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歴史物や時代劇創作集

大木権左衛門、山城殿と組討ち初めのこと

作者: 開運満足 
掲載日:2026/09/05

葉隠に「大木権左衛門、山城殿と組討ち初めのこと」と出てくるお話を小説にしてみました。

 白石鍋島家の幕末維新期の当主鍋島直暠(なおてる)は、維新の際に藩主を補佐して勤王に功が多かった。「鍋島ネコババ事件」で、その子孫が1955年9月に手形詐欺事件を起こして逮捕されるまで、立派に名誉に家を保っていたと言えよう。


 その白石鍋島家の初代当主鍋島直弘は、通称「山城(城州)」殿として知られていた。藩内で御親類筆頭の家格を持っていたのである。


 さて、表題の大木権左衛門が、その山城殿を年始に訪問した時のことを述べたいのだが、複雑な歴史を簡単に紐解いておかないと、その理解は難しいかもしれない。


 大木氏は、もと蒲池氏の重臣であったと言われている。

 佐賀藩大木氏に伝わる有名な話と言えば、天正九年五月蒲池鎮漣(かまちしげなみ)が猿楽の宴に誘い出され龍造寺隆信に謀殺される蒲池鎮漣謀殺事件の際に、蒲池鎮漣の家来、大木何某(なにがし)が肥前佐賀に駆けつけ、龍造寺隆信の面前で隆信を「恩知らずの不忠もの」として非難し罵倒し、その場で切腹しようとした。その心意気に感銘を受けた隆信が、大木何某を慰留して家臣にしたということである。


 実のところ、龍造寺隆信は、度々蒲池氏の庇護の下で命を保ち、家を保ってきたのだ。蒲池氏からすれば「恩知らずの不忠もの」と罵られて当然なのだ。


 そのいきさつも説明しておこう。

 龍造寺隆信が、中納言円月坊を名乗っていた頃、父の周家(かねいえ)が、主君である少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣の馬場頼周(よりちか)によって誅殺された時、円月は、曽祖父の家兼に連れられて筑後国の蒲池氏の下へ脱出した。また、天文15年(1546年)、曽祖父の家兼は蒲池鑑盛(あきもり)の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興した。また、龍造寺隆信が中納言円月坊から還俗して水ヶ江龍造寺胤信(たねのぶ)を継いで、龍造寺本家の当主の胤栄(たねみつ)に従って、元の主筋に当たる少弐冬尚(ふゆひさ)を攻めたこともある。また、大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により死去(大寧寺の変)して、後ろ盾を失い家臣の土橋栄益(つちはし ひでます)らによって肥前を追われた時にも、筑後に逃れて、再び柳川城主の蒲池鑑盛の下に身を寄せ、天文22年(1553年)、蒲池氏の援助の下に挙兵して勝利し、肥前の奪還を果たしたのである。


 五つも六つも恩義重なる蒲池氏を、騙し討ちにした龍造寺隆信を非難し罵倒し切腹しようとした者が、鍋島家となった佐賀藩で伝わる所によると、大木氏だという。


 以上のような基礎知識があって、初めて、この物語が戦国武者の意地と誇り、そしてお家に対する忠義とは、このようなものであったのか、と感心できるものとなるのだ。



 閑話休題、表題の大木権左衛門が、鍋島家の御親類筆頭の山城殿を年始に訪問した時のこと。


 山城殿

 「これはこれは、よい所に参られた。まだ組討ち初めを行っておらないのだ。そこもとに、受方をやってもらいたいのだが、いかがであろう」


 大木権左衛門は、山城殿(鍋島山城守直弘)の父である鍋島勝茂直属の家臣である。

 年若い山城殿にとって、権左衛門は、自分の父の下で戦っていた戦場往来を重ねた歴戦の勇士である。


 権左衛門

 「受手ばかりにては、興がありませぬ。それがしにも、ぜひ仕手を受け賜わらせていただきとうございます。さらば、承りましょう」


 山城殿

 「ふむ、確かにその通りだな。承知した。そこもとにも仕手方を取らせてやろうほどに、いざ、参ろう」


 さて、戦場では敵将を倒し組み伏せて、鎧通しでその首をとることがなされたが、これを組討ちという。古代には「角力」として始まり、現代でも柔道や合気道として伝わって来た武芸のことだ。甲冑の戦いは十度に六、七度組討に至ることは必定といわれ、武士のたしなみとして、弓・火器術、鎗術、剣術の順に、敵との距離・間合いとともに変化する戦いの全てを指揮し制するためには、絶対に学ばねばならぬ必須の武芸といえる。

 それに、この話の出来事は戦国の世がそれほど遠い昔ではない頃のこと。

 首取りに直結する実戦的武芸である組討ちが、兵法(剣術)より重視されたのは当然と言える。


 山城殿は、日ごろの力自慢、技自慢を発揮して、いいところを見せようと、さっさと大木権左衛門を倒して組み伏せてしまいます。


 組み伏せ、勝ったとばかりに、すぐに立ち上がり離れようとする山城殿に、


 権左衛門

 「それで『組討ちは、もう終わりだ』と、そう仰られるのですか」

 と山城殿に申し上げる。


 その言葉を「侍同士の約束である、私に組討ちで仕手方もやらせて欲しい」の意と受け取った山城殿が

 「今日は、これからいろいろやることがある。だから手短にすませてくれよ」

 と仰り、山城殿が受方をなされる。


 仕手方になった権左衛門は、山城殿を投げ倒すと、息が詰まるぐらい力任せに山城殿の躰を抑え込む。

 しかし、山城殿の方は力技でも勝(まさ)っていらっしゃいますので、

 「憎き奴腹かな」

 と仰って跳ね返そうとする、その返し技が出る一瞬前に、権左衛門は脇差を抜き、山城殿の首に押し当てる。


 権左衛門は

 「戦場(いくさば)にて、剛力巧者の鎧武者に出会いし時、首の取りようは、このようにいたします」

 と言って、山城殿の技を封じたので、山城殿は微動だに出来なかったそうです。


 大木権左衛門は、山城殿に、組討ちは、微力でも剛強の人を組み伏せられること。また、組み伏せるだけではなく首を獲るまでが重要と、戦場経験者として、「組討ち初め」その本義を示されたのでございます。



(了)



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大木権左衛門という武士は、主君筋にも遠慮会釈の無い古武士のようですので、古武士の意地がわかるようにちょっとだけ演出しました。

戦場での組討ちを実地で行った権左衛門と鍋島家八男で分封された貴公子の山城殿とでは、武芸稽古の取り組み方がまるで異なります。おそらくその視点が山本常朝の葉隠においても重要なので、そこを強調しました。


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