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第一章第七話 境界に立つ死体

 

 王都へ戻る道は、まっすぐではなかった。


 兵に引かれて歩くうち、私は気づく。彼らは私を()()しているのではない。避けている。白巫家の中へ入れないように、白い壁の近くへ寄せないように。つまり、私を呼んだ「上」は、白巫家ではない。


 王国の都合だ。


 白巫の都合ではない。


 それだけで、胸の奥の針が少しだけ静まった。白巫家に戻されることが一番怖かった。白へ戻れば、また器になる。器になれば、呼吸が浅くなる。呼吸が浅くなると、思考が薄くなる。薄くなれば、揺らぎを揺らぎとして認めなくて済む。


 認めないまま死ぬことが、いまの私には一番の恐怖になっていた。


「……どこへ」


 問いかけると、兵は答えなかった。

 答えないということは、命令ではなく、ただの処理だ。処理には説明が要らない。


 夜は深く、空気は濃かった。

 外縁の闇は、祈殿の闇より優しい──そう思いかけて、すぐに訂正する。優しい闇などない。闇はただ、光が届いていないだけだ。光が届いていない場所では、人の欲が届く。人の欲は、神意よりもずっと直接的で、ずっと乱暴だ。


 道が細くなる。

 家々が減り、畑が増え、土の匂いが濃くなる。王都の白い壁は遠のき、代わりに低い丘と枯れた葦が見えた。ここは境界地帯だ。白巫王国の秩序が薄くなる場所。祈りの網が目に見えないほど粗くなる場所。


 ──そして、神の席が空くとき、真っ先に空気が漏れる場所。


 兵が足を止めた。

 街道の脇、葦が揺れている。風は弱いのに、葦だけが妙に動く。生き物がいる、という揺れ方だ。


「……見るな」


 兵が低く言った。


 見るな。

 その言葉は、白巫の里でも何度も聞いた。見るな、問うな、疑うな。世界を正しいままにするための合言葉。だが、私はもう巫女ではない。正しさを保つ職務を剥奪された。


 私は──見た。


 葦の影に、体が横たわっていた。

 人だ。男か女かは、すぐには分からない。衣は粗く、土と湿り気で重くなっている。顔は半分、葦に埋もれて見えない。


 死体は、ただそこにあるだけなのに、空気が歪む。

 嗅いだことのない鉄の匂いがする。血の匂いではない。血の匂いに似せた、もっと乾いた匂い。祈殿の香に混じっていた鉄臭さと同じ種類の匂いが、ここでは隠されずに露わになっている。


