第一章第八話 焔(ほむら)
男の歩き方は、迷いがなかった。
境界の葦を踏み、湿った土を踏み、死体の匂いの上を踏んでも、足取りが変わらない。変わらないまま、私の前を進む。兵たちは距離を取ってついてくるだけで、追いすがる気配はない。追いすがると痛い目を見る──そういう種類の男だと、彼らの体が先に理解している。
私は男の背中を見つめながら、息を整えた。
吐き気は引いている。代わりに胸の奥が熱い。怖い、というより、知らない戸を開けてしまった感覚に近い。開けた戸の向こうが暗くても、閉じる手段はもうない。
「名前」
男が言った。振り返らない。
問いかけではなく、確認だ。
「……白巫ミサキです」
言った瞬間、兵の一人が小さく息を呑んだ。
白巫の名はまだ効く。効くからこそ、面倒になる。面倒は嫌われる。
男は、ふうん、とだけ鼻を鳴らした。
「白巫、ね」
それは畏れでも、敬意でもなかった。
ただ、分類しただけの声。
「お前、追放された」
言い切られて、私は足が止まりそうになった。
追放されたことを、私はまだ誰にも正しく言っていない。言わないまま、言葉を飲み込む癖だけで歩いてきた。なのにこの男は、私の白衣の薄さと、背筋の伸ばし方と、息の深さで見抜いた。
「……なぜ」
「白衣が軽い」
男は、肩越しに一度だけ私を見た。
「白巫の白は、もっと重い。重く作ってある。重いと、動きが鈍るからな」
ぞっとした。
白衣が、器を鈍らせるために重い? そんな発想を私はしたことがない。白は清らかさで、神意で、誇りだと教えられてきた。誇りの布が、鎖の布だったなんて。
男は歩きながら続けた。
「それに、目が違う。白巫の目は、死体を見ない」
私は言い返せなかった。
死体を見た。吐き気がした。影が遅れた。私は見た。見てしまった。
男は土の上に立ち止まると、葦の方角へ顎をしゃくった。
「あれ、片付ける」
兵が苛立った声を出す。
「白巫が来る前にって言っただろ! お前が何者だろうと──」
男は振り返りもしない。
腰の刃に手を置き、ゆっくりと鞘をずらした。抜かない。抜かないのに、刃の気配だけが空気を裂く。
兵の喉が鳴った。
槍の穂先が、ほんの少し下がる。
「……勝手にしろ」
兵は吐き捨てて下がった。
勝手にしろ、という言葉は、見なかったことにするための言葉だ。
男は葦の影へ戻り、死体の傍でしゃがんだ。
首の角度、痣の位置、鈴。迷いなく確認する。確認の仕方が手慣れている。祈りの確認ではない。仕事の確認だ。
「これ、見せ物だな」
男が呟く。
「……見せ物」
私が口にすると、男は鈴を指で弾いた。
鈴は鳴らない。鳴らないはずがないのに、音が途中で折れた。
耳の奥が、きゅ、と締まる。
私の胸の針が、ちくりと動く。
男が私を見た。
「反応するな。するとバレる」
「……何が」
「お前がそういう器だってこと」
器。
白巫家が私に押しつけた言葉を、この男は別の意味で使う。器は支配の道具ではなく、危険の兆候として扱われる。
男は立ち上がり、死体の衣を少しだけ直した。
祈殿のように丁寧にするのではない。むしろ、合図を消すために形を崩す。痣が見えないよう、泥をかぶせる。鈴を拾い、土の中へ押し込む。
「……あなたは、誰ですか」
私が問うと、男はようやく名を返した。
「焔」
短い。
燃えるものの名なのに、声は冷たい。
「赤刀衆か?」
兵の一人が吐き捨てるように言った。
その単語が出た瞬間、空気がさらに重くなる。白巫家の白とは違う種類の恐怖だ。暴力の名だ。
焔は否定しなかった。
「昔な」
昔。
昔と言えるほど、今の焔には何があるのだろう。
焔は腰の刃に触れた。
