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灰の降る街と、光の海

作者: 久遠 睦

第一部 日々の灰色


第一章 午前七時四十二分の山手線


午前七時四十二分、山手線の内回り。ドア横の定位置に滑り込んだ美月みづきは、そっと息を吐いた。ガラス窓に映る自分の顔は、三十六歳という年齢よりも少し疲れて見える。同じように無表情な顔、顔、顔。スマートフォンの画面に目を落とす人々が、電車の揺れに合わせて静かに揺れている。

高校を卒業し、鹿児島から上京して十八年。普通の大学を出て、丸の内の中堅商社に事務職として就職した。大きな失敗もなければ、目覚ましい成功もない。ただ、与えられた仕事をこなし、季節が巡るのをカレンダーで確認するだけの日々。気づけば、三十路も後半に差し掛かっていた。

中野のワンルームマンションは、彼女の人生そのものを表しているようだった。きちんと片付いてはいるが、個性のない、借り物の空間。家賃は収入の三分の一近くを占め、毎月の光熱費や通信費を引くと、自由に使えるお金は限られている 。貯金はしているが、世帯持ちの同年代の平均貯蓄額には遠く及ばないだろう 。独身の一人暮らしという自由は、経済的な不安という見えない檻に囲まれている 。

「次は、新宿」。

無機質なアナウンスが、美月の思考を遮る。窓の外を流れる灰色のビル群を眺めながら、彼女は思う。私はいつから、人生の傍観者になってしまったのだろう。学生の頃は、もっとやりたいことがあったはずなのに。今はただ、この満員電車に揺られ、決められた駅で降り、同じデスクに座る。その繰り返し。惰性という名のレールの上を、ただ走り続けているだけだった。


第二章 ひとりの週末


土曜日の朝は、遅めに起きるのが習慣だった。誰に気兼ねすることもなく、自分のためだけに時間を使えるのは独身の特権だ、と自分に言い聞かせる 。

午前中は、溜まった洗濯物を片付け、部屋を掃除する。午後は、特に目的もなく銀座をぶらついた。ショーウィンドウに飾られた美しいバッグや靴を眺める。いつか、値段を気にせずに両手いっぱいの買い物をしてみたい。そんな叶わぬ夢を抱きながら、結局デパ地下で少し高級なケーキを一つだけ買って帰るのが常だった 。

夜は、買ってきたケーキとコンビニのパスタで簡単な一人分の夕食を済ませる。そして、動画配信サービスを開くのがお決まりのコース。最近は韓国ドラマに夢中だった。ポップコーンを抱え、部屋の照明を少し落として、架空の恋愛に心をときめかせる。それは寂しさを紛わすための、ささやかな儀式だった 。

ふと、スマートフォンのSNSを開いてしまう。そこには、友人たちのきらびやかな人生が並んでいた。純白のウェディングドレス、生まれたばかりの赤ん坊の手、昇進祝いのシャンパン。あるいは、海外出張の報告や、専門職として活躍する姿。結婚・出産という道にも、バリバリのキャリアという道にも、自分は属していない。どちらでもない場所に、ぽつんと取り残されている感覚 。周りと比べては、自分のことが嫌になる。このままでいいのかという漠然とした不安が、夜になるにつれて濃くなっていく 。

「かわいそう、と思われているんじゃないか」。そんな被害妄想に駆られることもある 。東京には、一人映画や一人カラオケ、一人で楽しめる場所はいくらでもある 。でも、それは自立した個人のための選択肢というより、商業化された孤独を埋めるための装置のように思えた。大勢の人々に囲まれているのに、誰とも繋がっていない。この街の構造そのものが、自分の孤独を深めているのかもしれない。

最近、故郷の鹿児島を思い出すことが増えた。あの甘い醤油の匂い。桜島の火山灰が混じる、ざらりとした空気。他愛ないことで笑い合った友人たちの顔。親も、若い頃は口うるさく結婚の話をしてきたが、最近ではすっかりその話題も出なくなった。諦めと気遣いが入り混じった沈黙が、かえって胸に痛かった。


