第110話 初めての涙
ミリアの体が、力なく崩れ落ちた。
ツキカゲは、変わらず何の表情も浮かべることなくそれを見送った。
手にしたバゼラードから深紅の雫が滴り落ちていた。
「あぁ、なんて悲しい物語なんだ。」
暗闇に声が響いた。
舌っ足らずな、幼い声だった。
「仲間同士で殺し合う。しかも、なんだって?いがみ合っていた者同士がようやく仲良くなったんだって?」
笑っていた。
「悲しい、悲しいなぁ。オレは悲しいよ。ねぇ?ソーサラーの王様殿?」
暗闇の奥から、足音すら立てずに現れた。
ドラゴン族特有の特殊な色素を持った空色の髪。長い前髪から覗く空色の瞳。小さな体躯を覆う、ドラゴン族の王族しか着ることを許されない衣装。大きな翼。
天霊ブローキューラだった。
無論、魂を囚われたツキカゲが返すことはない。
「オレ、悲しいの苦手なんだよ。」
それでも尚、この幼き魔王は声を上げ続けた。
「だからさ、トドメ。きっちり刺してあげなよ。まだ生きてるじゃん、そいつ。」
天霊が顎で指し示した。
その先では、確かにミリアが生きていた。血を吐き、小刻みに体を震わせ、ツキカゲのニーハイブーツを握り締めていたのだ。
「オレの城に乗り込んできた奴なんて初めてだ。本当に腹立たしいよ。2度と真似する奴が現れないよう、開き干しにして屋根に掲げてやろうぜ。カラスが食い散らかすまでな。」
自分で言って、自分で笑っている。どうやら相当にツボに入った冗談だったようだ。
悪趣味なこと、この上ないが。
「はぁーあ、面白かった。んじゃ、やれ。」
冷徹な命令が暗闇に響き渡った。
ツキカゲは、動かなかった。
「あれ?聞こえなかったかな?おい、ソーサラー。やれ。」
それでも、ツキカゲは動かなかった。
冗談ではない。
あんな悪趣味な冗談、過去の自分だとしても言えたもんじゃない。
それを他人にやらせるだと?
舐めた口を利きやがって。
(だが、体が、動かん。)
「なんだよ、使えない奴だな。仕方ない。」
ブローキューラがゆっくりとツキカゲに歩み寄ってくる。
(やめろ。近寄るな。)
未だにミリアの鮮血が滴るバゼラートをツキカゲの手から取り上げると、倒れ伏すミリアの傍らに立った。
(やめろ。それを返せ。)
「こんな小者のトドメをオレがやんなきゃだなんて相当気分が悪いけど、まぁ、何かあんたも一生懸命抗ってるみたいだし……」
まるで汚物でも触るかのように、指先だけでバゼラードを摘まむ幼女だったが、気を取り直したように持ち手を握り変えた。
(やめろ!離れろ!)
「あんたへの見せしめにも都合がいいか。オレに逆らったらどうなるのか……」
ゆっくりと膝を曲げ、腰を下ろす。
(やめろ!やめろ!そいつに、そいつに、ミリアに、手を出すな!)
「思い知れ。」
ブローキューラが無造作に短刀を突き立てた。
ミリアの心臓に、寸分違わず。まるで隙間に差し込むかのように。
ツキカゲの脳裏に、ミリアの言葉が蘇った。
腹を刺され、もたれ掛かりながら、最後にツキカゲに伝えた言葉が。
『目を覚まして。皆が待ってます。』
ツキカゲの足を掴む、ミリアの手から力が抜けたのが分かった。
(うおぉぉぉぉぉ!貴様ぁぁぁぁぁ!!)
その瞬間、ツキカゲの中に流れる血潮が一気に沸き上がった。
全身が心臓になったかのように、激しく脈打っている。体中が焼けるように熱く滾る。頭の先から足の先まで、締め付けるように痺れる。
ツキカゲは全身の力を振り絞り、腹の底から声を張り上げようともがいた。
「へぇ!こりゃ面白い!オレの支配から抜け出すような奴がいるのか!?」
その姿を目にし、幼女は歓喜にも似た声を上げていた。
(貴様は!貴様は!)
体中が軋む。それでも、ツキカゲはもがいた。
(貴様は!貴様は!…………絶対に許さん!」
体に自由が戻った。
ツキカゲは遂にドラゴン族最強の王の支配を破ったのだ。
「いいぞ!面白い!」
まるで狂ったかのように笑うブローキューラ目掛け、ツキカゲは召喚したサルディナを放った。
かつて無いほどに力がみなぎっている。
サルディナのスピードは、もはやミュシャに匹敵するほどに鋭く研ぎ澄まされていた。
笑い続ける幼女の四肢にサルディナが食らい付いた。
細くか弱いその体は、一瞬のうちに引きちぎられる。
「笑うなぁぁぁぁぁ!!」
手足をもがれ、宙に浮いた天霊の体に向けて、ツキカゲは渾身の拳を叩き付けた。
筋組織が切れるほどに力を籠めた一撃は、天霊の小さな体を暗闇の彼方へと弾き飛ばした。
肩で息をしながら、ツキカゲは膝を突いた。
ミリアの首筋に手を当てた。
何も、感じられなかった。
既にミリアの生命は、終わりの時を迎えていた。
生まれて初めてだった。
誰かのために涙を流すのは。
「あーあ。お前………」
暗闇から声が聞こえた。
ツキカゲは咄嗟に顔を上げた。
「オレに本気を出させるなよ。」
幼女の物とは違う、低く、唸るような声。
暗闇に光が浮いている。
空色に輝く、ふたつの深い光。
ツキカゲの目線よりも遥かに高い位置だ。光と光の距離も不自然に離れている。
足音が聞こえる。床を震わせる、激しい足音が。
「この姿は嫌いなんだ。疲れるし、可愛くないし。」
ツキカゲの前に現れたのは、彼女の倍はあろう巨大な体躯を持った、人型をしたドラゴンそのものだった。
「お前、死んで詫びろ。」
ツキカゲは素早く立ち上がり、全力で使い魔を解き放った。