第131話 空飛ぶ街
蒼く。
蒼く輝く、大きな満月。
「月が綺麗ですね」と誰かに語り掛けるのは、「あなたを愛しています」という意味だとか。
プージャはそうミュシャに教わったことがある。
随分とロマンチックなことだ。
他にも教わった。
「雨がやみませんね」は「もう少し一緒にいたい」だし、「寒いですね」は「抱き寄せて欲しい」。そして、「暖かいですね」は、「あなたと共にあるからです」だそうだ。
中天に差し掛かかった月を眺めながら、そんなことを思い出していた。
「綺麗だな。月が」
傍らのツキカゲが呟いた。
プージャは三度見した後、全力で耳を疑っていた。
―――魔界南部。広大な草原に構える、大きな交易の町。
数か月前、マルハチ達が天霊郭へと向かう最中、立ち寄った町だった。
その町の中心部。一際高くそびえた教会の屋上に、彼女達の姿があった。
頭上には満月。
そして、その満月に寄り添うように、黒い影が漂っていた。
緋哀の樹。
プージャの予測通り満月の夜、再びその姿を現したのだった。
既にマルハチは飛び立った。
緋哀の樹の核を、あの樹が空に浮かぶ根源であろう、魔力核を撃ち抜くために。
そしてその核を察知出来るであろう唯一の存在、ミュシャを背に乗せて。
残されたプージャ達に出来るのは、待つことのみ。
もし万一、落涙が放たれた場合。
もし万一、落下する緋哀の樹がこの町に墜ちようとした場合。
それを防ぐことがプージャの仕事だ。
ふたりは注意深く、月の様子を探っていた。
「やはり秋か。冷えるな」
ツキカゲが呟いた。
またもやプージャは振り返ると、今度は四度見した。
もしかして誘われているのか? しかもこんな状況に。
無論、違う。
が、プージャはツキカゲから少し距離を取り、それから頭上へと視線を戻した。
「おい、あまり離れるな。そんなに離れてはやりにくいだろう」
不自然に距離を取ったプージャの挙動に違和感を覚えたのか、ツキカゲが注意を促した。
この言葉には本来なら「貴様の術式に魔力のサポートをせねばならんから」という意味合いが込められている。
普段ならまぁ、察せられるだろう。
が、今のプージャはそんな生易しい思考回路はしていなかった。
「やだスケベ! そんなストレートに!」
あまりにも意味不明なプージャの言葉に、不明ながらもツキカゲは微かな殺意を抱くほどに、無性に腹が立ったのだった。
「よく分からんが、貴様は黙って月を眺めてろ」
ツキカゲは吐き捨てるように呟いた。
そして更にもう一言、
「さぁ、魔王が出るか神が出るか。マルハチ、しっかり頼むぞ」
天を仰ぎながら呟いた。
「っくし!……ズズ……やはり寒いな」
「!?」
そしてプージャは更に距離を取ったのだった。
―――遥か上空。
「寒くないかい!?」
背に乗せたミュシャに向け、マルハチが問い掛けた。
「はい! 寒いです!」
何度も飛行訓練を積んだマルハチは、緋哀の樹が漂う、生物の到達し得ない空の世界が非常に気温が低いことを学んでいた。
ミュシャには氷煌ヘレイゾールソンとの戦いの際に身に付けたほどの防寒具を纏わせていたが、それでも飛行スピードも重なって、ミュシャの体感温度はとてつもなく、地上ではあり得ないほどに低いものになっていた。
「もう少しだ! もう少し高くまで行ければ、大幅に気温が上がる! それまで辛抱してくれ!」
声を発することも憚られるような寒気と気流にも関わらず、マルハチは更に話し続けた。
「はい!」
問い掛けることにより、ミュシャが背中から落ちていないかを確かめる必要があったからだ。
「マルハチさん!」
どうやら今のところは無事のようだ。何やら大声で呼んでいた。
「どうした!?」
「寒いから早くして貰っていいですか!?」
「…………してるよ」
闇夜を昇った。
蒼く輝く満月目指し、マルハチは天を昇った。
高く、高く、空高く。
徐々に、月の下に浮かぶ黒い影が大きくなっていく。
そして遂に、影が月を飲み込んだ。
「ミュシャ! 着いたぞ!」
マルハチは一度旋回すると翼をゆっくりと広げ、薄い空気に身を任せていた。
「わぁ! おっきいですね♪」
背中にいるはずのミュシャの嬉しそうな声が、遥か遠くから届いてきた気がした。
「ああ、想像を絶してたな」
銀狼であるマルハチの口角は、ヒューマノイドのようには笑みを表せない。だが心中では笑うしかなかった。
目の前に浮かぶ樹の大きさに。
「お山みたいですね♪」
そう、それは下界からも視認できてはいた。
だが目の前にして改めて実感出来る。
ミュシャの言葉の通り、巨大な山のような、凄まじい質量の物体だったのだ。
「ひとまず上にいこう。全容を確認したい」
マルハチは翼を翻すと、更に高度が上がっていく。
暗くてよくは見えないが、大樹の枝葉に見えていたそれは、どうやら石造りの建物のようだった。
