河の子 一
王は自らの子を河に流した。
年老いた祭司がその赤子を発見したのは偶然だった。少なくともその時、彼はそう思っていた。
「はて……このような所に赤子が……まさか……」
祭司は高い地位に付いているものだった。だから、河上で何が行われたのかを知っていた。
王が、産まれたばかりの我が子を神への生贄としたのだ。
神の供物に手を出すわけにはいかない。それがどのような災いを呼び寄せるか。自分だけではなく、国中の人に関わる事だ。
「……哀れな子よ。許してくれ」
司祭はその子に触れること無くその場を去ったのだった。
それから老いた司祭は極力河に近づかないようにした。自分の見捨てた命を見るのが忍びなかったのだ。
知らないふりをして日々を過ごせば、その内上手く頭の隅に追いやれる。日が昇り月が沈み、幾度か繰り返されると一日中赤子のことは忘れられるようになった。
そうやって二月も過ぎた頃、彼は再び河辺にやって来た。忘れたまま、通りかかっただけだった。
そこで彼は驚くべきモノを見る
「なんと……お前……生きておったのか……」
物言わぬ赤子は以前と全く同じ姿で司祭を迎えた。真っ白なおくるみに包まれて。その真っ青な目でしっかりと見ながら。
司祭は赤子を見つめながら一巡して考えた。
(この子を、と……)
骨と皮ばかりのその手でそっと赤子に手を差し出す。そろそろと、怯えを含んで。
赤子は動かない。泣きもしない。
本当に生きているのか。幻ではないかと考えながら、とうとうその小さな体を抱きかかえる。
――重い。
間違いなく現実であるという重みがあった。
そして、辺りは平穏なままだった。神から雷が降ってくることも、炎に包まれることもない。
「これもまた神のお考えなのか」
老いた司祭は自分の養子として、その出自を誰にも明かさぬままに子を育てた。
***
赤子は育つ。
何事も無く、災禍もなければ幸福ももたらさず。
ただただ、大きくなっていった。
そして……
面倒くさいな、と思った。
目の前にはショールを頭から被った女がいる。ほんのりと透けた、真っ青な染は高級品だった。下女ではないらしい。迷っただけか。
ここは、神職者以外の出入りは歓迎されていない。見過ごしてしまいたいがそうもいかない。かと言って話しかけるも億劫だ。人と関わるのは不快な事極まりない。
つまりは何もかもが面倒だ。
こちらの気持ちなどお構いなしに、侵入者はひらひらとその辺を歩きまわる。蝶か鳥か。いや、風に乗って来た塵だろうか。
彼女がくるりと振り向く。
「あら? 神官様、お早うございます」
「……ここは立入禁止なのですが」
彼女はゆっくりと小首を傾げて、それを戻す。少し間を置いてからやっと合点が言ったらしい。
「あら、まあ、ごめんなさい」
くすくすと何が可笑しいか彼女は笑う。
「いいから立ち去りなさい」
「目的が達成されたら、ね、ふふ」
聞き分けがない、特別面倒な女が紛れ込んだらしい。
「……目的?」
いっその事兵にでも突き出すか、あるいは牢屋につなげてしまうべき人物なのかもしれない。例えば、神殿にある貴重な品を盗りに来た盗人だとか。
本当に面倒い。
「見張ってるの」
侵入した上に、言うことに事欠いてそれか。
「むしろ見張らなくてはいけないのはお前の方だ」
「え?」
「最後だ。立ち去れ。でなければ牢にでも入ってもらう」
「それは……バレたら困るの」
「じゃあ」
「帰ります。でも、神官様、お願いを聞いてくださいませんか?」
ふっと彼女は娼婦なのではないかと、よぎった。余りに艶やかな美しさは心をくすぐった。
「……な、にを?」
屈するつもりはなかった。何か不正な事を頼まれたら切り捨てる、そのつもりだった。
しかし、彼女は思ったこととは全く違うことを言い出した。
「王を見張って欲しいのです」
***
それから神殿の中で、外で、彼女を時々見かけるようになった。
こちらに気づくと彼女はゆっくりと近づいてくる。そして「王はどうでしたか?」と開口一番聞くのだ。
「奥の間に。でも今日はなんの準備もしてなかったから儀式は行われないかと」
