第2話 二度目の異世界転移
小嶋 光宏は、目を開けた。
不思議なことに立ちながら意識を失うという器用なことをやっていたらしいのだが、目を開けると、自分が直立して立っているという事実に気づき、軽いめまいを感じ、バランスを崩して膝をついた。
「おっと‥‥ケッ‥‥ゲホッゲホッ」
思わず声が出たのだが、のどが張りつくように乾いていた為に思わずむせて咳をしながら、体をくの字に曲げた。
床についた手からは固い石の感触が伝わり、冷たくひんやりとしていた。多少ザラザラとした感覚はあるが、概ね平らな石床だ。
ある程度の体の感覚が戻ってきたところで、小嶋光宏はゆっくりと顔を上げた。
部屋を照らす灯りは一切見当たらず、周囲は真っ暗な部屋の中だった。が、しだいに目が慣れてきて、周囲の様子がうっすらと浮かんでくる。
体内の魔力の大部分は消失しているようで、ここまで体が重たく感じるのは久しぶりのことであったが、暗視の能力を維持する為の微々たる魔力操作くらいは造作もなかった。
「二度目とはいえ、やっぱり慣れないものだよなあ‥‥あれから二百年くらい経ったのだっけか?」
自分の誕生日を祝い、年齢を数えることについては早々に諦めたのだったが、たまに酒場などで、今年って何年だっけ、と知り合いに確認して自分が何歳だったのかを思い出す程度だった。
たまたま今年は新年祭で、自分が二百二十歳ーー二十歳のときに異世界に召喚されてからちょうど二百年ということで覚えていたのだった。
すっかりと忘れてしまっていた異世界へ転移したときの感覚を二百年ぶりに味わい、あまり気分の良いものではなかったと再確認しながら、周りの様子をうかがう。
床には、ほとんど消えかけている魔法陣の跡が残っていた。所々が薄っすらと確認することができる程度だが、見ると光宏の知っている魔方陣であることが予想できた。
今となってはその描かれた模様の意味も理解できるが、当時は何が起こったのか分からず混乱したものだと、遠い昔のことを思い出す。
「えーっと‥‥あー、やっぱり、基本は前の世界に召喚された時のものと一緒か。しかし、やはり、これにも被召喚者を縛る為の『呪刻』の刻印術式が組み込まれている、か‥‥ま、そうだよなぁ」
そう言って、光宏は自分の着ている上着の首元を引っ張り、左胸のあたりを覗き込んだ。
「あ、抵抗してる。この体のお陰なのか、あるいはレベルが上がったお陰か。でも、どちらにしても、前回のような思いをさせられるのだけはごめんだからな‥‥。とりあえずは良かった、と言うところかな」
本来ならば左胸のあたりにあるはずなのであろう刻印の痕がないことに、一人、納得しながら、シャツを直した。
この『呪刻』という刻印術式とは奴隷契約などにも使われる刻印術式の最上位版のようなもので、召喚主に対し危害を加えようとすると、心臓を握りつぶして死をもたらすという効果のある魔法術だ。一種の呪いと言っても過言ではない、とても強力なものだ。
さらには、召喚主が特定の呪文を唱えることで、心臓を握り潰されるような痛みを加えることも出来るような効果もある。この痛みは通常の人間には到底耐えられるようなものでなく、痛みのあまり呼吸困難になったり、意識が遠のくほどの激痛となる。召喚主が望めば命を奪うことも可能であろう。
召喚主にもよるのであろうが、殆どの召喚主は、被召喚者に何かをさせようとして召喚の儀式を行なっている。
そもそも異世界召喚できる条件というのは限られており、さらには長い年月をかけて準備しなければならず、失敗するリスクもあって、簡単に実施できる儀式ではない。
その為、せっかく召喚した者が歯向かったり、戦いたくないなどと言い出したりすると、長い年月を費やした準備が全て無駄になってしまうことになってしまう。
召喚主からしたらそのような結果は望むことではないだろう。その為の刻印術式だ。
ゲームや漫画などであるように、何の制限もなく召喚され、「勇者様、世界をお救いください」などと召喚主にお願いされる、ということは物語の中だけのことで、現実には起こりえないらしい。勝手に呼び出して、仕事を強制し、使い捨てにする。
まあ、大人の世界の現実はこんなものだ。せめて使い捨てにされないように認めさせるしかない。
光宏が初めて異世界召喚され、別世界に転移したのは、ちょうど彼が二十歳の誕生日を迎えたその日だった。
友人の家から自宅に帰る途中、光に飲み込まれて意識を失い、気付いた時には異世界にいたのだった。
その世界は、剣と魔法と、魔法銃という弾に爆発の魔法が封じ込められた銃が存在する、地球で言うと17〜18世紀頃の近代社会に近い雰囲気を持つ世界だった。
