余命宣告を受けた私の前に黒猫が現れた話
我がハーベント伯爵家は、とても裕福というわけではないが、貧しいわけでもない。ごくごく平凡な貴族の家だった。だから私、クロレンス・ハーベントも、ごく普通に結婚して、生を全うするのだと信じて疑わなかった。
それなのに、ある日、医者から自身の余命を聞くなんて、誰が想像したことだろう。
きっかけはハーベント伯爵邸の温室で、植物の世話をしていた時のこと。私は頭痛持ちで、頭痛にいいと聞けば、茶葉を取寄せて試してみるも、どれも効果はいまいち。ならば、自分で栽培してみようと、本や苗を取寄せていた。
少しでも痛みが和らげば、両親はもとより、婚約者のヴォルフ・キルステン侯爵令息にも心配をかけないで済むからだ。
本来ならば、気分のいい日にはデートをしたい。王都の街をヴォルフと一緒にお茶したり、買い物をしたりして楽しみたいのが本音だった。なにせヴォルフは私の初恋の人。
小さい時から私に優しくて、同い年なのに、お兄様みたいな人だった。といっても、私に兄はいない。ずっとハーベント伯爵家には私しかおらず、婿を取らなくてはいけなかったのだ。
けれどヴォルフはキルステン侯爵家の長男。爵位が上なのに、婿に来てくれ、とは言えず、ずっと想いを告げられずにいた。
そんな我が家だったが、五年前に待望の跡取りが生まれたのだ。これで想いを告げられる、と思っていたら、弟が生まれた次の月に、ヴォルフから告白を受けた。
まさか両想いだったとは知らず、頭痛すら忘れて舞い上がったほどだった。ヴォルフもまた、同じように悩んでいたらしい。キルステン侯爵家に男児はヴォルフしかおらず、このまま想いを断ち切るか、妹に爵位を譲ることまで考えていた、というのだ。
私もせめて、この頭痛で体調を崩す日を失くしたい。そう思うのは当然のことだった。
だからあの日も、温室でいつものように取寄せた苗の世話をしていた。本は部屋でも読めるけれど、さすがにハーブのような繊細な植物は、ちゃんと世話をしないとすぐに枯れてしまう。
私が緑の手の持ち主だったら良かったのだが、どうやら赤の手に近いらしい。我が家お抱えの庭師の協力を得て、なんとか枯らせずに済んでいる有り様だった。
「っ!」
突然、頭を殴られたかのような痛みに襲われ、私はその場にしゃがみ込んだ。
大丈夫。大丈夫。落ち着け。こんなのいつもと同じ痛みじゃない。こうして蹲っていれば、自然と治まるわ。そう、自然と……痛みが、引く、はず……。
「お、お嬢様っ!」
庭師の血相を変えた声が聞こえたような気がした。
目が覚めると、自分の部屋のベッドの中にいた。どうやら私は、温室で倒れたらしい。今まで酷い頭痛に悩まされていたけれど、意識を失うことはなかった。
だからだろう。両親も心配になって、お医者様を呼んでくれた。
「これまで頭痛で倒れたことはありましたか?」
「いいえ。痛みが酷い時は、その場で静かにしているか、座る場所がない時は、しゃがんでいました」
「なるほど。酷い痛みは、どのくらいの感覚でありましたか?」
お医者様が質問をしてくる度に、不安が募っていく。明確に何、と言わない代わりに、次々と質問を投げかけてくるからだ。自分の症状を言っているだけなのだから、正しいも間違いもないのは分かっているはずなのに、なんとも言えない気持ちに苛まれた。
「ふむ。結論からいうと、すぐにどうにかなる、ということはありません」
「そうですか」
私と近くにいた両親が、胸を撫で下ろした。けれどそれも束の間。お医者様の次の発言に、私たちは再び、心を揺さぶられることになる。
「ですが、用心した方がよろしいかと思います。これまで通りの生活をしていたら、再び倒れることもあるでしょう。それが長く続けば、私も保証はできません」