 私は一歩近づきそうになって、兵の手が伸びた。


「止まれ」


 命令。

 だが兵の声は震えていた。怖がっているのは私ではない。彼らだ。死体が怖いのではない。死体が示すものが怖い。


「……誰ですか」


「知らん」


 兵は吐き捨てるように言った。


「境界で拾った。……いや、拾ったと言うな。見つけた。見つけただけだ」


 言い換えは、責任の回避だ。

 拾えば関与になる。関与すれば裁かれる。裁くのは白巫家で、白巫家の裁きは()()の名を借りる。神意が揺らげば、裁きの名が揺らぐ。揺らげば、兵はただの暴力に戻る。


 戻りたくないのだろう。

 誰も、ただの暴力にはなりたくない。


 私は葦の間から、死体の手を見た。

 指が、奇妙に揃っている。握っているわけではない。開いているわけでもない。祈りの手でもない。何かを掴む途中で固まったみたいに、指の関節だけが不自然に折れている。


 そして──


 死体の首が、変な方向を向いていた。

 折れている、というより、向けられたように。まるで誰かが()()()()()と指示したみたいに。


 胸の奥の針が、ちくりと動いた。


 見るな、ではなく。

 見ろ、だ。


 誰かがここで、誰かに向けて合図を残した。

 合図は死体だ。残酷な合図だ。だが残酷さは、意味があるときだけ成立する。意味のない残酷はただの暴力で、意味のある残酷は──制度になる。


 私は喉が乾くのを感じた。

 祈殿で感じた乾きと同じ。神意に近づいたときの乾き。けれどここには神がいない。あるのは、死体と土と風だけだ。


 それなのに、私は反応する。


「……体が、変です」


 兵に言うつもりではなく、独り言みたいに漏れた。

 兵は苛立ったように舌打ちする。


「白巫のやつらが来る前に処理しろって、言われてんだ。見てる暇はねえ」


 処理。

 死体を処理する。

 祈殿の外では、死体は()()()()()()()()()()()。意味を持たせると面倒だからだ。面倒は秩序を揺らぐ。揺らぐ秩序は、白巫家の仕事になる。白巫家が来れば、兵の手柄は消える。兵の失態だけが残る。


 だから、処理する。


 だが。


 私は死体から目を離せなかった。

 目を離した瞬間に、見てしまったことが()()()()()()になる気がした。なかったことにされることが、怖かった。


 葦がもう一度揺れた。

 風の揺れではない。遅れがある。影が、一拍遅れて動く。


 あの時と同じだ。


 祈殿の神像の影。

 道端の祠の影。

 そして──境界の死体の影。


 共通しているのは()()だ。

 祈殿は祈りの中心。祠は祈りの残骸。死体は──祈りの否定。


 否定。


 私は初めて、その言葉を自分の内側で形にした。

 神意を否定するのではない。白巫家の()()を否定するものが、ここにある。


 死体の背中側、衣の隙間から皮膚が覗いていた。

 そこに──薄い痣があった。


 祈殿で恐れられていた印。

 器が割れかけたときに出ると言われる痣。


 だが、これは巫女の痣とは違う。

 位置が違う。形が違う。まるで文字のように、線が揃っている。


 私は思わず息を止めた。


 (……書いてある)


 何が?

 誰が?


 理解できないのに、体が理解してしまう。

 胸の針が熱を帯び、吐き気が喉元まで上がる。祠の前で起きた吐き気より強い。祈殿に近づいたときの吐き気に近い。


「……見るなって言っただろ!」


 兵が怒鳴った。

 怒鳴ることで、自分の恐怖を隠している。恐怖を隠すための怒鳴り声。


 私はその声で我に返り、ふらりと後ずさった。

 足元の土が湿っている。湿り気の中に、何か固いものが混ざっている。小さな石──いや、骨の欠片みたいな硬さ。


 私は見下ろし、そして、ぞっとした。


 足元に、鈴が落ちていた。


 祈殿の鈴ではない。

 粗末な鈴。旅人が厄除けに持つような、安い金属の鈴。だが、それがここに落ちていることが、異常だった。


 鈴の表面に、乾いた黒い汚れがこびりついている。

 血ではない。煤でもない。祈殿の香に混じっていた、あの鉄臭さの源に近い汚れ。


 私は、鈴に手を伸ばしかけて、止めた。

 触れたら、また痺れる。痺れたら、体が先に理解してしまう。


 理解してしまったら、戻れない。


 戻れない、という感覚だけが先に来て、私は笑いそうになった。

 私はもう、とっくに戻れないのに。


「……これ、白巫のものじゃない」


 兵が鈴を見て言った。

 白巫の鈴なら、もっと清らかな形をしている。清らかさは形で演じられる。これは演じていない鈴だ。生活の鈴だ。人の鈴だ。


 人の鈴が、境界の死体のそばに落ちている。

 死体には文字みたいな痣。

 首は()()()()()と指示する角度。


 誰かが──ここで何かをした。

 そしてそれを、誰かに見せようとした。


 見せる相手は誰だ。

 白巫家か。

 兵か。

 それとも──私か。


 胸の針が、もう一度跳ねた。


 この死体は、私を呼んでいる。


 そんな馬鹿な、と心が遅れて否定する。

 否定する心より先に、体が頷く。


 兵が周囲を見回し、低い声で言った。


「……ここ、嫌な感じがする。早く片付けるぞ」


 片付ける。

 意味を消す。

 合図を無かったことにする。


「待って」


 私は言ってしまった。


 兵が目を剥いた。


「なんだと?」


「……これ、白巫家に見せたほうが」


 言いかけて、私は自分の言葉に眩暈がした。

 白巫家に見せたほうが、だって?

