ドラゴンクエスト
「こ……こりゃあ……!」
襖を少し開けて中を覗いていた竹蔵は、思わず甲高い悲鳴を上げそうになり自分の口元を必死に抑えた。尻餅を付きそうになりながらも何とか堪え、その間も、彼の目は襖の奥に釘付けになっていた。
「そんな……まさか……!」
竹蔵は自分が狐につままれているのではなかろうか、と試しに自分の頬を思い切り抓った。途端に、虫歯を患っていた竹蔵の右頬に激痛が走った。どうやら夢ではないらしい。竹蔵は心の臓が鐘の音を早くし、全身からじんわりと冷たい汗が滲んで来るのを感じた。念のためもう一度頬を抓り、何度も目を擦ってから彼は再び襖の中を覗き込んだ。
「……!」
……間違いない、客間の中にいるのは、竜であった。
竹蔵は興奮のあまり、もうすでに残されていない髪の毛を毟ろうと頭の皮を引っ掻いた。昨晩確かに、この客間に客人を泊めはした。『影沼』と名乗る、腰に立派な脇差をさした野武士で、信州の方から旅を続けて来たのだと言う。三十代も手前かそこらの客人が、着物を着て二本足で立っているのを、竹蔵は昨晩確かに見た。
だがどうしたことだろう。
一晩経って部屋の中にいるのは、蛇のように見事な緑色の鱗に包まれた、伝説上の生き物ではないか。竹蔵は音も立てず、その場にヘナヘナと座り込んだ。
目の前で起きていることが、信じられなかった。中国の、霧にでも包まれているような山奥ならいざ知らず。こんな日本の片田舎の、出るといったら狸か猪くらいが関の山な辺鄙な土地に、よもや竜が化けて出ようとは。たとえ妻や息子に話しても、こんな話は信じないだろう、と竹蔵は思った。彼奴らはそもそも、屏風や絵ですら竜を見たことがないだろうから。
『どうした?』
「!」
すると、突然客間の中から話しかけられ、竹蔵は飛び上がった。いつの間にか、竜が目を覚ましてその首を擡げていた。黄金のように輝く丸い目と、その中に浮かぶ深黒の瞳に見つめられ、竹蔵は思わず身震いした。
『近う寄れ』
「……!」
竜は竹蔵を中に入るように促したが、彼の足はまだブルブル震えて動かなかった。チロチロと口元から覗く真っ赤な舌や、頭から生えた二本のツノ、それから時折光る尖った銀の歯にばかり目がいった。自分の家に化け物がいる以上、放って置くわけにも行かない。竹蔵は竜に気づかれないよう、背中の、帯の中に隠した短刀を震える手で握り締めた。
「近う寄れ、と言われましても……」
『見つかったものは致し方がない。これも何かの縁じゃ。ほれ』
「!」
竹蔵が何とか掠れ声を絞り出すと、竜はあろうことか尻尾で自分の首筋を切り裂いた。途端にぶわっ!! っと部屋一面に真っ赤な鮮血が迸り、竹蔵は思わず「ぎゃっ」と悲鳴を上げた。
「な、なななな何をするんですッ!?」
『飲まぬのか?』
「飲むって??」
首筋の血は止まることなく、だらだらと、竹蔵が昨日客人のために用意した麻の布団の上に滴り落ちた。一瞬にして処刑場のようになってしまった部屋の中で、竜が返り血もそのままにニヤリと笑った。
『竜の生き血は、この世で最もお目にかかれないものの一つだぞ。飲めばたちまち病は治り、不老不死、精力増強、滋養強壮、腰痛改善、リウマチ、タウリン1000mg配合……とにかく希少価値が高い代物なのだ』
「ひぃぃ……」
自分が短刀を振るうまでもなく、竜は己の首筋を切ってしまった。辺り一面血の池地獄、その絵面の凄まじさにすっかり血の気が引いてしまった竹蔵は、何とか客間へと転がり込んだ。そして竜の首元に口を近づけ、言われるがままに滴り落ちる竜の血を啜り始めた。
「げぇぇ……!」
『こら、吐くやつがあるか。全部飲み込め……そうだ。もっと喜んだらどうだ。お前は今、世界中の誰もが血なまこになって求めているものを手に入れたんだぞ』
「へぇ、へえ……こ、これを? 飲んだらどうなるんです?」
『フフ……それはな……』
口元を真っ赤に染め、息も絶え絶えになった竹蔵に顔を近づけ、竜は彼の目を覗き込んだ。
『どれ……今に変わって来おるぞ』
「ん……むぐ!!」
竹蔵は目を見開き、伏せるようにその場に倒れ込んだ。全身の骨が、内臓が、筋肉が、溶けるように熱かった。全身を燃やされたかのような熱さと痛みに襲われ、彼は絶叫した。滴り落ちた竜の血の池の中で、彼は必死に手足を伸ばし、何かを掴むように藻がいた。
「……!!』
そして、竹蔵は自分を襲う異変の正体に気がついた。目の前の血の海に映る自分の顔……今まで人間の形をした、皺くちゃのお爺さんだった竹蔵の顔が……まるで蛇やトカゲのように歪に形を変化させていた。舌は蛇のように先割れ長く、にゅっと突き出た口の先には立派な二本の髭が生えていた。髪の毛一本生えていなかった頭からはツノまで伸びている。血の池に映る自分の姿を覗き込み、竹蔵は絶句した。
『……!!』
「……しばらくは、人間の言葉は喋れまい。竜になったばかりだからな」
いつの間にか、昨日の影沼の姿に戻っていた竜が、着物に袖を通しながら竹蔵に笑いかけた。
「どうしたんですか!?」
するとそこへ、先ほどの竹蔵の悲鳴を聞いて彼の妻と息子がやって来た。二人は客間の中を覗き込むなり、「ぎゃっ」と叫んでその場に尻餅をついた。
「お……おおおおお侍さん! その化け物は……!?」
「ン? 此奴は竜と言ってな、街の方では有名な伝説の……」
「ひぃっ!?」
蛇のような目でぎょろりと見つめられ、竹蔵の妻は尻餅をついたまま後ずさった。
「こ、殺してッ! 早く退治してください、そんな化け物ッ」
「ン? 良いのか?」
「当たり前ですッ。早く、食べられちゃうッ」
「助けてくれえ!!」
恐怖に駆られた竹蔵の息子は、絶叫しながら走って行ってしまった。影沼が低く唸った。
「この家の者の頼みなら……」
『……!!』
竹蔵は家族の誤解を解こうとして……自分が今人間の言葉を喋れないのに気がついた。竜になった竹蔵は、思わず影沼を振り返った。影沼はいつの間にか、竹蔵が隠し持っていた短刀を握り締めていた。
『……!!』
「悪く思うな。見つかったものは、致し方がない」
……最後に竹蔵が見たのは、妖しく銀に光る刃の切っ先であった。