「保証……」
「では、どうすれば娘は、クロレンスは助かるのでしょうか?」
「断言はできませんが、静かにお過ごしなられれば、もって十年。これまで通りならば、五年でしょうか」
五年? 十年? 頭が痛いだけで? いや、すでにこの頭痛のせいで、生活に支障が出ているのだから、別におかしいことではないわね。
いつやってくる頭痛に怯え、交友関係も最小限にしていたからだ。
ヴォルフとのデートも、それを理由に何度も断っていた。愛想をつかれてもおかしくはないのに、彼は私の体調に配慮をしてくれて、家にやって来てくれる。嬉しい反面、申し訳なさでいっぱいになっていた。
もう、彼の優しさにいつまでも甘えてはいられない。
弟が生まれて五年。この頭痛でどれほどヴォルフに迷惑をかけていたか、計り知れない。侯爵夫人にも相応しくない、と何度思ったことか。
もうそろそろ、いいよね。ヴォルフを解放してあげなくちゃ。
そう思っていると、使用人からヴォルフの来訪を告げられた。
「えっ、すまないが、もう一度言ってくれないか」
二人だけになった部屋で、私は静かに想いを告げた。
「婚約を解消してほしいの」
「どうして!? 倒れたから? クロレンスがずっと、頭痛に悩んでいたことは知っているよ。それが理由だったら、受け入れないからね」
「ヴォルフ……」
でも、こんな私を侯爵夫人にしたら、あなたが大変な思いをするのよ、と言えたらどれだけいいか。そしたらあなたはきっと「気にすることはないよ」と優しく微笑んでくれるのでしょうね。だけど私は、そんな答えも顔もほしくないの。
「ごめんなさい。私ね、好きな人ができたの。だから婚約解消を――……」
「そんな見え透いた嘘を言わないでくれ! 俺がどれだけクロレンスを見て来たか……って、クロレンス? ごめん、大きな声を出したから」
「う、ううん……だい、じょうぶ」
一度頭に響くと、すぐに治まってくれない頭痛。そんな私にヴォルフは寄り添ってくれるけど、今はそれが心苦しかった。
どうしたら、あなたを解放してあげることができるのだろうか。思わず涙が出た。それが頭痛から来るものなのか、ヴォルフとの別れを決意した悲しさなのか、もう分からなくなっていた。
温室で倒れてから一カ月後。ヴォルフが訪ねてきても、私は会うことを拒否し続けた。両親にも事情を言い、婚約解消をしてもらうように動いてもらっているものの、どうやらそちらも難航している様子だった。
話を聞くと、やはりヴォルフが反対しているのだという。私でなければ嫌なのだといっているとか。自分から婚約解消を言ったのにもかかわらず、私はその言葉に内心、喜んでしまった。
ここまでやっても、ヴォルフは私を諦めてくれないのだということに。
けれどそのままにしていいとも思っていなかった。
「どうしましょう」
私は温室に用意された椅子に座りながら、ふぅ~と息を吐く。あまり脳を使うのも、頭痛の原因だと言われ、なるべくゆったりと過ごすようにしていたが、そうもいってはいられなかった。
このままでは、婚約解消をすることができないような気がしたからだ。とはいえ、妙案が浮かぶわけもない。
すると突然、一匹の黒猫が現れ、勢いよくジャンプをしたと思ったら、目の前のテーブルの上に上がったのだ。この温室にいるのは、私と専属メイドのアミリだけ。一度、温室で倒れてから、どこに行くにも付いて来るようになった。
私がいつ、どこでまた、倒れるのか。両親も心配だし、私も心強かった。そのため、アミリはメイドの割にガタイがよく、鉢植えなど重い物を持ってくれるところも好感が持てた。
「温室の扉は、ちゃんと閉めたはずなんですけどね。どこから入って来たんでしょう」
