第128話 誓い
―――マルハチとミュシャは町に残った。
彼らの存在が、神の涙という未曾有の驚異に立ち向かう者の精神的支柱となる。
三騎竜を含めた数名のドラゴン族が航空用のキャリッジにプージャとツキカゲを乗せ、魔界中を回ることになった。
それは、ふたりが旅立つ前の日の出来事でした。
町外れの共同墓地。
無数に並ぶ墓石の中のひとつ。
墓石の前にはひとつの花束。
そして誰が備えたのか、少し萎び始めた花束がもうひとつ、手向けられていた。
その前に跪き、深く頭を垂れる女性の姿があった。
その背中に影が近付いた。
「どした?」
女性は祈りを崩さぬまま、声だけを発した。
「意外と勘が鋭いんだな」
それもそのはず。影は、足音すら立てずに女性の元までやってきたのだから。
「趣味が悪いぞ」
「顔が悪いよりはマシだろう?」
影は女性の背後で立ち止まると、そのまま動くことはなかった。
「顔なんて、悪くても関係ない」
少し気を悪くしたようだ。自分にしては珍しいと内心で苦笑いを浮かべながらも、影は言い繕うことにした。
「そうだな。貴様はそういう奴だ。失言だった」
「いいよ」
女性は相変わらず振り返ることすらしない。だが、影はその背中から彼女の気持ちを感じ取ることが出来た。
彼女の気持ちは、言葉のまま。
影はゆっくりと女性の傍らに歩み寄った。
「あー、なんだ。そうだ、な」
が、いざこの場に来ると思いの外に緊張するものだ。
先程とは別の意味で、影は胸中で苦笑を浮かべていた。
「見てごらん」
そんな影の心中を察したのか、女性は祈りを崩さぬままだったが、言葉を紡ぎ始めた。
「このお花。前に来たときも手向けてあった。その前も、その前も、その前のときも」
萎れ始めた花束。
そろそろ取り変えるべき頃合いに見えた。
「私が来るとき、必ず私よりも先に手向けられている」
影は静かに腕を隠した。
何故だろう。
自分でも不思議だった。
「ずっと言わなければならないと思っていた」
影は意を決したように、口を開いた。
「聞いてくれるか?」
その気持ちを受け止めるように、女性は沈黙で答えた。
「あたしは、後悔はしていない。あのときは、あれがあたしの全てだった。そうすべきだと、あたしは思った」
「わざわざ嘘をつきに?」
「……嘘……ではない。あたしにはそれが正義だったから」
「ううん。それは分かる。でも、嘘もついてる」
「…………そうかな」
「そうだよ」
「…………すまん」
影はゆっくりと隠した腕を取り出した。
その手には、小さな花束が握られていた。
「何も格好つけることなんてない。思ったままを話せばいい」
女性の声は、優しさに満ち溢れていた。
何故、こんな声を出せるんだろうか。
影には理解出来ない。
否。
理解出来なかった……と言い換えるべきだ。
以前の影では、理解出来なかった。と。
影は息を大きく吸い込んだ。
女性の言う通りだ。
こんなことを言いたかったわけではない。
「今は……今は、後悔している」
影が呟くように言った。
「そうだね。そうだと思う」
女性は頭を深く下げたまま、静かに瞼を開いた。
そこには、萎びた花束が映っていた。
影の後悔が詰まった、懺悔の花束が。
「だけど……」
再び目を閉じた。
「ヴリトラは戻ってこない」
その一言が、影の心に深々と突き刺さった。
「ミリアも、お主が殺めた者達は、誰も」
そう。
これを聞きたかった。
影が求めたのはこの言葉だった。
女性は一度たりとも責めはしなかった。
大切なものを奪った影を、責めはしなかった。
「すまない」
その影の言葉に、女性はゆっくりと顔を上げた。
「謝っても、誰も戻ってこないよ」
それでも、それでも、影はこの言葉を伝えたかった。
伝えて、そして、責められたかった。