流石にどの星系にある世界なのか、時間軸はどの位置なのかなどということなどは分からないのだが、少なくとも地球の二倍くらいの表面積を持つ惑星の上に存在し、大小合わせて三百を超える国が存在する世界だったことは分かっている。
その世界と地球との一番の大きな違いは魔物が存在しているということであった。人間同士の戦争もあるが、それと同時に魔物という脅威も存在する、そんな世界だ。亜人や精霊もいる幻想世界でもあった。
その世界で使い魔として召喚された光宏であったが、実際の召喚主である魔法術師は、召喚時に命を落とし、彼の死後、その所属組織である教会の司教が代理の召喚主として刻印術式の権利を引き継ぐようにあらかじめ術式に組み込まれていた為に、その司教の命令により、異端審問官の駒として、異端者の暗殺や世論操作の為の工作、聖遺物が残るとされた遺跡の調査や魔物の退治と、都合良く使われる教会の犬とさせられてしまったのだった。
実際、当時は思い出すのも腹立たしいような汚れ仕事をさせられたし、歯向かって何度も死ぬほどの激痛を与えられ、気絶してもいる。
体に刻まれた刻印術式のせいで、どれほど力を得ても、またどれほど嫌な仕事であっても、召喚主の命令に服従せざるを得ない状況にあったのだ。
残念ながら、光宏の異世界転生は、心踊るような物語ではなかった。
そんな中、命じられた遺跡の調査で、邪竜の封印を解いてしまう。実際には同行していた、持ち帰った宝飾品に邪竜の封印を解く鍵が埋め込まれていたのだが、欲に目が眩んだ司教の行動により鍵が取り出され、封印が解けてしまったのだ。そのきっかけを作った光宏は、自分もほぼ同罪であると考えた。
そのときに邪竜により司教が殺され、刻印術式から解放されて晴れて自由の身となったのだが、この邪竜の復活により、いずれ世界の半分が滅ぶことになってしまう。
世界が滅んでいく様を見ながら、罪の意識にいたたまれなくなり、邪竜を倒すべく行動を始めた光宏は、迷宮やら魔の山やらを巡ってレベルを上げ、各地の伝説に残る神器と呼ばれる武器を探し、世界各地の遺跡を転々と攻略して回ったのだったが、それは当然、決して簡単なことではなかった。
死にそうになったことも数知れず、命からがら逃げ出したことも何度もあったのだが、異世界転移補正による成長と、手に入れた神器のお陰で、結果的に邪竜を退治することができたのだった。しかし、目的を達成するに要した時間は実に八年の歳月が必要となった。
この戦いの副産物として、邪竜の血を浴びたことで、光宏の体は不老不死の体となり、半神半人のような存在となる。
まるで竜を倒した返り血によって不死となった北欧神話の英雄と同じような話であり、自身がそのようなことになるとなど想像もしていなかったのだが、これによって得た時間を、この世界の復興の為に使おうと努力した。
邪竜を倒すまでの八年間という期間の間に世界中の都市の半分は消滅し、地形も随分と変わってしまった。さらには人口も1/3ほどまで激減し、戦いの余波による激しい気候の変動、増えた魔物の襲撃など、人類は厳しい生活を余儀なくされていた。
世界各地を回りながら、食料が需要に対し充分供給できるようにし、魔物の脅威を排除する手助けをして回った。
食以外にも、衣類や住居なども自分たちで生産できるように、工房や職人の育成の手助けをした。
各地の優秀な人材を育て、自分たちで国家を運営できるようにした。
文章にすると簡単な説明で終わってしまうようなことだが、実際には苦労の連続だった。
それでも世界各地を飛び回りながら、少しずつ復興の種子をまいていった。
二百年の歳月をかけて、ようやく邪神の現れる前の文明レベルの世界に戻り、そろそろ自分の罪は償えたのではないかと考えていたところで、二度目の異世界召喚に遭遇したというわけである。
ものすごい確率だ‥‥と思わないでもないが、やるべき責任は果たし終えたという思いと、初めから最後まで、苦痛と苦労の連続で、あまり良い思い出のなかったこの世界から脱出したいという思いがあったのかもしれない。
二度目の召喚に巻き込まれたときに、抵抗することも可能ではあったのだが、敢えてその異世界への門を潜ることにしたのだ。
そうして、小嶋光宏はさらなる別世界にやって来たという訳であった。
◇ ◇ ◇
「で‥‥あれが召喚主か‥‥」
そんな過去を改めて思い返しながら、光宏は同じ部屋の中に倒れている若い女性の姿を見つける。
頭を隠す頭巾を被っているのでその容姿は見て取れなかったが、背格好から女性であることはすぐに判断できた。上質な布地の長衣を着ているところを見る限り、高貴な生まれなのであろう。