「アミリ。念のため、確認してきてもらってもいい? もしも、どこかに破けた箇所があったら、大変だから」
「……う~ん。お嬢様から離れるのは」
「大丈夫よ。アミリの足なら、すぐに行って帰って来られるでしょう? それに、いざとなったら、この黒猫ちゃんにアミリを呼びに行ってもらうから」
ねぇ、と黒猫に向かって呼びかけると、私の言葉を理解したのか、にゃ~んと元気よく鳴いてくれた。その姿にアミリも呆れたのか、感心したのか、「分かりました」と様子を見に行ってくれた。
「さて、君はどこからやってきたの?」
答えてくれるわけではなかったが、それでも歩み寄って来る黒猫に私は手を伸ばした。頭を撫で、体を持ち上げて、膝の上に降ろす。すると、まるでそこが元々自分の席だと謂わんばかりに、黒猫は体を丸くした。
随分と人に慣れているのね。飼われていた猫なのかしら。ふふふっ、尻尾が長くて可愛い。
だけどふと、黒い毛を撫でているとヴォルフの顔が浮かんだ。幼い時、まだ頭痛に悩まされていなかった頃だ。
あの頃もよくハーベント伯爵家を訪れていたヴォルフは、よく庭園で一緒に遊んでいた。ベンチで休憩をしている時なんか、私の膝に頭を乗せて、よく甘えてくるのだ。いつもは頼りになるお兄様みたいな人だけど、この時ばかりは私の方がお姉さんになったような気分で、嬉しくなったのをよく覚えている。
ヴォルフの髪もまた、この黒猫と同じ黒だからだろう。そんな昔のことを思い出したのは。
もう一度、ふふふっと笑うと、黒猫が私の方を見上げた。
「あら、あなたも緑色の目をしているのね。私の好きな人もね、同じ色の瞳をしているの。いつかあの人と同じ瞳の色をしたドレスを着て、パーティーに出たかったんだけど……もう叶わないみたい」
黒猫は立ち上がり、どうして? と謂わんばかりに首を傾げた。
「だって、私の命は長くて十年って言われたんだもの。これまで通りに暮らしていたら、五年。あの人と共に過ごせる道を選んだら、五年なのよ。彼にそんな重荷を背負わせたくないの」
そっと頭を撫でると、黒猫はまだ私を見上げている。もっと撫でろ、ということなのかと思って、手を頭に乗せるが、逆に首を振られてしまった。どうやら違うらしい。
もっと話せ、ということなのかしら。
なぜだかそんな風に思えた。
「好きな人には、幸せになってもらいたいじゃない? 悲しい顔なんてしてほしくないもの。だからあの人と別れようと思ったんだけど、なかなかうまくいかなくて……どうしたらいいのか、分からないの。嘘をついても、すぐにバレるから、こうして逃げることしかできないんだけど……」
「本当に別れたいの?」
「……分からない」
「好きなのに?」
「一緒にいたいよ……」
声に出したからか、気持ちが一気に溢れた。それが涙となって外へと出ていく。下を向いていたから、止めることができなかった。
涙で黒猫を濡らしてはいけない、と顔を背けた瞬間だった。黒猫も察したのか、私の膝から降りていく。こんな私を置いて、去っていたのだろう、と思っていた。
「っ!」
突然、後ろから抱きしめられた。咄嗟に顔を上げると、さきほどまで私を見上げていた黒猫と同じ、緑色の瞳に息を呑む。
「ヴォルフ……」
「ごめん。勝手に入って」
「えっと……どういうこと? 勝手にって」
そういえば、あの黒猫はどこに行ったのだろう。あんな短時間で、私の視界からいなくなるなんて、思えない。
「っ! まさか、あの黒猫ちゃんが?」
「うん。クロレンスは猫が好きだから、拒否されないと思って……本当にごめん」
「ということは、全部聞いていたのよね」
私のヴォルフに対する想いや、別れたくない気持ちを。
「婚約解消の理由を、ハーベント伯爵に聞いても答えてくれないし、クロレンスに会いたくてやって来ても門前払いをくらうしで、俺もどうしていいのか分からなかったんだ」
