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街を案内すると言った伽音だったが、ほとんど路地から路地を歩き続けているだけで、それ以上の案内など何もしてくれるわけではなかった。
それでも響は素直に伽音の後をついていった。
いつの間にか、響たちは住宅街の隙間を進んでいた。
そんななか、響はふと足を止めた。
「どうされましたか?」
「あれは?」
響は向かいに見える赤い屋根で北欧風の大きな家に目を向けた。
立派な家だが、まるで人の気配がしない。窓ガラスはまるで子供の的にでもされたように何枚も割られ、外壁なども長年掃除などされていないように見える。
「アレ……って? ただの空き家ではありませんか?」
「いや、そうじゃなくて、今、あの家から悲鳴が聞こえた気がしたんだ。聞こえなかった?」
「おや、そうでしたか? 私には聞こえませんでしたが」
響は気になって近づいていった。すると再び、かすかにその家の中から声が聞こえた気がした。
助けを呼ぶようなか細い声。
「やっぱり聞こえる」
「私には聞こえませんね」
「いや、あれは子供の声だ」
響は走り寄った。だが、家は高い鉄製のボーダーフェンスで囲まれている。
「そうですね。入ってみましょうか」
そう言って伽音が門を押すと、ギギギっと錆びた鉄の音が鳴って門が開く。伽音は迷うことなく庭へと足を踏み入れていく。
躊躇していると、伽音が振り返った。
「どうされました?」
「いいのかな? 空き家っていっても管理している人がいるんじゃないかな」
「そうですねぇ、確かにこれは不法侵入かもしれません。でも、悲鳴が聞こえたのでしょう? 何か起きているのだとすれば緊急避難的に許されるかもしれません。それともさっきの悲鳴、聞かなかったことにして帰りますか?」
「いや……そうだね。行こう」
確かにさっきの声が気にならないわけではない。周囲に人影がないことを確認してから、伽音の後に続いて響は足を踏み入れた。
* * *
汚れた池の水、錆びついた物干し台。
もう何年も人が住んでいないことが感じられる。
周囲の様子を伺いながら玄関へと進む。
ドアの鍵はかかっておらず、響たちは問題なく家の中に入ることが出来た。だが、それはさらに不法侵入という罪が深くなったことにもなることだった。
「こんにちはぁ。誰かいらっしゃいますか?」
奥に向かって伽音が声をかける。だが、その呼びかけには何の反応もかえってこない。
「誰もいないみたいだね。さっきのは気のせいだったのかな」
「さあ、まだわかりませんよ。悲鳴が聞こえたということは、それは何かが起きているという証拠です。被害者がいるとすれば、呼びかけに応じられないかもしれません」
そう言って伽音は土足のままに入っていく。伽音の言うことにも一理ある。戸惑いながらも、それでも響は伽音に続いてそのまま家の中へと入っていった。
リビングは散らかり放題に散らかっていた。
床に巻き散らかった書類の多くはどこかから送られた請求書のようだった。
それでもそれはむしろ、今、まさに誰かがそこに住んでいるかのように錯覚させるものだった。
「ここには誰もいませんね」
「うん」
「ところで草薙さんは京都で長年暮らしていたには訛りがありませんね」
伽音が響に声をかける。
「両親からそう育てられたんだ」
「おや? 何のために? 上京した時に田舎者だと思われないためですか?」
「京都の人間は自分たちが田舎者などと思う人はいないよ」
伽音は素直に頷いた。
「なるほど。ではなぜ?」
「あまり『色』がつくことを好まない人たちなんだよ」
「色?」
「個性……というのかな。言葉とか、行動とか、癖がつかないようにって」
そのため、むしろ、子供の頃は標準語しか話そうとしない響は周囲から変わり者と思われたものだ。
「変わったご両親ですね。大抵の場合、多くの親というものは子供には個性を求めるものじゃありませんか。周りは気にするな。自分にしか出来ないことを見つけるんだ……みたいな」
「そんな熱い性格じゃなかったよ。まあ、変わった両親であることは否定しないけどね。でも、必ず親が子供に個性を求めるというものではないよ」
「おや? そういうものですか?」
「個性というのはプラスになることもあるけど、マイナスになることもありえるからね」
「合理主義的な考え方ですね。出来る限り悪目立ちしないようにってことですか」
「そういうことかもしれないな」
二人はリビングからキッチンへと向かった。
床には食器が散らばり、何枚もの皿が割れている。人が住んでいないというだけではない。ここで何があったのかを想像するに十分なものだ。
「あなたのような人は、こんな模様のない食器なのかもしれませんね」
伽音が足元の真っ白な沙羅を見下ろしながら言う。確かに母からもそんなことを言われたことがあった。
「うん、魯山人の器に盛る料理は作れないって」
「器ですか。なるほど面白い表現ですね。だから子供に個性を求めないということですか。オンリーワンでもなければナンバーワンでもない」
「そんな歌があったっけね……あ、いや、あれはナンバーワンでなく、オンリーワンであれという歌か。オンリーワンになるほうが難しいんだけどね」
「確かに。オンリーワンであるためにはナンバーワンではなければならない。自分だけが認めるオンリーワンなんて意味ありませんものね。そんなオンリーワンを目指すなら、何でも染まれるほうがずっと良い」
すごいことを言う子だな、と響は伽音を見て思った。
「やはり誰もいないようだね」
「草薙さんは2階を調べてくださいよ。私は1階を調べます」