立ちあがったなら走り出せ
元いた世界への帰還の事は、実は既に眼中にない。これまでの推理で出した答えと、ヒカエル様に出会った瞬間に取り戻した記憶とを統合して、何となく大丈夫かなと直感で思っている。うまく説明はできないけど。
そんなことより今、俺の心にあるのは自分がいるこの場所で、大根としての一生をどう全うするか、その一点のみだ!
大根になる前に抱いていた願望は先程の収穫のくだりでほぼ叶えさせて貰った。頬擦りに関しては…まぁ残念だったけど。
残る望みはたった一つだけだ。
「実はヒカエル様にお願いしたい事があるのです。お会いしたばかりでこんな事を言うのもどうかとは思うのですが。」
「あつかましい魔物なのね。」
「待って、ケプラ。勘違いしてこの大根さんを引き抜いてしまったのは私の方なんだから、ここは聞いてあげるべきだわ。」
あぁ、やはりお優しい。それに魔物ではないと言う俺の言葉もどうやら信じて下さっているようだ。やべ、泣けてきたわ。
『蒸散による水分の流出量増加、原因不明、体内の水分量急速に減少、生命維持に深刻な影響―』
水蒸気の涙だけどね。
しかし泣くのも命がけとは、気を付けよう。
「私に出来ることなら聞いてあげるわ、言ってみて。」
「ご厚情に感涙であります。それでは…」
俺の願いはただ一つ。
「僕を……食して頂きたい!」
大根として美味しく食べられるなら、この人以外はあり得ないんだ。俺にはもうその事しか考えられなかった。
「……え、それはちょっと、気がひけるわ。」
「いや、何もこのまま生でがぶっという訳ではありません。どんな調理法でも構わないのです!」
理想はおでんだが、このお方に食べて頂けるならおろしでも刺身のつまでも何でもいい。この期に及んで贅沢を言う気はない。
「そういう事じゃなくて…」
「お前なんかを食べるのは気持ち悪いといってるのね。」
「ケプラは少し黙ってて!」
「むぅ、なのね。」
ヒカエル様はかなり困惑してる様子だ。おかしいな、何が引っ掛かってるんだろう?引き抜いた相手に食べて貰いたいっていうのは大根だから何の問題もないはずだぞ。俺がもし人間のまま食べて下さい!などと言った日にはそりゃあ逮捕は免れないだろうけど。
「何か問題がおありですか?」
「大アリよ。だってあなた生きているでしょう。」
「これは、異なことを仰る。大根に限らず作物は皆生きています。収穫された後も、料理として食卓に上るその寸前まで全力で生命を保っています。そうして繋いだ命の全てを、食べてくれる相手に託すのです!」
だから食べ物を絶対に粗末にしてはいけない。子供達にもこの事だけは厳しく言い聞かせていたっけな。
「それは、その通りだけど…」
考え込むように俯いていたヒカエル様だが、顔をあげるとゆっくり言葉を続けた。
「でも、やっぱり無理だわ。あなたと私はこうやって言葉をかわしてしまったから。意志の通じる相手の命を奪う事は私には出来ないわ。」
正論だな。鯨やイルカなど、高度に人間と意志疎通が可能な生き物の補食に反対する人々も確かにいる。中には過激な実力行使に及んでまでそれを阻止しようとするものもいるくらいだから、これは人類にとって永遠の課題かもしれない。
やっぱり話しかけてしまったのは失敗だったか。黙って普通の大根を演じるべきだったのかも。
あれ?でもそうしていたら俺はマンドレイクと間違われてたままってことになるよな。その場合どうなっていたんだろうか。マンドレイクって確か猛毒だから食べるつもりだったってのはまずないよね。
「お気持ちは分かりました。所でヒカエル様は僕を引き抜いてどうされるおつもりだったのでしょうか?」
「それは…」
「売って路銀の足しにするのね。魔王のモンスターと戦い続ける旅はお金がかかるのね。マンドレイクは高値で売れるのね。」
「ケプラ!」
なるほど、退っ引きならない事情がありそうだ。とりあえず声をあげたのは正解だったな。危うく黒魔術の材料にされるところだった。
旅か…
「それではこうしてはいかがでしょう。ひとまずヒカエル様の旅に同行させて頂き、僕の寿命が尽きた所で食して頂くというのは。」
その頃には水分がなくなって萎れきっているだろうなぁ。まあ、それでも切り干し大根にするという手はある。
「それは…してあげたくない訳でもないのだけど…」
「お願いします!ご迷惑をかけるつもりはありません。」
ヒカエル様は黙ったまま目を瞑ると小さく首を横に振り、困った様に手に持ったままの懐中時計に目をやった。
それを受けて小動物が喋りだす。
「魔王と戦う旅はピクニックじゃないのね。お前みたいなかさばる荷物を持って行ける様な余裕はないのね。」
それはそうだろう。自分で自分の事も出来ない様な奴が、危険な旅にお供しようなどと言うのは甘いにも程がある。身動きの取れない大根など文字通りお荷物にしかならないだろう。
だが、
「先程も言いましたが、ご迷惑をかけるつもりはありません。その言葉に偽りがない事をこれからご覧にいれましょう。」
「え?」
正直自信はない。だが植物のこの身体を意思の力でコントロールする感覚はある程度は掴めてきている。
出来るはずだ。いや、やるしかない。今この機を逃せば必ず後悔する。
胚軸から伸びる12本の茎に精神を集中する。びくともしない。く、まだ力が込めたりないか!
『道管内の水圧上昇―』
いきんで血圧が上がったって事か。道管って茎中を走る管だよな。
ふと、昔学校の授業で見た茎の断面図がよぎる。道管は茎の外側に近い部分に環状に配置してあったはずだ。
ということは、こうすればどうだ。
茎の付け根部分をさらに細やかに意識する。環状になっているはずの道管、その片側の数本に力を込め反対側は逆に力を抜く。それを交互に繰り返すと…
がさ、がさがさがさっ
よし、いける!あとは大根本体の水分を移動させて…
ごろごろと俺の身体が揺れだす。それを驚愕の表情で見つめるヒカエル様。言葉を失っておられる様だ。
「ぬぁぁーーーっ!」
気合いの叫びと共に、体重移動を使って身体を起こす。葉が下になるので端からみれば大根が逆立ちしたような感じだ。さらに全神経を茎に集中させて茎と葉で体重を支える。
立った!大根が立った!
「…」
口を開けたまま驚愕の表情で固まっているヒカエル様。だが驚くのはまだ早い!
先程の要領で茎を動かしてみる。12本の茎を足にして、
わさっわさわさわさわさっ
俺は歩く事に成功した。
「ほら!僕はこうやって自力で移動する事も可能です!お荷物になんてなりませんから!」
わさわさっわさわさわさっ
誇らしげにヒカエル様のもとへ歩み寄ろうとしたその時、
「きゃあぁぁぁぁーーーーっ!!」
悲鳴を残してはるか彼方へと遠ざかっていく後ろ姿が見えたのだった。