第二章第一話 壊れた神託の処刑
処刑は、いつだって静かだ。
騒ぐのは見物人で、泣くのは家族で、祈るのは神官だ。斬る側は静かでいい。静かであるほど、刃はよく入る。よく入れば、余計な音が出ない。余計な音が出なければ、神意は正しく見える。
俺の仕事は、その正しさを作ることだった。
白巫王国の北、雪の残る刑場。
柱は新しい木で、縄は固く、台の下には藁が敷かれている。血を吸わせるための藁だ。血は地に落とすと汚れる。汚れは浄めが面倒になる。面倒は嫌われる。だから藁を敷く。制度は、優しさではなく手間を嫌う。
見物人は多くなかった。
この手の処刑は、見せるための処刑ではない。見せないための処刑だ。
罪状は『神意への反抗』。
実態はもっと単純で、もっと下品だ。
──神託の記録が、揃わなくなった。
揃わない記録は、白巫家にとって汚れだ。汚れは原因が必要になる。原因は人に押しつけるのが一番早い。押しつける相手は弱いほどいい。弱い相手ほど、よく燃える。
柱に縛られているのは巫女だった。若い。目が乾いている。泣いていない。泣き方を奪われた顔だ。白い衣は着せられているが、白が薄い。薄い白は、これから剥がされる白だ。
神官が祝詞を唱える。
白い声。白い言葉。白い理屈。
「神意は揺らがない。揺らぐのは人の心──」
知っている。何百回も聞いた。
聞くたびに、俺の中の何かが冷えていった。冷えは怒りではない。諦めだ。諦めると、仕事が楽になる。
俺は赤刀衆だった。
神の刃。王国の刃。白巫家の刃。
刃は疑わない。疑う刃は折れる。折れた刃は捨てられる。捨てられた刃は、土に戻る。土に戻ると、拾われる。拾われると、また刃になる──そういう循環を、俺はどこかで笑っていた。
神官の声が止む。
巫女が小さく息を吸う。
ここからが神託の確認だ。
本来、処刑に神託は要らない。
罪が決まっているなら、斬ればいい。だが白巫家は、斬ることそのものを神意に見せたい。斬る行為を神が望んだと見せたい。見せたいなら、儀式が要る。儀式には神託が要る。
神託が要るなら、巫女が要る。
巫女が要るなら、器が要る。
器が要るなら、壊れる前に使い切る。
巫女の唇が震えた。
目の焦点が合わなくなる。そこまではいつも通りだ。いつも通りに、神意は降りる。
──降りるはずだった。
空気が、きしんだ。
鈴は鳴っていない。風もない。
なのに、刑場の影が一拍遅れて動いた気がした。柱の影が、巫女の足元から遅れて伸びる。遅れは一瞬で、見物人は気づかない。気づかないから、世界は正しいままでいられる。
俺は気づいた。
気づいたとき、背筋の奥が冷えた。
冷えは、懐かしい冷えだった。刃を抜く直前の冷えに似ている。あれは命を切る前の冷えだ。だが今の冷えは、命ではなく──別のものが切れる予感だった。
「……神託を」
神官が促す。
巫女の口が開く。
だが、言葉にならない。
音が出る前に、喉の奥で折れる。
折れた音が、耳ではなく骨に響く。
巫女が咳き込み、泡を吹いた。
白い泡。白い衣に落ちる泡。白に白が落ちるのに、汚れに見える。汚れに見えるのは、白が嘘をついている証拠だ。
見物人がざわつく。
神官が顔色を変える。
「……落ち着きなさい。器よ、正しく──」
器、と呼んだ。
名前ではなく、器と。
その瞬間、巫女の目が開いた。
開いた目は、誰も見ていない。いや、見ている。こちらではないどこかを見ている。神意を見る目だ。神意を受け取る目だ。
なのに、その目が──怖がっている。
神官も、見物人も、兵も。
みんな怖がっているのは失敗だ。儀式の失敗。神託の失敗。体裁の失敗。
巫女は違う。
巫女が怖がっているのは、もっと根っこだ。
──降りてきたものが、神じゃない。
そう言うような目だった。
次の瞬間、巫女の身体が跳ねた。
縄が軋み、柱が鳴る。骨が鳴る。鳴り方が悪い。人間の鳴り方ではない。器が割れる音に近い。
巫女の首が、ぐぐ、と変な方向を向いた。
折れたのではない。折られたように向いた。誰かが、見せるために向けた角度。
──ここを見ろ。
俺は喉の奥が乾いた。
嫌な乾きだ。血を見た乾きではない。祈りを見た乾きだ。
神官が叫ぶ。
「違う! これは神意ではない、これは──」
言いかけて、言葉が途切れた。
途切れたのは喉ではない。空気が途切れた。
