10.ミリタリを学ぶと平和が理解できますか
たしかアメリカ人の方から、こんな質問を受けたことがあります。奥様のお父様が日本兵で、フィリピンで戦死したのだがどの辺が戦没地だろうかと。部隊名がわかっていたので、現代の日本人なら簡単にググって出るのでしょうが、漢字が打てない英語圏の人じゃあ大変ですね。振武集団といいまして、マニラから見て東側の山岳地帯に立てこもった部隊のひとつでした。
すると相手はこう言ったのです。「義父がマニラ市街戦に関わっていないと知って安心した」
マニラ市街戦というのは、第三者的に見れば、見込みのない防衛戦に他国の首都市民を巻き込んだ愚行なのです。もちろんフィリピン人であれば、自分や知人の親族が巻き込まれ、日本軍の徴発もあって食料や水(振武集団はマニラの水源地を押さえていました)に苦しんだことを語り伝えているのは想像できます。
もちろん兵士であれ民間人であれ、戦場となった場所について語った回想はどれもこれもバイオレントです。ミリメカの話や、抽象化された作戦・戦略の話を越えて歴史の世界に踏み込めば、硝煙と血の匂いに気づくチャンスは確かにあるでしょう。
ただ、回想には思い込み・思い違いがたくさん混じっていますし、都合の悪いことは書かずに済ませることもあるでしょう。複数の回想や記録を組み合わせるとウソらしきものが見つかることもあります。「ヨードルもカイテルもダンケルク前の停止には反対なんだが総統がうんと言わないんだ」と陸軍参謀本部に説明した速記録が陸軍側に残っているのに、自分の回想記では「ダンケルク前の停止に自分は反対したのに、ヨードルもカイテルも相手にしてくれなかった」と書いているヨードルの某部下がいましてですね。まあたいていのケースはもっと微妙で、ウソっぽい印象を感じたとしても、どうすることもできません。
人に会って話を聞くのと同じで、歴史を学んで戦争のことが実感できるかというと、それは運というか、出会い次第だと思うのです。生物学を学んで、生物進化の歴史の中で自分がちっぼけな存在だと意識する人もいるでしょうし、ひたすら実験動物の世話をする毎日で考える余裕もない人もいるでしょう。
私が学生のころは、某怪獣映画の「平和学習上映会」というのがよくありました。あの映画を見て「ああ、オキシジェンデストロイヤーなど、この世にあってはならないものだ」と考える人もいるでしょうし、別のものに注目する人もいるでしょう。どんなメッセージも、それは送り手の意図だったり言い分だったりするわけですから、受け取られ方をひとつに制限することはできません。
詩人の草野心平に「号外」という作品があります。ヘビが殺されたというニュースを聞いて、カエルが喜びの歌を歌います。ところがカエルが行動の自由を得たので、草の影で蛾が震えています。そのあとにもまったく同じカエルの鳴き声が記されますが、それは蛾の立場からすれば、恐ろしい捕食者の雄たけびなのです。
歴史を学ぶことは、この世で起きたことの様々な面に気づくひとつの機会に過ぎません。受け取り手次第です。ただ、ひとつのシーンを様々な視点から見られるセンスはどんな創作にも必要であり、人生にも普通に必要とされるので、アンテナをしっかり立てて、気づけなかったことにひとつでも気づけるように、歴史という素材を使って頂ければなと思います。
持ちネタも一巡しましたので、このシリーズは閉じたいと思います。ご高覧ありがとうございました。