第三章 クリーム色の葉書


月曜日の夜。疲れ切った体を引きずって帰宅し、郵便受けを覗く。請求書と広告チラシの束の中に、一枚だけ、見慣れないクリーム色の葉書が混じっていた。

差出人は、県立高校の同窓会事務局。鹿児島の実家の住所ではなく、東京のマンションに直接届いたことに少し驚く。誰かが住所を教えてくれたのだろうか。校章の焼き印が、記憶の扉をノックする。

『同窓会開催のお知らせ』

その文字を見た瞬間、美月の心臓がどきりと音を立てた。最初に感じたのは、憂鬱だった。皆に会って、今の自分の話をどう説明すればいいのだろう。当たり障りのない笑顔で、「東京でOLやってるよ」とでも言えばいいのか。田舎のことだから、きっとほとんどの人が結婚して、子供もいるに違いない 。子育てやマイホームの話が中心の輪の中で、自分はきっと居場所がないだろう。

しかし、葉書を眺めているうちに、別の感情が湧き上がってきた。懐かしさ。それも、胸が締め付けられるほど強い、郷愁の念だった。桜島の麓のグラウンド。海の匂いと硫黄の香りが混じった風。母が作る、甘い醤油で煮付けた豚骨 。友達と交わした、くだらない鹿児島弁の会話 。

この葉書は、単なる招待状ではなかった。夢に満ちていた過去の自分から、惰性で生きる現在の自分への、挑戦状のように思えた。東京での灰色の日々と、記憶の中の鮮やかな故郷。その二つを分けたままでは、もういられない。出席の欄に丸をつけるべきか、欠席にすべきか。美月は、クリーム色の葉書を握りしめたまま、しばらく動けなかった。


第二部 甘い醤油の味



第四章 南へ向かう翼


結局、美月は同窓会への出席を決めた。何かを変えるきっかけが欲しかったのかもしれない。

羽田空港の喧騒の中、鹿児島行きの便を待つ。窓の外では、飛行機が次々と空へと駆け上がっていく。イヤホンからは、高校時代によく聴いていたバンドの曲が流れていた。期待と不安が入り混じった、不思議な高揚感。やがて機体が雲を突き抜け、眼下に広がる東京の街が小さくなっていくのを見下ろしながら、美月は十八年という歳月の長さを改めて感じていた。

数時間後、鹿児島空港に降り立つ。むわりとした南国の湿気が肌を撫でた。十八年ぶりの、故郷の空気。顔を上げると、錦江湾の向こうに、噴煙を上げる桜島が見えた 。東京の空とは違う、広くて、どこかゆったりとした空。到着ロビーで聞こえてくる、耳慣れたイントネーションの鹿児島弁。あまりに懐かしくて、涙が出そうになる。自分の話す言葉のテンポが、周りから少し浮いているような気がした 。

灰色の東京とは対照的な、生命力に満ちた故郷の風景。それは美月の心を慰めると同時に、自分がこの場所からどれだけ遠く離れてしまったのかを突きつけていた。桜島が静かに噴煙を上げ続けるように、美月の心の中にも、言葉にならない感情が静かに燻っていた 。


第五章 ホテルのボールルームの亡霊たち


同窓会の会場である市内のホテルは、華やかな雰囲気に包まれていた。再会を喜ぶ声、懐かしい名前を呼び合う声が、あちこちで飛び交っている。美月は少し気後れしながら、受付を済ませた。

案の定、会話の中心は家庭の話だった。「うちの子、今度小学校なの」「最近、家を建ててね」。幸せそうな笑顔の輪の中で、美月は当たり障りのない相槌を打ちながら、自分が異邦人であるかのような疎外感を覚えていた。