それが、影にとっての罰。
「だけど、さ」
女性が振り向いた。
「もう誰にも、私と同じ気持ちにさせないで。そして、誰にもそなたと同じ気持ちにさせないで。それが私からの、そなたへのお願いだ」
その顔には微笑みが湛えられていた。
なんでだろう。
なんでこの女性は、こんな顔が出来るんだろう。
「だから、そなたがそれを叶えられるように、私がそなたを導いてやる」
影の頬に、温かく、でも冷たい感触が流れた。
ああ、そういうことか。
こいつは、全てを受け入れる奴だ。
あたしの犯した罪も、あたしが欲する罰も、あたしが望む贖罪も。
全てを受け入れて、そして、あまつさえ、こいつはあたしを導こうとしている。
ただただ、花を手向けることしか出来なかったあたしにすら、こいつは手を差し伸べ、救おうとしている。
あたしは、あたしは……
「魔王プージャ・フォン・マリアベルXIII様」
「うむ」
「あたしは貴女に、忠誠を誓います。貴女の矛となり、貴女の盾となり、貴女の望む全ての救いを、貴女と共に、この魔界へもたらすことを、ここに誓います」
プージャはにっこりと微笑んだ。
それは、空高く輝く太陽よりも力強く、それでいて穏やかで、包み込むような光。
「ツワンダ・キヌ・カッサーラ・ゲシオ。
お主にも、私のこの命を、預ける。宜しく頼むかんね。私、魔界全土を率いて神の涙と戦うなんてさ、怖いから本当はやりたくないんだからさ」
プージャが笑って言い放った。
ツキカゲも笑った。
「任せろ。貴様にやる気がないなら、その首に鎖を括りつけてでも引っ張っていってやるわ」
「やだ! 部屋で真・地獄白書読みたい!」
「残念だったな。貴様がちゃんとするまで、クロエには続きを描かないよう告げ口しといてやるからな」
「ひぇー、鬼かよー」
「鬼じゃない。鬼よりも更に恐ろしい、魔界最強のソーサラーだ」
「やだやだ、怖い怖い。これだから年増はやなんだよねぇー」
「……その言葉、そのまま貴様に返してやる」
「は!?」
「貴様、321歳だろう? あたしは313歳だ」
「そんな変わんないじゃん! ほぼ同じじゃん!」
「ふん。例え1年だろうと、あたしの方が若い事実は揺るがないからな。年増は貴様だ」
「いやいやいやいや! 見た目は絶対にそっちが年増じゃん!」
「いいだろう、そう思っておけ。あたしは250歳辺りから老化が止まっている。貴様が止まったのは300歳越えた辺りだろう? どう見ても若いのはあたしだからな」
「嘘ー! 絶対に嘘ー! 納得いかなぁーい! 見た目貫禄ありすぎだから!」
「貴様とは半生の質が違うんだ」
「なにこの偉そうな重臣!」
プージャとツキカゲはマリアベルの町を発った。
このふたりが、マルハチやミュシャを抜きで長期間、行動を共にすることに不安を覚える臣下がいたことも事実だった。
だが、ふたりにこのような契りが結ばれたことは、誰も知ることはない。
ふたりに対する不安は杞憂に終わった。
少しでも時間を短縮するために、ツキカゲは毎夜プージャに様々な魔術の授業を行い、それと同時にプージャへと強化の術を施した。
魔王の最大の問題点は、その身体能力の低さに他ならない。
術者がプージャのみである強化の術は、他者に施せても自身には施せないものだった。
しかしツキカゲは、マリアベル家最高機密であるその術をプージャから教示され、それをプージャへと施した。
それもまた、このふたりに交わされた契りがなければ不可能だっただろう。
ふたりは互いに悪態をつきながら、魔界を回った。
―――そして、プージャとツキカゲが魔界全土の行脚を無事に終えた頃には、マリアベル軍には更に3万の兵が集い、その数は遂に10万を超えるに至っていた。
満月はすぐそこまで迫っていた。




