咄嗟に視線を落とし、そしてマルハチは驚愕した。
彼の四肢には大きな金属の枷で封じ込められ、あまつさえ、太い鎖で繋がれていたのだから。
(一体いつの間に!?)
驚くのも無理はない。
確かに少し朦朧とはしたものの、意識は失っていなかった。
墜落し、体を打ち付けられただけなのだから。
(これは……どういうことだ? 幻覚か?)
もう一度体を動かしてみる。だがしかし、やはり枷も鎖も重く太く、彼の体の自由を奪っている。どう考えてみても、本物としか思えなかった。
こうなってくると、問題なのはここがどこなのかということだ。
理由は分からないが拘束されている以上、彼は無防備と言って良い。
いまここで敵襲にでも合おうものならば、対処法は大幅に限られてくる。
(なんなんだ? 一体)
幸いにも首だけは繋がれていないようだ。
マルハチはゆっくりと首を持ち上げると、周囲を見回してみた。
広くはない。とは言うが、全長6メートル以上はある銀狼が横になれるほどの広さなのだから、魔族の住居として見ればそれなりか。
床は冷たい石がむき出しで、かなり湿り気が強く不快だ。壁に目をやっても同じようなむき出しの石のみ。一ヶ所だけ小さな松明が灯っているくらいで、装飾の類いは見られない。
首を回し、背中越しに背後を見て、マルハチはここがどこなのかを悟った。
石壁の代わりに取り付けられた、太い金属の格子。
(牢獄……だって?)
背中が総毛立つのを感じた。
彼には、この場所に心当たりがあった。
思い返してみれば、そうだ。
酸えたようなこの臭い。
体温を奪い取るこの感触。
どこかで水滴が床を叩くこの音。
全て記憶に留まっていた。
忘れることの出来ない記憶の一端として、彼の中に生き続けていた。
ここは、マリアベル屋敷の地下牢と、瓜二つに思えた。