第125話 魔界最強のメイド
ツキカゲの力は、想像を遥かに凌ぐほどに高まっていた。
ふたりが部屋を飛び出した直後であった。
背後から轟音が響き渡った。
振り返らずとも分かる。
ミュシャを守ろうとしたジョハンナとペラは、ツキカゲの前に屈した。
「逃げるな」
背後から、冷たい声が投げ掛けられた。
ミュシャは足を止めた。
「ツキカゲ!?」
フォスターが振り返り、声を張り上げた。
同時に抜刀すると果敢に斬り掛かる。
「邪魔だ」
が、呆気なくもフォスターの剣はツキカゲに薙ぎ払われ、カウンターで叩き込まれた腹部への拳を強かに受けた。
どっかりと膝を突くインキュバス族の髪を鷲掴みにすると、ツキカゲはその細身の体を背後へと投げ捨てた。
廊下で立ちすくむミュシャ。
その目の前に、ツキカゲが迫っていた。
「じっとしとけよ? 大人しくするなら苦しまずに殺してやる」
相変わらずの不快な笑みを浮かべ、ツキカゲが一歩、また一歩と近付いてくる。
ミュシャはツキカゲを見据えたまま、動こうとはしなかった。
「貴様にしては珍しく殊勝だな。だがこちらとしても好都合だ」
言葉を切ることなく、ツキカゲはミュシャへと歩み寄ってくる。
「プージャとマルハチの留守中に貴様を始末し、マリアベルを制圧する。奴らがのこのこ帰ってきたところで、ご自慢の軍勢は朕の手中だ。そのまま奴らを捕縛し、朕が魔界の王となるのだ」
ミュシャの視界をツキカゲの平たい胸元が埋め尽くした。
見上げると、紺碧の瞳がミュシャを見下ろしていた。強烈な輝きを放ちながら。
「ツキカゲさんが魔王になっても、神の涙にやられて終わりなのです。神の涙をやっつけるには特別な力が必要なのですから」
ミュシャはツキカゲを見上げながら口を開いた。
ツキカゲの片眉が吊り上がった。
「そうか、貴様には知らされていなかったか。ならば教えてやろう。【特別】などは必要ない。必要があるとすれば、それは緋哀の樹を墜とすまでのみ」
「マルハチさんがいなければ墜とせませんよ?」
「バカめ。そのために奴らを捕縛するのだ。プージャさえ人質に取ってしまえば、マルハチなぞ意のままだ」
「そうかもしれませんね」
「ああ、そうだ」
ツキカゲは腰からバゼラードを引き抜くと、ミュシャの喉元へとそっと当てがった。
「貴様がいるとジョハンナ達のような連中が湧いて出るからな。どうやら連中にとってみれば、貴様は希望の光らしい」
その言葉に、ミュシャはそっと目を伏せた。
「ミュシャはそんなんじゃありませんから……」
目を伏せ、そう呟いた。
その刹那だった。
ツキカゲの平手がミュシャの頬に叩き付けられた。
そして声を荒げた。
「腑抜けが!」
ミュシャは大きく目を見開いて、ツキカゲを見返していた。
「貴様の戯れ言は聞いていた。何? 目の前の仲間を守れなかった? たくさんの敵の命を奪った? それがどうした? 貴様が奪わねば、他の者に奪われていた。それだけの話よ」
それでも、ミュシャはやはり目を伏せた。
その態度にいよいよツキカゲは怒りを顕にして見せた。
「それが戦だろう!? 貴様はそこに身を置いたのではないのか!? 貴様が皆の気持ちを、心を巻き込んだのではないのか!?」
「はい。だからミュシャは……いない方がいいのです」
その言葉に、ツキカゲは激昂した。
ミュシャの胸ぐらを掴むと思い切り引き寄せた。互いの額が擦り合わさるほどの距離で、ツキカゲは吼えた。
「ふざけるな! いない方がいいだと!?」
「…………」
「貴様はあたしに言ったな!? 『今まであなたが殺した大勢の方の分まで、精一杯生きて下さい』と! 貴様があたしに言ったんだろう!? ならば、貴様もその業を背負って生きろ!!」
「…………」
それでも、それでも、ミュシャは目を伏せたままだった。
「何だその目は? 貴様、まさか、あの言葉すら反故にするつもりか? あたしは貴様の言葉に生かされたのだぞ。それを、貴様、貴様は……」
ツキカゲはたまらずミュシャの体を壁へと叩き付けた。
「いいだろう。貴様は既に生きる屍だ。貴様がそのつもりなら、あたしは大手を振ってマリアベルを制圧するのみだ。貴様はそこで見ているがいい。貴様のせいで多くの仲間が苦しむ姿をな!」
ミュシャの襟首にバゼラードを突き立て、壁に吊るし上げると、ツキカゲは勢いよく振り返る。そこには、床に倒れ伏すフォスターの姿があった。
「手始めにこいつらからだ。朕の天下を始めるにあたり、反逆者は消しておかねばならんからな」
足早に若い執事へと近付くと、その髪を掴み顔を上げさせた。
「ただ殺すだけでは抑止が弱い。……そうだ。こうしてやろう」
フォスターの口許に、一体のサルディナが浮き上がった。
禍々しい円口に生え揃った鋭い牙の群れが、互いを擦り合わせながら不快な音を立てている。
「こいつに喉を食いちぎらせ、二度と話せない体にしてやる。見せしめだ。朕に逆らえばどうなるのか、思い知るだろうさ」
頭を引っ張り上げられながら、フォスターが必死に歯を食い縛っているのが見て取れた。
「バカめ。歯などで防げるものか。顎ごと削り取ってやるわ」
サルディナの円口が回転を始めた、その時だった。
ミュシャの部屋から人影が飛び出してきた。
それはジョハンナとペラだった。
ふたりとも満身創痍と言える怪我を負っている。それでも尚、ツキカゲの野望を阻止せんとに追ってきたのだった。
「お待ちなさい!」
「小生達はまだ終わってない!」
得物を振りかざしたふたりを目に留めると、ツキカゲは瞬時に反応を見せた。
ジョハンナの懐へと入り込み、その鳩尾に拳を打ちつける。
その一撃がメイド室長の瞳から光を失わせた。
更に動きを止めることなく、サルディナを召喚すると、躊躇なくペラに向けて叩き込んだ。
まるで荒れ狂う濁流の如く、凶悪な殺戮獣の群れがペラを飲み込まんと迫った。
そして、時は来た。
サルディナの群れは、霧散した。
その光景を目にし、ツキカゲは口角を上げ、背後へと振り返った。
そこに立っていたのは、言わずもがな。
巨大な、それこそ2メートルを超えるジョハンナの身長と同じほどの長さの金棒を携えた、魔界最強のメイドの姿だった。