少し疲れて、壁際の隅で一人、グラスを傾けていた時だった。

「もしかして、美月?」

声のした方へ振り向くと、そこには少し戸惑ったような笑みを浮かべた男性が立っていた。

「……隼人はやと君?」

高校時代、同じクラスで仲の良かった、佐藤隼人だった。昔の面影は残っているが、すっかり大人の男性になっている。

「久しぶり。全然変わらないな」

「そんなことないよ。隼人君こそ」

ぎこちない会話が続く。

「美月は、東京なんだっけ?」

「うん。卒業してからずっと」

「そっか。すごいな」

何がすごいのだろう、と美月は思った。ただ流されて生きてきただけなのに。

「隼人君は、鹿児島に?」

「ああ。地元の会社で働いてる。親もいるしな」

しばらくの沈黙の後、隼人が少し照れたように言った。

「俺、まだ独身なんだよ。お互い、高校の時はすぐ結婚するだろうなんて話してたのにな」

その言葉に、美月は思わず噴き出した。

「ほんとだね。私もだよ」

二人で顔を見合わせて笑い合う。その瞬間、十八年という歳月が嘘のように消え、会場の喧騒の中で、二人だけの特別な空気が生まれた。彼もまた、大多数の輪からは少しだけはみ出した場所にいる。その事実が、美月の心を不思議なほど軽くした。


第六章 緑色の吹き出しの約束


同窓会がお開きになった後、美月と隼人は「二次会に行こうか」と自然な流れで連れ立って天文館の小さな居酒屋に入った。ここでは、ようやく本当の話ができた。

隼人は、地元の企業で働きながら、年老いた両親の面倒を見ているという。その生活は、野心とは無縁だが、地に足の着いた安定感に満ちていた。彼の話を聞きながら、美月は自分が選ばなかったもう一つの人生を垣間見る思いがした。

「美月は、東京での生活、楽しいか?」

隼人のまっすぐな問いに、美月は初めて正直な気持ちを口にした。

「楽しい、かな……。でも、時々すごく寂しくなる。何のために毎日働いてるのか、分からなくなる時がある」

運ばれてきたのは、きびなごの刺身と、揚げたてのつけ揚げ(さつま揚げ)。甘い醤油をつけて口に運ぶと、懐かしい味が全身に染み渡った。隼人が頼んだ焼酎は「前割り」にされていて、口当たりが驚くほどまろやかだった 。故郷の味と香りに包まれて、美月の心は少しずつ解きほぐされていく。

別れ際、駅の改札で、どちらからともなくLINEを交換した。それはごく自然な行為でありながら、何か特別な約束のように感じられた。実家へ向かう電車の中で、スマートフォンの画面が光る。緑色の吹き出しに、隼人からのメッセージが表示されていた。

『今日は話せてよかった。気をつけて帰ってな』

その短い文章が、美月の心に温かい灯りをともした。


第三部 遠い街からの信号


第七章 メッセージのリズム


東京に戻ると、再び灰色の日常が始まった。しかし、以前とは決定的に違うことが一つあった。美月のスマートフォンには、毎日、隼人からのメッセージが届くようになったのだ。

『今日の昼飯。黒豚とんこつラーメン』

そんなメッセージに、鹿児島の風景写真が添えられている。美月も、自分の昼食の写真を撮って送り返す。

『こっちは普通の生姜焼き定食』

他愛もないやり取りが、日々のリズムになった。満員電車の中で彼のメッセージを読んでは、思わず頬が緩む。無数の人々の中に埋もれながらも、遠い街の誰かと繋がっている。その事実が、美月の孤独を少しずつ溶かしていった。共有する相手がいるだけで、今まで色褪せて見えていた日常が、ほんの少しだけ彩りを持ち始める。受動的に日々をやり過ごすのではなく、今日の出来事を彼に伝えようと思うことで、美月は自分の人生に能動的に関わり始めていることに、まだ気づいていなかった。