複雑に伸びる外回廊。そして絡み合う立体的な建造物。
その幾重にも連なり重なり合った建造物が、この存在を樹として認識させていたのだ。
「もう少しで抜けるぞ!」
マルハチが言ったと同時だった。
駆け昇っていた緋哀の樹の側面が途切れ、ふたりは広い夜空へと飛び出した。
「わぁ!」
背中のミュシャが感嘆の声を上げた。
マルハチもまた、そのあまりの景観に溜め息を漏らした。
折り重なった建造物の上部。まるで特大のピザみたいに、平たく拓けた空間。それはあの時、ヴェルキオンネ・サーガに描かれていたものと瓜二つの景色。
緋哀の樹の上には、見たこともない街が広がっていた。
「ロンドンじゃないですか♪」
ミュシャの言葉が届いたが、マルハチにはその意味が理解出来なかった。
しかし、今のマルハチにはその意味を問い質すほどの余裕はなかった。
それだけ、その荘厳な姿に圧倒されていたのだった。
「なんてことだ。本当に、空飛ぶ街があるなんて」
ここだけの話し、マルハチはヴェルキオンネ・サーガに描かれていた街のことは信じていなかった。ただの想像、虚構だと思っていた。
だがしかし、目の前にあるそれは、紛れもなく街だ。
見たこともない、密集した石造りの住宅。その隙間には川すら流れていた。
絵に描かれていた通りにその中心部には一際高くそびえる塔があり、塔の四辺には丸い明かりが灯っている。その全てには長短の棒が見えた。
「本にあった通りの不思議な街だな……。ミュシャ!? 君はこの街を知っているのか!?」
何度も視線を街に巡らせ、ようやくその存在に気持ちが慣れていた頃、ようやくミュシャへと問い掛ける余裕が生まれ始めた。
「はい♪ あれはですね、ミュシャのいた世界の街です! イギリスのロンドンって街にそっくりです!」
「イギリスの……ロンドン……?」
それはどこのことだろうか?
根掘り葉掘り訊きたい気持ちが疼いたが、マルハチは飲み込むように押さえ付けた。
ここでミュシャに色々と問い質したいところだが、いかんせんミュシャの説明は要領を得ないのが常だ。恐らく時間の無駄になるだろう。
今やるべきは、好奇心を満たすことよりも、この空飛ぶ街を墜とすことだ。
「とにかく、任務遂行だ! ミュシャ、魔力が集まっている場所はどこだい!?」
「えっと、えっと! えーっと! あっ! あの辺、あの辺です!」
あの辺。
かなりざっくりした表現で、ミュシャは身を乗り出して指差しているようだ。
無論、背に乗せたミュシャの指先など見えようはずはない。
「あの辺じゃ分からないからな! もっと具体的に!」
「ビッグベンの真下です!」
マルハチは閉口した。
具体的にとは言ったものの、おおよそ固有名詞だろうが、それはそれで分かりにくいものだ。
「すまん! ざっくりと厳密の中間で頼む!」
「あの時計塔の真下ですよ!」
時計……とはまた意味が分からないが、塔と言ったのは確かだ。
塔となればひとつしかない。
「中心部の塔の地下だね!? どのくらいの深さだい!?」
「そうですね……この空飛ぶ街の中心から少し上にズレた辺りです!」
「分かった!」
そこまで分かれば、後は大雑把でも問題ないだろう。
なにせ彼の放つドラゴン族の閃光は、山の半分を抉り取るほどに広範囲に渡って照射出来るもの。
マルハチは即時決行を決めた。
「少し反動がある! 掴まってろよ!」
言葉と同時に背中の毛を引っ張られる感覚が襲う。ミュシャがしっかりとしがみついたのが分かった。
銀狼はゆっくりと息を吸い込み始めた。
肺に冷たい空気が流れ込む。
同時に、腹の奥に火が灯ったように熱量を感じ始める。
熱量は次第に膨らみ、徐々に押し上げられていく。
銀狼はその熱を、喉に溜めるように意識する。
押し上げられた熱が喉を押し広げようと渦巻き始める。
だがまだ早い。
矢継ぎ早に生み出される熱を、はち切れんばかりに喉に溜めていく。
溜めて、溜めて、まだ足りずに溜めて。
体内に太陽が生まれた。
そう感じた時なのだ。
放つのは。
マルハチは顎を開いた。
一瞬の輝きが、夜空を引き裂いた。
光の奔流がマルハチの口腔から吐き出された。
極大の閃光が緋哀の樹を襲った。
荒れ狂う奔流が見知らぬ街を飲み込み、その内部に眠る動力炉たる魔力核を貫く。
はずだった。
「「な!?」」
マルハチは、いやマルハチだけではない。ミュシャすら声を漏らした。
伝説では、緋哀の樹を貫き、地上へと引きずり下ろしたはずの、神殺しの槍たる閃光は、弾き飛ばされていったのだ。
緋哀の樹に触れることもなく。
更に高い空の彼方へと。
その一瞬、緋哀の樹を包み込む壁が見えたように思えた。
閃光の放つまばゆい光に照らし出され、煌めいていた。
壁は事もなさげに閃光の進路を逸らした。
たったそれだけで、マルハチの渾身の一撃は、空の彼方へと消えていったのだった。