9.財力のある人には勝てませんか
10年くらい前の話ですが、ある海外の研究家が、「自分が生涯にわたって集めた蔵書をまとめて邦貨300万円で譲る」と言い出したことがありました。蔵書目録はありませんでしたが、背表紙が並ぶ書棚の写真がいくつかあって、背表紙を読めばだいたい持ってるものの傾向や水準の見当はつきました。それを聞いて、3人の日本人研究家がこんな会話をしたそうです(ABCの台詞の振り分けは適当です)。
A「3人で100万ずつ出すってのはどうです?」
B「置き場所がねえ」
C「それはまあ、共同で部屋ごと借りるとか、何とか」
B「いやしかし、持ってるタイトルもあるんですよねえ(書棚の写真を見る)」
C「あー、ほんとだ」
A「我々3人合わせたら、誰かが持ってる本が多いですねえ」
B「貸しっこすれば……要らないか」
まあ、研究書や一次資料を集める世界ってそういうレートなのです。もちろんいっぺんに7ケタ円が出ていくことは滅多にないんですけど。むかし防衛庁防衛研修所がまとめた『戦史叢書』はデジタル化が進んでいて、著作権延長の問題がなければもうそろそろ電子版が公開されると思われるので、全102巻で58万円までネット価格が下がってきましたが、7ケタに乗ってた時期もあったと思います。私は1冊6万5千円の本までなら買ったことがあります。普通は10万円くらいするのを安いと思って買ったら大事な附表がついていませんでした。
持ってる本より読んでる本の数……ではあるんですけど、持ってないと読めない本というのもやっぱりあるわけです。そういうのをたくさん持ってる人たちは、全般的には稼いでいる人たちです。モリモリと働いて、稼いだものを突っ込むのですが、貴重なもののオファーはいつ出て来るかわかりません。続けて来ることもあります。お子さんの運動会を撮るためのビデオカメラ資金をアレしたとか、いろんな話を漏れ聞いておりまして、いくら稼いでいてもそれで安泰ということはありません。
カネの代わりにヒマを突っ込む人もいます。資料の目録を熟知して、必要な資料をうまく請求してうまくコピーさせてもらうには経験と試行錯誤と、待ち時間(笑)が必要なのです。東京にしかない資料を求めて「ギャラより高い交通費・宿泊費」を払う人もいます。皆さんの周りにも、即売会やライブイベントの遠征で生活にシワが行っている、いろんな分野の熱心な人がいませんか。ミリタリ趣味もそこのところは変わりません。
これはマニア自身も見逃すことがありまして、「お前あの資料持ってるんだろう、コピー代出すからコピーよこせ」という類の要求をして関係を壊す(あるいは関係がない人に図々しくそういう要求をする)話はときどき聞きます。よくイラストやコミックスを安く買いたたく人がSNSのやり玉に上がりますが、絵を描く環境作りのためにAdobe Creative Cloudsやモリサワフォントにお金を使っている人のように、歴史系でも資料そのもの以外のところでコストがかかる(こともある)のです。歴史系の同人誌だったら「印刷費なんか誤差」なものもあるはずです。
まあ逆に、どこぞの資料館に行けば(原理的には)見られるはずの資料が、きれいに製本されて2000円とか4000円とかで即売会に出ていたら、「手間を考えると買いだよな」ということもあります。私もそういうのを買ったことがあります。
戦史の世界にもいろいろあります。例えば戦術とか、戦闘上の心得とか言ったことは一般向けの本にはあまり書いてありません。最新のノウハウはもちろん秘密だし、昔のノウハウは陰気な羅列だから売れないのです。そういうのを集めようとするとお金がかかりますし、長い回想録や報告書の中から興味を引く切れ端を根気よく集めなければなりません。例えばドイツが軍用に生産した対戦車火炎瓶には特殊なマッチが使ってあるのですが、そんなことは何を読んだら載っていると思います? これは連合軍の押収資料に書いてあったのをアメリカ軍が部外秘の定期刊行物(大戦が終わったら休刊)に載せて、それが秘密指定を解除されてネットに出たので分かったのですが。ええ。タダです。しかし「最近のドイツ軍は突撃砲というものを配備した」とかいった雑音情報の中から使える断片を見つけ、マッチの種類名をもう一度ググって、ああ鉱山内などで使われる消えにくいマッチなのかとやっとわかるわけです。
これに比べると、ある国の歴史、そのころのある国の暮らしといった、多くの人々に関わる視点なら、記録する人も出版する人も多く、図書館で読めるチャンスも高まります。メカに関することなら写真や図で表現でき、分かりやすいので読んでくれる人も多く、「一般向けの」安い本が手に入ります。まあ「写真や図面があまり残っていない軍艦」の沼にずぶずぶはまると同じことなのですが、それは別問題として。
同様に、「ヒマを突っ込めばカネなしで基本資料が見られる事柄」、もっとはっきり言えば「カネの力で差をつけられない事柄」と、「ヒマがカネの代わりにならず、もっぱらカネで差がつく事柄」があります。回想録をたくさん読まないとわからない事柄は、典型的な後者です。
歴史を扱うと言っても、「比較的コストの高い世界」と「コストの低い世界」があって、うっかりコストの高い世界でいい加減なことを言ったり書いたりすると、大変な蓄積を持った人からツッコミが入って、勝ち目のない戦いを強いられてしまうのです。
調べて書くのは楽しいことですが、「調べやすいテーマかどうか」を考えて戦略的に調べることも大切です。とくに自分の作品で世に出たいと思っている人は、「自分にとってのコストの低さ・敷居の低さ」はどこにあるのかを考えてセルフプロデュースすることをお勧めします。もちろんあなたの実家の裏庭に石油が出るのであれば、札束で人を殴るのは有効な戦術でしょうけれど。
次回完結予定