第123話 ツキカゲの反乱
―――プージャとマルハチがガルダ島でドラゴン族の秘法を入手したのと時を同じくして、マリアベル屋敷。
「あなた、とても正気とは思えませんわ。」
大きな山羊角。カールした長く茶色い髪。主張の激しい挑発的な肉体をメイド服に包んだオーガ族の女。ジョハンナの声は低く、刺すようにツキカゲに投げ掛けられた。
「そうだよ。そんなこと、出来ると思ってるの?」
焦げ茶色の髪の襟足を刈り上げ、お洒落にツーブロックに決めた、インキュバス族の若い執事。マルハチよりも更に細身の体をタキシードで包んだフォスターもまた、鋭い眼光と共にツキカゲに問い掛けた。
「はっ、バカ共め。今の状況が分かっていないのか?へたれ魔王は不能執事を伴い外出した。ゴリラ娘は戦意を喪失している。今でなければいつやるというのだ?」
紺碧の瞳が怪しく光り輝いた。
ジョハンナにもフォスターにも、ひしひしと伝わっていた。
このソーサラーの女帝は、本気だ。
「分かっていないのは貴女ですわ。本当に貴女にそれが出来るとお思い?私はそれを訊いているのです。」
が、ジョハンナも負けてはいなかった。一度は圧倒し、制圧したこの女に負けるわけにはいかない。そんな意志すら感じ取れる。
翠緑の輝きが、紺碧の輝きを飲み込まんと大きく膨らんだ。
「出来るか、だと?バカが。出来る、出来ないなぞ問題ではないのだ。」
言葉が紡がれるにつれ、ツキカゲを覆う殺気が爆発的に膨れ上がっていく。
それに合わせるように、ツキカゲの周囲に無数のサルディナが出現し始めた。
「やるか!やらないか!だ!」
ツキカゲが吠えた。
同時にサルディナが襲い掛かった。
研ぎ澄まされたナイフの雨が降り注ぐように、激しく、そして、隙間を通すように静かに。
―――ミュシャは、自室のベッドの上で窓の外を眺めていた。
南部から戻ってからと言うもの、彼女は日がな一日、そうやって過ごしていた。
かと言って、プージャのように部屋に閉じ籠ることもなかった。
定時に仕事に出向き、定時に仕事を終え、変わりない日々を過ごす。
ただ、彼女に普段と違うところがあるとすれば、それは彼女から、彼女のトレードマークと言うべき笑顔が失われたということのみだった。
ベッドの上に腰掛けたまま、目の前に置かれた机に視線を移す。そこに並べられていたのは、大小様々なダガーやナイフ。
その机に立て掛けられるのは自慢だった大鎌やポールアクス、まだ試したことのない日本刀にパルチザン……。
およそ年頃の女子の部屋とは思えない殺伐とした景観であるが、それこそがミュシャの部屋だと言われれば納得はしてしまう。
唯一、この部屋で女子っぽさを感じるとするば、それはこの得物達を持ち運ぶためのバッグが、様々な動物を象った愛らしい形をしたものであるということのみだ。
ミュシャは途端に暗鬱な気分に見舞われた。
この部屋の景色が彼女をそんな気分に誘うのだ。
彼女の魔界での半生は、そのほとんどが戦いに傾倒してきた。
それが一目で分かる。そんな部屋。
この部屋が彼女を追い詰めるのなら、本来ならばすぐに片付けて然るべきであろう。
しかし、彼女は致命的に片付けが苦手だった。
無論、ララやアイネ辺りが気を利かせて片付けを請け負う旨を申し出たのは言うに及ばない。
それでも尚この部屋は、ミュシャに扱われることを待つ武具達に埋め尽くされていた。
扉が叩かれた。
決して乱暴にではない。かと言って丁寧でもない。
そのノックには、焦燥が含まれていた。
「ミュシャ。ミュシャ?いるんでしょ?僕、フォスターだよ。」
ミュシャは答えなかった。
ドアを直視したまま、静かに呼吸を整えるだけだった。
「ミュシャ。逃げよう。」
ドアの向こうでフォスターが言った。
「開けるよ?」
それでもミュシャは答えなかった。
ドアノブが捻られ、扉が少しだけ開く。その隙間から現れたのはインキュバス族の青年。
腕から多量の血液を流しながらの姿だった。