「だ、だからといって、猫になるなんて……一体、どうやって? 魔法なんて使えたの?」
幼い頃から共にいたのだ。ヴォルフも私と同じで魔法は使えないはず。
「これは、クロレンスのことで悩んでいた俺に、魔術師の友人が手を貸してくれたんだ。勿論、魔法は使えない。だからもう一度、猫になれって言われてもできないんだ」
「……そこまでして、婚約解消の理由が知りたかったの?」
「当たり前だろ? 俺はクロレンスのことを諦めない。五年前、一度は諦めかけたよ。だけどそんなことはしなくて良かったと思ったんだ。ずっと好きだったんだ。俺の隣にはクロレンスしかいないし、クロレンスの横も誰にも譲るつもりはないから」
私だって、と言えたら、どれだけ嬉しいか。そう思ったら、また涙が出そうだった。
「緑色のドレス。俺だって着てほしいよ。クロレンスの金色の髪に、よく似合うと思うから。俺はそうだな。同じ色で合わせてもいいし、水色の瞳と同じ色のブローチを付けるのもいいね」
「でも私、いつ頭痛が来るか分からないのよ。そんな大事なドレスを台無しにしたくない」
悪い思い出のドレスにしたくなくて、ずっと拒んでいた色だった。
「大丈夫。この間は取り乱したけど、クロレンスがなるべく頭痛で苦しまないようにする」
「そ、そんなこと、できないわ。できっこない。だって私はずっと、悩んできたのよ。いくらヴォルフが気にかけてくれたからといっても、これはどうしようもないのよ。私の意思でどうにか……っ!」
痛い。こんな大事な時に、また痛みが……。
「クロレンス。痛いところ悪いけど、少しだけ顔を後ろに傾けて」
この痛みから解放してほしくて、私は言われるがまま、顔を上げ、後ろにいるヴォルフへと預けた。するとヴォルフの手が前へと伸び、私のブラウスの首元に、何かを取り付ける。途端、水色の光に包まれ、痛みが引いていくのを感じた。
あれだけ痛かったのに。
「ヴォルフ、このブローチは何?」
「さっき、魔術師の友人がいるって言っただろう? ずっとクロレンスが頭痛に悩んでいたから、俺もどうにかしてあげたくて、その友人に頼んでいたんだ。本当は、もっといい形で渡したかったんだけど、その頭痛が原因で婚約解消しようとしていたんなら、放っておけなくて。いや、勿論、クロレンスの苦しんでいる姿を見ていたくないからで」
そのあとも何やらごちゃごちゃと、言い訳を並べていたが、重要なのはそこではない。私のために、ずっと前から考えていてくれていたことが嬉しかったのだ。
「魔法で頭痛が治るのね。凄いわ」
「治ったわけじゃないよ。一時的に痛みを抑えてくれているだけ。それに、こんなに光が強かったら、外出やパーティーにも支障が出るからね。改良してもらわないと」
「えっ、でも作るの大変なんじゃないの? これだけでも凄いのに」
あれだけ悩んでいた頭痛が、一気に解消されたのだ。ヴォルフの言う通り、不便なところがあるかもしれないが、そんなの関係ない。
「これがあれば、長生きできるんじゃないかしら。頭痛を抑えられれば、脳への負担が減るわけだし。あっ、でも、魔法だから、どうなのかしら」
魔術師は医者ではないのだ。分野が違うから、判別がつかなかった。
後日、お医者様に来てもらい、尋ねたところ、私の見解と同じ判断をしてくれた。その席には、勿論、ヴォルフの姿もあり、それはもう私以上に喜んでくれた。
なにせこれで、婚約を解消する理由がなくなったのだ。とはいえ、ブローチの改良など、まだまだ問題はあるけれど、ヴォルフの傍にいられる。共に生きられると思うと、どれもさほど大きな問題には感じなかった。
私が緑色のドレスを着られる日も、そう遠くないような気がした。