鞘の口が擦れ、金属が小さく鳴く。刃の根元に、欠けが見えた。研げば消える程度の欠け。だがその欠けが、奇妙に剥がれた形をしている。削れたのではなく、欠片が抜けたように。
私は、なぜか目を逸らせなかった。
刃の欠けを見た瞬間、胸の奥が熱を帯びる。祈りの吐き気とは別の反応。もっと直接的な、切断の感覚。
焔が気づいたのか、刃を押さえるように手を置いた。
「見るな」
今度は命令だった。
白巫家の「見るな」と違う。制度を守るためではない。生き残らせるための「見るな」だ。
「……あれと同じ匂いがする」
私は、つい言ってしまった。
死体の鉄臭さ。祈殿の香に混じっていた匂い。祠の吐き気。全部と繋がる匂い。
焔は目を細めた。
「白巫の中が、割れ始めてる」
断言。
「割れ……」
「神託だか神意だか知らねえが、あいつらの正しさがだ」
焔は空を見上げた。
王都の白い壁は遠い。遠いのに、その向こうで鈍い音がもう一度した気がした。石が割れる音。制度が軋む音。
兵が落ち着かない様子で言った。
「焔! 上が呼んでる。お前じゃなく──そいつをだ。白巫の連中が……」
「呼ぶなら呼ばせとけ」
焔が、兵の言葉を一刀で切った。
「呼ばれて行けば、お前は戻る。戻れば、また器だ」
その戻るが、私の背骨に刺さった。
白へ戻る恐怖。呼吸が浅くなる恐怖。考えが薄くなる恐怖。
「……私は、どうすれば」
問いが、初めて私の口から落ちた。
祈殿では問わなかった。診殿でも、裁殿でも問わなかった。問うのは傲慢だと教わったから。
でも今、私は問う。
焔は私を見た。
観測ではない。値踏みでもない。選別だ。
「生きるなら、逃げろ」
短い。
優しくない。けれど嘘がない。
「逃げても、追ってくる」
私が言うと、焔は鼻で笑った。
「追ってくるなら、そいつらが怖がってる証拠だ」
怖がっている。
白巫家が。王国が。制度が。
私が何であるかを、私はまだ知らない。
でも、彼らが怖がるものを私は抱えている。
焔が背を向けた。
「夜が明ける前に、この境界を越える。ついて来るなら来い」
ついて来る。
その言葉が、私の胸を軽くした。
同時に、恐ろしくもした。ついて行けば、私は白巫家の外側へ完全に出る。外側は自由で、自由は乱暴で、乱暴は死ぬ。
私は一瞬だけ、王都の方角を見た。
白い壁。白い祈殿。白い裁殿。私を捨てた白。
捨てられたのに、戻りたいと思う。
戻りたいと思う自分が、恥ずかしい。
私は息を吸った。
外の風は雑味がある。雑味があるから、深く吸える。
「……ついていきます」
言葉が出た。
出てしまえば、意外と簡単だった。
焔は立ち止まらないまま、肩越しに言った。
「後悔しても、戻れねえぞ」
私は頷いた。
「……戻れないほうが、いい」
自分の声が、思ったより低かった。
巫女の声ではない。器の声でもない。人の声だった。
焔は、ほんの少しだけ口角を上げた。
それは笑みではない。火種に息を吹きかけるときの、確認みたいな表情だった。
「泣くなら、逃げてからにしろ」
その言葉は冷たいのに、妙に現実的で、だから救いに近かった。
私たちは暗い街道を歩き出した。
境界を越える。白巫の網が薄くなる方へ。神の席が空き、玉座の脚が腐り始める方へ。
背後で、兵たちが小さく呟く声が聞こえた。
「……あいつ、本当に戻ってきやがったのか」
「赤刀衆の焔……」
名が噂として転がる。
噂は刃より早い。
私はその名を、心の中で繰り返した。
焔。
燃える名。
けれどこの男の火は、誰かを暖める火ではない。
──世界を、焼き直す火だ。
その火に近づくたび、私の胸の奥の針が熱を帯びていく。
神意ではない。祈りでもない。
選ばれなかった者が、選ぶ側に回るときの熱だ。
夜明けはまだ遠い。
でも、白巫王国の白は、もう揺れていた。