「実際は、この娘も何らかの組織に利用されただけなのだろうか?‥‥助けられるか?」
脈を取ると既に止まっている。失礼して胸に耳を当ててみるも、心臓の鼓動はない。
既に出血は止まり、傷口も乾いてきているが、手首の傷は深く、大量の出血があったことを物語っている。
「まだ死んで間もなければ、魂がその辺りに漂っているはずだが」
そうして、空中に視線を向かわせ、両眼に魔力を巡らす。
「いた‥‥」
視線の数メートル先に、肉体という物質的な器から魂が抜け出し、空中に漂っている魂の存在を発見する。
霊体とかアストラル体と呼ばれるもので、通常は肉体と重なって存在している状態なのだが、死後しばらくは肉体から離れて近くを浮遊していることが多い。しかし、しばらくすると高次元の世界に吸い上げられ、輪廻の輪の中に戻り、次の誕生までの順番待ちに入ることになる。
とはいえ、まだこの状態であれば間に合うと、光宏は即座に蘇生魔法を発動させた。魔力の残りは心許ないが、何とか発動させることは可能だった。
魂の器である肉体の損傷を癒し、そこに浮遊している魂を戻すと、青白くなっていた女性の顔色に次第に血色が戻ってくる。
「ふう‥‥もう大丈夫だとは思うが‥‥エーテル体のエネルギーは自然に回復するのを待つしかないかな」
魂の器である肉体の治癒は完了したが、魔力や霊力、気、生命力など様々な呼び方のあるエーテル体のエネルギーは大きく消耗しており、これを補充するには自然に回復するのが基本だ。
食事や睡眠、空気中の魔素の取り込みなどで回復するものであるのだが、その回復力は個人差が大きい。
回復を増幅させるエーテルポーションを飲ませたり、直接魔力を流し込むという手もあるのだが、その方法は肉体への負荷が大きく、臓器を傷めるなどのことになるので、あまり好ましくはない。さらには現在、他人に流し込むほどの魔力がないということもあった。
この石床の上に寝かせておくのは可愛そうなので、せめてベッドまで運んでやろう。そう思い、横たわっている女性を抱きかかえようとし、パサリと落ちた頭巾の奥にあった顔を見て、光宏は心臓が止まる思いをした。
「えっ‥‥絢香?」
思わず溢れたその名前は、遥か昔、光宏が日本で大学生だった頃に付き合っていた彼女の名前だった。
もう二百年も前の記憶だ。とうに忘れていると思っていたのだが、腕の中にある女性の顔を見て、瞬間的に当時のことを鮮明に思い出してしまったのだ。それほどまでに瓜二つであった。
「まさか‥‥いや、そんなはずはないな‥‥他人の空似だ」
彼女が日本で付き合っていたことのある絢香本人でないことは、常識的に頭では理解している。しかし、心では‥‥その感情としては強く光宏を揺さぶり、動揺を誘った。
将来的には結婚も考えていたし、心から愛していた女性に瓜二つの存在が目の前にいる。
この二百年、綺麗にな女性もたくさん出会って来たはずなのだが、悲惨な光景を見過ぎたせいか、心が荒み、自分が恋愛をすることなど許されないことなのでは‥‥という気持ちが常にあったのだ。
しかし、自分に課した責任を果たしたことと、新しい世界に来て生まれ変わったという気持ちが、ブレーキをかけていた心を解放したのかもしれない。あるいは、自分が大学生で何のしがらみもなかった頃の気持ちを思い出したからなのかもしれない。
理由は本人にも分からないが、確かに光宏の心の中では、腕の中の女性に対し、当時の絢香という彼女のことを投影してしまい、守ってあげたいという気持ちが芽生え始めていたのだった。
「こんな感情が、俺にもまだ残っていたとはね‥‥」
自分自身でも想定していなかった気持ちの高ぶりに自嘲するように笑い、彼女を抱きかかえる。
部屋の出入り口は、両開きの頑丈で重たそうな扉が閉まっていたが、彼女を抱えたまま背中を押し付けて開ける。思いの外、簡単に扉は開き、前室を抜けて階段を登った。
部屋は地下室だったようで、長い階段を登りきると、物置のような建物の中に出た。
使うのか使わないのかよくわからない物や中に何が入っているのかわからない大量の箱が積まれた脇をすり抜けて、その建物を出ると、庭のような場所に出る。
空を見上げると暗い空には無数の星が浮かんでいた。
前の世界の夜には赤と青の月が一つづつ浮いていたのだが、この世界には地球で見る月と同じような金色の月が夜空に浮かんでいるのを見て、知らず知らずのうちに涙が溢れてくる。
「あ、あれ‥‥?」
自然とこぼれ出した涙を拭いながら、光宏は今まで胸に抱えていたものが、洗い流されたような感覚を覚える。
この先、どういう運命をたどるのかは分からないが、この世界でやり直そうと、心に決めた瞬間なのだった。