第八章 告白


ある夜、残業で疲れ果てて帰宅した美月は、隼人とLINEをしていた。話題は自然と、高校時代の思い出話になった。

『文化祭の時、美月のクラスの劇、面白かったよな』

『覚えてるの? 隼人君のクラスの喫茶店、行ったよ』

懐かしい記憶を辿るうちに、会話は少しずつ熱を帯びていく。

『あの頃さ、俺、美月のこと、好きだったんだ』

隼人から送られてきたそのメッセージに、美月の心臓が大きく跳ねた。画面を見つめたまま、指が動かない。十八年越しの、不意打ちの告白。

鼓動が落ち着くのを待って、美月はゆっくりと文字を打ち込んだ。

『……私も、隼人君のこと、好きだったよ』

送信ボタンを押した指が、微かに震えていた。

すぐに返信が来る。

『マジか』

その一言に、彼の驚きと喜びが凝縮されているようで、美月はたまらなく可笑しくなった。同時に、胸の奥から温かいものが込み上げてくる。過去の後悔だと思っていたものが、未来への可能性に変わった瞬間だった。もしも、あの時……。そんな「もしも」が、今、現実になろうとしている。


第九章 故郷の味を求めて


告白を境に、美月の心は大きく揺さぶられた。東京での生活が、どこか仮住まいのように感じられるようになった。

彼女は、無性に鹿児島に触れたくなった。週末、有楽町にある県のアンテナショップ「かごしま遊楽館」へ足を運んだ 。店内には、かるかんやボンタンアメ、甘い醤油がずらりと並んでいる。懐かしい品々をカゴに入れながら、まるで故郷への巡礼をしているような気分になった。

その夜、美月は少しだけ勇気を出して、渋谷にある鹿児島料理の店を一人で訪れた 。カウンター席に座り、きびなごと芋焼酎を注文する。周りから聞こえてくる鹿児島弁が、心地よいBGMのようだった。目の前に出されたきびなごの写真を撮り、隼人に送る。

『東京にも、いい店あるんだな』

すぐに返信が来た。

『今度は、俺が美味い店に連れてってやるよ』

そのメッセージは、新たな約束のように響いた。美月は、連休を取って鹿児島へ行くことを、その場で決めた。


第四部 古い線をなぞって


第十章 城山からの眺め


連休初日、鹿児島空港に降り立った美月を、隼人が車で迎えに来てくれた。再会した瞬間、気まずさはなく、ただ照れくさいような嬉しいような気持ちが二人を包んだ。

彼が最初に向かったのは、城山公園の展望台だった 。高校時代、何度も訪れた場所。眼下には鹿児島市街が広がり、その向こうには、相変わらず悠然と煙を上げる桜島が見える。

「変わらないな、ここは」

美月が呟くと、隼人が隣で頷いた。

「でも、少しずつ街は変わってるよ」

二人は並んで景色を眺めながら、メッセージでは伝えきれなかった、お互いの十八年間を埋めていく。故郷の風景が、二人の関係を、バーチャルなものから確かな現実へと変えていくようだった。


第十一章 白熊と磯海水浴場


翌日は、高校時代のデートコースをなぞるような一日になった。

まずは天文館の「むじゃき」で、名物のかき氷「白熊」を食べる 。山盛りの氷にかけられた甘い練乳と、色とりどりのフルーツ。二人で一つの白熊をつつきながら、子供のようにはしゃいだ。

その後は、磯海水浴場へ向かった 。桜島を望む、黒い火山灰の砂浜。波打ち際をゆっくりと歩く。どちらからともなく、そっと手を繋いだ。温かくて、少し汗ばんだ彼の手の感触が、美月の心を安心させた。

「いおワールドかごしま水族館」では、巨大な黒潮大水槽の前で、ジンベエザメが悠々と泳ぐ姿を飽きずに眺めた 。青い光に照らされた横顔を見ながら、美月は思う。失われたと思っていた時間は、決して無駄ではなかったのかもしれない。この再会のために、必要な時間だったのかもしれない、と。

