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草薙響にとって、その引越と転校は突如降って湧いたものだった。
「響、おまえは来年、京都を離れ岩手の陸奥中里市へ行きなさい」
幼い頃から、草薙家の中で父の言葉は絶対だった。『はい』と答えるのが必須であった。父が怖いということもあったが、それ以上に父のやることに間違いはないという誇りがあったからだ。
それでも高校1年の夏の終わりにそれを言われた時は、生まれて初めて強い反抗心を持ったものだ。ただ、反抗心を持ったところで、決してその言葉をひっくり返すことは出来ないだろうということを響は知っていた。結局、一呼吸後にいつものように『はい』と答えるしかなかった。
そして、2年生になる春休み、草薙響は陸奥中里市へ引っ越してきた
――といっても、それは響だけのことだ。
普通、子供の転校の理由なんてものは両親が仕事の関係で……というようなことなのだが、なぜか、今回、両親はそのまま京都に残って響だけが引っ越すことになったのだ。
少し町の中心部から離れた月4万8千円のアパートは、風呂とトイレがあるだけのシンプルな部屋で、どこの誰かによって勝手に決められたものだった。
昨夜はホテルに泊まり、朝からアパートで引越し業者と会って、昼前には荷物を全て詰め込む。全てといっても布団と簡単な調理器具、勉強道具だけで、テレビや洗濯機などはこちらで揃えるようにとお金を渡されている。
ダンボールで囲まれた部屋の真ん中、コンビニで買ってきたお蕎麦を食べ、一人でしみじみと引越し感を味わってから、響は寝具などの生活用具から片付け始めた。
とりあえず今夜一晩眠ることが出来るようにしてさえおけば、他の片付けは明日以降のんびりやればいいだろう。
午後2時。
響は母に向けて、引っ越し作業がとりあえず無事に完了したことを告げるメールを送信してから、近所を探検するために地図を片手に部屋を出た。
長年住んでいた直線で区切られたような街と違い、この街の道はやけに入り組んでいるように感じる。北に向かっていたはずの道が、少しずつくねったあげくに西に東にと方向を変えている。
通学のためのバス停の場所、コンビニ、スーパー、郵便局など、日々の生活に必要な店や施設の場所を確認していく。
アパートのすぐ裏手には小さな公園もあるのだが、今は子供が学校に言っている時間帯なのか公園内に人の姿は見えない。だが、この公園を起点にすることで、道に迷わずに済みそうだ。おそらくこれから毎日のようにこの公園を眺めて通学することになるのだろう。
人気のない公園を右手に眺めながら周囲を見回して歩く。
コンパクトな街並みで、四方2キロ程度の中に必要なものは全て詰まっているような感じがする。
その時、響の背後から声が聞こえた。
「道に迷われましたか? さっきからこの辺りをウロウロされていらっしゃいますね」
振り返ると、公園のフェンスの上にやじろべえのように両手を広げ、バランスを取りながら一人の少女が立っている。
ついさっき通り過ぎたばかりの場所。いったい、いつの間に彼女はあの場所に現れたのだろう。
透き通るような白い肌、そして、白いロングスカートにセーター、白いフードコートを纏ったその姿は一瞬だけ『雪の精』を想像させた。だが、それはあくまでも外見のイメージに過ぎなかった。
なぜか響には、その少女の姿は黒い闇が白い衣を纏っているように感じたのだ。
「いや、別に迷ったってわけじゃないよ」
「でも、この辺りの地理には疎いように見えますよ」
そう言いながらフェンスの上を歩いてくると、少女はフワリと響の前へと飛び降りた。響よりも少し小柄な少女は、同じくらいの年頃だろうか。
「確かに。でも、だからといって迷っているってわけじゃないよ」
響が答えた瞬間ーー
「やあ、やあ、やあ」
彼女は何かに気づいたかのように、ぐっと顔を響に近づけてきた。深い闇が凝縮されたような瞳で響の顔を覗き込む。
「何?」
「あなた、面白い魂をしていますね」
「魂? え? 何?」
少女の言葉に響は戸惑った。
「あなた、どちらから来られました? この辺りの方じゃありませんよね?」
「今日、引っ越してきたんだ」
少女は嬉しそうに微笑むとーー
「なるほど引っ越してきたばかりなのですね。じゃあ、ご案内しましょう。私が、この町を案内してさしあげましょう」
「キミは?」
「私は双葉伽音です」
少女は名乗った。