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響たちは家を出ると、公園の方へと戻っていった。
目的があるわけではなかったが、それが自然のように思えたからだ。
さっき見た少女の姿が頭のなかをチラついている。
「あー、そういえば思い出しました」
突然、伽音が惚けたような声を発した。
「何を?」
「決まっているじゃありませんか。あの家に住んでいた家族の話ですよ」
「家族?」
「草薙さんが見た親子のことですよ」
響はドキリとした。さっきあの家の中で見た少女のことは伽音に話していなかったからだ。
「キミはボクが何を見たか知っているのか?」
「もちろんです。私は知っています。あなたと一緒にいたじゃありませんか」
そんなはずはない。彼女が部屋を覗いた時、あの少女は一瞬で姿を消してしまったのだから。だが、そんなことよりもアレが何なのか知りたい思いのほうが強かった。
「教えてくれ。ボクが見たアレは何だったんだ?」
「あれは真実です。ここで10年前に起こった事件の事実」
「10年前?」
「10年前、あの家で殺人事件が起こりました。殺されたのは8才の少女、殺したのはその実の父親です」
伽音はまるでもともと知っていたかのように流暢に答えた。
「父親が娘を殺した?」
「そうです。もともと仲の良い家族だったのだそうです。しかし、父親には大きな問題がありました。それが子供を愛せないということです」
「子供を愛せない?」
「驚くようなことではありませんよ。子供を愛せない。もっとハッキリ言えば、子供が嫌いという親はいるものです。それでも仕事が順調だった頃は良かったのです。ところが父親は会社で小さな失敗をしたことで左遷されてしまったのです。左遷といっても、そう大げさなものではありません。ほんのちょっと暇な部署への人事異動。仕事が嫌いな社員なら、むしろ、早く家に帰って家庭サービスが出来ると喜ぶくらいの異動でした。しかし、仕事人間だった夫は簡単に家庭を大切にする父親にはなれませんでした。毎日、定時に帰ることは出来るけれど、それは本人にとってむしろストレスにしかならない。そのストレスは当然のように家族に向けられることになりました。酒を飲んで愚痴をこぼしたり、暴れたり。そして、そんな夫を妻が愛せるはずがありません。たちまち夫婦仲は悪くなり、結局、離婚することになったのです。母親は家を出ていくことになりました」
「子供は?」
「父親のもとに残りました」
「どうして? 父親は子供が嫌いだったんだろう?」
響にはどうしてそうなるのかよくわからなかった。
「はい、子供のことは嫌いでしたが、奥さんに対しては未練を残していたようです。子供を手放してしまったら、奥さんとやり直すことも出来ないと考えたのでしょう。そして、残念ながら経済的に余裕のない奥さんは子供を連れてはいけなかった」
「それじゃ子供はーー」
「はい、子供にとってそれは最悪な結果だったでしょう。自分を愛してくれる母親が家を出て行き、自分を嫌う父親と一緒に暮らすことになったわけですからね」
「その後、どうなったの?」
「どうにもなりません。なるようになっただけです。父親は毎日のように娘に暴力をふるうようになった。蹴られ、殴られ、時には煙草の火を身体に押しつけられたり、そして、行き過ぎた暴力によって子供は死ぬことになりました」
なぜこの少女はそこまで詳しい事情を知っているのだろう。だが、それを訊いたところで決して正直に答えることはないように思えた。
「ひどいな。そんなに嫌いなら手放せば良かったのに」
「そうです。捨てれば良かったのです。捨てれば、彼女はまだ誰かを頼って生きることが出来たかもしれない。しかし、父親はそうしなかった。捨てるのではなく壊したのです」
伽音はしみじみと答えた。
「最初、彼女の姿はただの影だった。でも、ボクが触れた瞬間、彼女は元の姿に戻ったように見えた」
ただの幻覚かもしれないと思いながらも響は言った。だが、伽音はその言葉を否定しようとはしなかった。
「それがあなたの力だからなんじゃありませんか? あなたは真実を見つめなければいけない。それこそがあなたの力であり、あなたの宿命なのですよ」
「キミは何を言っているんだ?」
「何を? そんなことはあなたが一番わかっているのではありませんか? あなたは、私が話さなくても10年前のことを理解していたんじゃありませんか? さっき、あの少女に触れたことで、あなたは彼女を理解したはずでしょう?」
* * *
公園まで戻ってくるとーー
「では、私はこの辺でお別れしましょうか」
そう言うと、伽音は出会った時と同じように公園のネットフェンスに飛び乗った。中々の運動神経で、上手にバランスを取りながらゆっくりと歩き始める。そこで初めて、その靴だけが彼女の服装のなかで一箇所だけ黒いということに気がついた。まるで化けそこねて尻尾だけが揺れている狐のように思えた。
「キミはどこに行くの?」
伽音はクルリと振り返る。
「どこって決まっているじゃありませんか。家に帰るんですよ」
「ところで伽音さん、キミはどうしてこの公園にいたの?」
「別に? 暇つぶしのようなものですよ」
「本当に?」
「おや? 私が嘘をつく理由があるのですか?」
「いや……そうじゃないけど」
響は口ごもった。伽音はそんな響を見つめ、ニッコリと笑った。
「まあ、本当のことを言うと、私も人を捜していましてね」
「人を? まさかボクを?」
「いえいえ、あなたではありませんよ、草薙さん。私が捜しているのは親のような存在です」
「親?」
「実は私、親に捨てられたんですよ」
「捨てられた?」
そのショッキングな言葉に響は聞き返した。
「そうです。さっきの少女とは逆です。壊されたのではなく捨てられた。ただ、捨てた本人にその自覚はないのですよ。そういう意味ではさっきの父親とはだいぶ違いますね」
響には伽音の言うことの意味がわからなかった。
「キミの言っていることは、やっぱりわからないな」
「さて、何を言っているんでしょう? ただ意味深に喋っているだけで中身などないのかもしれませんよ」
伽音はクックックと笑った。
「キミはボクをからかっているの?」
「まさか。私は真剣に話しているのですよ。私はいつかその親に会いたいのです」
「会ってどうするの? まさか復讐するとか?」
「さあ、それはわかりませんね。その時にどんな感情がわきあがってくるものかわかりませんから。でも、その時が私は楽しみなのです」