鈴が鳴った。
いや、鳴ろうとして、鳴れなかった。
音が途中で折れて、耳の奥に刺さる。刺さった瞬間、見物人の何人かが膝をつく。祈りの姿勢に似た形で、倒れる。倒れるのは信仰ではない。体が勝手に折れる。
神託が、現象になった。
神官が震える手で、祝詞を続けようとする。
続ければ正しさを取り戻せると思っている。そう思わないと崩れる。崩れれば白巫家が崩れる。白巫家が崩れれば、王国が崩れる。王国が崩れれば、俺みたいな刃は行き場を失う。
俺は、腰の刃に手を置いた。
刃の欠けに指が触れる。
欠けは、あの夜にできた。最初に神託が折れた夜。刃が祈りを切った夜。祈りは切れない。切れないものを切ろうとすると、刃が欠ける。
欠けた刃で、俺は仕事を続けた。
続けられると思っていた。
制度はいつだって続く。続くから制度だ。続かないなら、制度じゃない。
──違う。
制度は続けるものではなく、続いてしまうものだ。
続いてしまう限り、誰かが犠牲になる。犠牲が尽きたとき、制度は壊れる。
その壊れる瞬間が、いま目の前にある。
巫女の口が、再び動いた。
今度は言葉が出た。
「……や──め」
一語。
神託ではない。神意でもない。人の声だ。人の拒絶だ。
拒絶は祈殿では許されない。
拒絶は制度の外側にしかない。
巫女の目から涙が落ちた。
涙は白い頬を濡らし、白い泡と混ざって、ただの汚れになった。
神官が一歩下がる。
下がる神官は初めて見た。白巫家の白が、恐怖で後退する。
次に来るのは、俺の役目だ。
事故にする。
神託の破綻は、見せてはいけない。
見せれば、神の席が空いているとバレる。玉座の脚が腐っているとバレる。バレれば、外側の連中が嗅ぎつける。嗅ぎつけたら、戦になる。
戦になったら、もっと死ぬ。
死ぬなら、今ここで一人死ねばいい。
そういう計算が、白巫家の慈悲だ。
俺は刃を抜いた。
抜いた瞬間、空気が少しだけ整った。刃があると、世界は分かりやすい。切るか切られるか。祈るか祈らされるか。
巫女は俺を見た。
睨まない。恨まない。助けを求めない。
ただ、分かっている目だ。
これが結末だと知っている目。
俺は一歩近づき、刃を構えた。
その瞬間──影が遅れた。
俺の影が、俺の動きに追いつかない。
影が遅れるということは、光が遅れるということだ。光が遅れるなら、現実が遅れる。現実が遅れるなら、切断が遅れる。
刃が、空を斬った。
斬ったはずなのに、手応えがない。
次の瞬間、遅れて手応えが来た。
遅れて来た手応えは、最悪だった。
骨ではない。肉でもない。
もっと硬くて、もっと脆いものを切った感触。
──祈りの殻。
刃が、小さく欠けた。
欠けた欠片が地に落ち、藁に吸われる。藁が吸ったのは血ではない。黒い、乾いた何かだ。鉄臭い何かだ。
巫女は、息を吐いて倒れた。
首は、相変わらずここを見ろという角度のままだった。
神官が、すぐに祝詞を再開する。
再開できるということは、彼らがなかったことにする準備ができているということだ。
「──神意は正しく、穢れは滅び……」
俺は刃を納めた。
欠けた刃を、何事もなかったように。
見物人は「神罰だ」と囁き合い、兵は「事故だ」と報告し、神官は「慈悲だ」と記録する。記録は揃う。揃った記録は正しい。正しいものは疑われない。疑われないから制度は続く。
続く。
続いてしまう。
だが、俺の指先は知っていた。
刃の欠けが増えている。増える欠けは、いつか刃を折る。刃が折れたら、制度の嘘が露になる。
そして、巫女の最期の一語が耳に残る。
──やめ。
やめろ、と言われたのは神官でも、白巫家でもない。
たぶん、神だ。神託ではない神。言葉ではない神。
俺はその夜、初めて確信した。
神は、揺らがないのかもしれない。
だが──白巫家の神託は、もう揺らいでいる。
揺らいだものを揺らいでいないことにするために、
これからもっと死ぬ。
だから俺は、赤刀衆を捨てた。
信仰を捨てたのではない。
続いてしまう地獄を、捨てた。
そして今、境界で吐いた追放巫女の目を見て、思った。
──あの目は、あの夜の巫女と同じだ。
壊れた神託を見てしまった目。
見てしまったのに、まだ生きている目。
俺は、ようやく火種を見つけたのかもしれない。
神の席が空いた世界で、
誰かが座る前に。
俺は、火を運ぶ。