「そう、良かった」
なぜ、彼女に協力しているか。
気まぐれ、はある。
それには見張る対象が「王」であった事が重要だ。この件に関わってから自覚したが、自分には王に対して忠誠などというものが全く存在していないらしい。別に王がどうなっても構わない。
だから、何の気兼ねも無くこの乱入者に情報を渡せるのだ。
「神官様のお加減は?」
くすくすと、何も無いのに笑う。
「すごぶる良好ですよ」
「それは何よりです」
おおかた王の妾か、あるいは王に懸想する王宮の侍女か。そんな所ではないかと考えていた。もしかするともっと身分が上かもしれない。毎回変わる彼女の衣装は常に一流品で、けして端女ではない事を示していた。
王妃は既に亡い。王妃の椅子に座りたい女はいくらでもいるはずだ。そういった一人なのかもしれない。
そうに、違いないのだ。
「……ているのかしら?」
「え?」
すっかり考えに囚われて、返答が遅くなった。
むしろ彼女が何を言ったのか聞いていなかった。
「すいません、なんと?」
「いえ、奥の間の事を」
「ああ……」
王の事か。
「さあ? でも女は居ませんでしたよ」
聞きたいのはそれだろう。
「そうなのですか? ……ううーんやはり直接見て確認したいわ」
「止めてください。奥の間はそもそも神官でも限られた者しか入れないのですよ」
「だから…知りたいの」
「ですから、女性の姿はありません」
「……神官たちはいるのでしょう?」
「まさか、神官を疑っているのですか」
そこまでか。王とはそこまで見境無く手を出しているのか。いや、彼女がそれだけ嫉妬深いのか。
「少し冷静になってください」
「私は冷静よ? だって彼等が居なければしょうがないでしょ」
「しょうがなくないですよ。王妃様は亡いとはいえ、王の周りには幾らで居るでしょう。貴女だってその一人なのでしょう」
「え、ええ。王宮では確かに出来る限り側に居ます…けど?」
「でしたら良いではないじゃないですか」
「良くはないわ。やはり儀式は神殿で行われるのだもの。それに、王宮にいるときは止める手立てを探さないといけないし……でも、待って」
腕を掴まれる。一歩、二歩、と距離を極端に詰められる。それはただ、情報を交換する男女には相応しくない距離であった。
まさか、と思うが彼女の眉間には珍しくシワを寄っている。これは何か違う。
「……話が噛み合ってない気がするわ」
「私もそう思っていた所です」
「ふふふ」
あっという間にその距離から開放される。離れた瞬間体が冷える。お互いの体温を感じ取れる距離だったのだな、と頭の隅によぎる。
「貴女は何をしたいのですか?」
「とても、不味いことに手を出しているの。この国の行く先を決めるような大きな事」
「それは何ですか」
「それは……」
「シャルラか」
離れた所から大きな声がする。その元を探す前に目の前の彼女が返事をした。
「お兄さま、ごきげんよう」
声をかけられた男は神殿の奥につながる廊下にいた。周りに何人もの人間を従えて。そこから動かない。動く必要はない。
――王だ。
その相手に兄を言うことは、目の前の彼女は……
「お前も来ていたのか」
「ええ、お祈りをしに」
「ふむ……神によくよく仕えるように」
「はい」
短いやりとりをすると一行は直ぐ様何もなかったかのように消え去っていった。
「……シャルラ?」
「はい?」
そういう名前だったのか。
何度も、両手で足りない程の回数ここであったがそういえば名前を知らなかった。
「……姫?」
「バレてしまいましたね。貴方も私を連れ返す?」
「いえ……」
なるほど、王に懸想する何者かではなかったのだ。
「これまでの非礼を……」
「何をしたのかしら?」
くすくす、くすくす。
「牢に入れようとしたり」
「だって部外者がいたらそうするでしょう」
「はい」
「じゃあ、それでいいのよ」
結局彼女が何をしたかったのかは知ることが出来なかった。
知ったのは名前と身分と、王に懸想している訳ではないということだった。
そして、日は更に進む。
王が、神との約定を取り付けたとの布告がされた。