古い場所に新しい思い出を上書きしていく。それは、過去の「もしも」を、現在の確かな愛情で塗り替えていく作業のようだった。


第十二章 砂の温もり


最終日、隼人は美月を指宿までドライブに連れて行ってくれた。目的は、名物の砂むし温泉だ 。

専用の浴衣に着替え、海岸の砂の上に横たわると、係の人が温かい砂を体の上にかけてくれる。ずしりとした砂の重みと、じんわりと伝わってくる熱。身動きが取れない不思議な状態で隣に並んで横たわっていると、普段は言えないような素直な気持ちが口をついて出た。

「東京に帰りたくないな」

美月の言葉に、隼人が静かに答える。

「帰ってこいよ」

その一言が、美月の心の奥深くまで届いた。

砂から出て、温泉で汗を流した後、二人は海岸で夕日を眺めていた。オレンジ色に染まる空と海。その美しい景色を背景に、隼人が美月の方を向いた。そして、ゆっくりと唇が重なる。それは、情熱的というよりは、長い旅路の果てにたどり着いた安息のような、温かくて優しいキスだった。


第五部 風の向き


第十三章 向こう岸からの眺め


東京のワンルームマンションに戻った美月を待っていたのは、耐え難いほどの静寂だった。今まで当たり前だった一人の空間が、今はがらんとした空虚な場所にしか思えない。窓の外に広がる都会の夜景は、かつて憧れたきらびやかな光ではなく、冷たくて無機質な光の点滅に見えた 。

会社に行っても、仕事に身が入らない。隼人との毎日のビデオ通話が唯一の救いだったが、画面越しの彼の笑顔を見るたびに、千キロ以上もの物理的な距離を思い知らされて胸が痛んだ。

彼女の世界は、すっかり変わってしまった。かつては受け入れていた東京での孤独な生活が、もう耐えられないものになっていた。問題はもはや、「私は幸せなのだろうか」という内面的な問いではない。「どうすれば、私たちは一緒にいられるのだろうか」という、具体的で切実な問いに変わっていた。


第十四章 厳しい計算


美月と隼人は、現実的な話し合いを始めた。美月は鹿児島の求人情報を検索したが、厳しい現実に直面する。東京に比べて給与水準は低く、彼女のキャリアを活かせる職はほとんどない。そもそも、若者、特に女性は、鹿児島から福岡や東京へと流出するのが一般的で、その逆は稀だった 。

一方、隼人も地元の仕事を辞め、年老いた両親を置いて上京するのは現実的ではなかった。愛しているだけでは越えられない、経済と地理という大きな壁が、二人の前に立ちはだかっていた。

電話口で交わされる会話は、愛情と、もどかしさと、どうにもならない現実への苛立ちでいっぱいだった。


第十五章 風向きを確かめる


数週間、悩み抜いた末に、美月は一つの決断を下した。

それは、すべてを捨てて今すぐ鹿児島に帰る、というようなおとぎ話ではなかった。もっと現実的で、地に足の着いた選択だった。彼女はまず、鹿児島でも通用するスキルを身につけるため、オンラインで専門講座の受講を申し込んだ。そして、本格的にUターン転職の準備を始めた。隼人も、リモートワークの可能性を探り始めた。時間はかかるかもしれない。簡単ではないだろう。でも、二人で未来を築くための、確かな一歩だった。

ある日の夕方、美月はマンションのベランダに出て、空を見上げた。東京の人は、雨が降るかどうかを気にして空を見る。でも、鹿児島の人は、風の向きを確かめるために空を見る。桜島の灰が、どちらに流れていくかを知るために 。

美月は、いつの間にか忘れてしまっていたその習慣を、思い出していた。どちらから風が吹いているのか。どちらへ進むべきなのか。

未来はまだ不確かだ。でも、もう惰性で流されるだけの自分はいない。灰が降るのをただ待つのではなく、風の向きを読み、自分の意志で舵を取る。その手の中には、火山の麓にある故郷と同じくらい、温かくて確かな愛情が握られている。美月は、遠い南の空に向かって、静かに微笑んだ。


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