 追放された女が?

 白巫家に?


 でも、これは白巫家が嫌がる種類の破綻だ。

 破綻を隠すために私を追放したのに、破綻は外側にもある。外側にある破綻は、白巫家の正しさを侵す。侵された正しさは、玉座の脚を腐らせる。


 兵は私の言葉に、顔を歪めた。


「白巫に持ち込むな。面倒だ」


 面倒。

 面倒は、秩序の敵だ。

 秩序が揺らげば、兵は暴力に戻る。


 その瞬間。


 葦の向こうから、別の足音がした。


 兵たちの足音より軽い。

 だが、迷いがない。

 夜道を歩き慣れた足音。


 刃物が鞘の中で鳴る、乾いた音が混ざった。


 兵が咄嗟に槍を構える。

 私の背中に冷たい汗が走る。汗は祈殿では恥だった。今は生存の印だ。


「誰だ!」


 兵が怒鳴る。


 返事はない。


 葦が割れ、影が現れる。


 月明かりを背負って、黒い外套の男が立っていた。

 背は高い。肩が広い。顔は影に隠れ、目だけが光を拾う。


 その男は、死体を一瞥し──次に私を見た。


 視線が鋭い。

 だが、兵のような値踏みではない。

 白巫家のような観測でもない。


 もっと単純で、もっと残酷な種類の目。


 「……白巫か」


 低い声。

 短い言葉。

 それだけで、空気が変わる。


 兵が一歩引いた。

 その反応だけで、この男が()()()()()()()ことが分かる。


 男は、葦の影から死体のそばへ歩き、しゃがみ込む。

 迷いなく、死体の首の角度を確かめ、痣の位置を見て、鈴に目を落とす。


 そして、淡々と言った。


「……こいつ、殺され方が下手だな」


 私は息を呑んだ。


 殺され方。

 そんな言い方をする人間を、私は初めて見た。

 殺しを()()として扱う声音。


 男が立ち上がる。

 こちらへ向き直り──私にだけ聞こえるほどの声で言った。


「お前、これを見て吐いたか?」


 質問が、剣みたいに短い。


 私は答えられなかった。

 答えたら、何かが決まってしまう気がした。

 決まるのが怖いのに、決めたい自分もいる。


 男は私の沈黙を見て、ほんの少しだけ口角を上げた。


「……なるほど」


 その()()()()は、納得ではない。

 確定だ。


 彼は兵に視線を移した。


「こいつは連れていく」


 兵が反射で叫ぶ。


「待て! そいつは──」


 男は言葉を遮るように、腰の刃に手を置いた。

 抜かない。抜かないことで、兵に想像させる。想像させるほうが早い。


 兵の喉が鳴った。


 男が、最後に私を見る。


「歩けるな」


 命令ではない。確認だ。

 歩けるなら連れていく。歩けないなら置いていく。世界はそういうふうに出来ている、と言っている目。


 私は、頷いた。


 頷いた瞬間、胸の針が熱を帯びる。

 吐き気が引く。呼吸が深くなる。


 ──境界に立つ死体が、私をここへ呼んだのなら。


 この男は、その続きを知っている。


 私は、葦の影を踏み越えた。


 死体はまだ、首をこちらへ向けている。

 ()()()()()と言うように。


 そして私は、見てしまったのだ。


 神の外側で、神が揺らぐ瞬間を。

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