「フォスターさん?」
ミュシャは立ち上がった。
「あはは、やられてしまったよ。」
「大丈夫ですか?」
よろめきながら室内に足を踏み入れるフォスターに駆け寄り、ミュシャはその体を支えてやった。
「ツキカゲが反乱を起こしたんだ。止めようとしたけど、返り討ちにあっちゃって。」
「……ツキカゲさんが。」
フォスターの体をベッドへと座らせると、ミュシャは手早く上着を脱がせて傷口を確認する。
彼の左上腕は小さく抉られ、肉が削ぎ取られていた。
間違いなくげろげろバナナの仕業。何度も見てきたミュシャにはすぐに見分けがついた。
「大丈夫。痕は残るかもしれませんが、治ります。」
言いながらベッドのシーツを破ると、ミュシャはフォスターの腕に巻いてやった。
「あ、ありがとう。」
ミュシャが下を向いていたのが幸いした。
一生懸命に手当てする彼女の後頭部を見下ろしながら、フォスターの頬はほんのりと色付いていた。
「はい。これで完成です。」
フォスターは腕を動かしてみた。
一応は動く。が、その見た目はどうあってもコーンドッグの如し。
何故そんなにシーツを巻いたのか、尋ねたい気持ちを抑えながら彼は彼女に礼を言った。
一息つき、フォスターはミュシャへと向き直った。
その眼差しは、真剣そのものだった。
「ミュシャ、逃げよう。ツキカゲは君を殺しにやって来る。」
ミュシャは、目を伏せた。
「時間がないんだ。ジョハンナさんや皆が足止めをしているけど、今のツキカゲは強い。いつ突破されるか分からないよ。」
「ツキカゲさんは、なんで反乱なんかしたんですか?」
「それは僕にも分からないよ。でもジョハンナさんが言うには、きっとツキカゲにとって一番厄介なのは君のはず。君が塞ぎ込んでる今が、ツキカゲにとっては一番の好機に違いないって。」
「……そうですか。」
「さぁ、逃げよう。姫殿下も室長もご不在の今、君までやられたら、それこそツキカゲの天下になってしまう。」
「ミュシャは、逃げません。」
「え?じゃ、じゃあ!?」
その言葉にフォスターの顔付きは一気に華やいだ。
「やってくれるのかい?ミュシャ。」
しかし、
「ツキカゲさんがミュシャを殺したいのなら、ミュシャは……構いません。」
ミュシャの一言は、フォスターの期待を儚くも打ち砕いた。
「何を言うんだよ!ダメだよ、そんなの!」
思わず大声を張り上げた。
「いいんです。ミュシャは誰も守れません。ミュシャはいても仕方ないのです。」
フォスターから視線を逸らしながら、ミュシャは小さく呟くだけだった。
その視線が、フォスターには堪らなく寂しかった。
「ミュシャ!そんなことないよ!ミュシャのお陰で、どれだけの魔族が助けられたと思ってるんだよ?ミュシャがいなければ、もっともっと、多くの犠牲が出ていたのは明らかじゃないか。君が守ってきたんだ。君が……」
「フォスターさん。姫様が何故、戦いたくないのか知ってますか?」
「え?」
「姫様は……敵対する方々のことすら、気にしてました。その方々にも家族がいて、誰かのために戦ってるって。ミュシャにも分かります。姫様は、今は敵対してても、その方々が悪である訳ではない。そう言いたかったのです。」
「…………そ……んな……」
「ミュシャは前に姫様に言いました。『目の前のお友達も守れない人が、知らない人のことを守れっこないのです。』って。」
「…………。」
「でも、ミュシャは、目の前のお友達だって守れませんでした。目の前のお友達を守るために、ミュシャはたくさんの魔族の皆さんから家族を奪いました。お友達も守れなかったミュシャは、そのたくさんの命を奪って良い人間ではありませんでした。」
「それは……」
「だからミュシャは、もう、いいんです。」
「ミュシャ。」
フォスターが、その細く小さな肩に手を掛けようとした、その時だった。
小さな窓が激しく砕け散り、同時に何者かの影が部屋へと飛び込んできた。