第一章第六話 小さな破綻
夜は、外縁の方が早い。
王都の白い壁の内側では、灯が増えるほど夜は遅れる。白巫家の灯明は闇を追い払い、闇を追い払うことで正しさを演じる。だが壁の外では、闇は追い払われない。追い払われない闇は、ただそこにある。そこにあるだけで、少しだけ優しい。
私は路地の影に身を寄せ、膝を抱えた。
宿は見つからなかった。金がない白衣は厄介だ。白は守りにもなるが、同時に目印にもなる。目印になった白は、夜に狙われる。
それでも、私は祈殿の内側にいた頃より呼吸が深かった。
深い呼吸は生きている証拠で、同時に、いままで生きていなかったことの証拠みたいで腹立たしい。
どこかで犬が吠え、どこかで笑い声がした。
人の夜だ。神の夜ではない。
……なのに。
胸の奥が、ちくりとした。
針が刺さるような痛み。
そこで影を見た時の痛み。
そこで祠の前に立った時の吐き気の残り。
私は顔を上げた。
暗い空の向こう、王都の白い壁がある。距離はある。ここからでは祈殿の鈴も聞こえない。祝詞も届かない。
それでも、痛みは来る。
(……祈ってる)
誰が? どこで?
祈殿だ。白巫家だ。巫女たちだ。
祈りが強くなると、私は反応する。
祈りが形になると、私の体が先に知ってしまう。
診殿で言われた言葉が、遅れて繋がる。
──受信する必要がない。
──受け取らせられない。
私は唇を噛んだ。
考えが形になると、怖い。形になれば、白巫家の言葉ではなく、私の言葉になる。私の言葉は、ここでは武器にならない。ここでは、武器は金か刃か、数だ。
針の痛みが、もう一度、深く来た。
今度は痛みだけではない。耳の奥がきゅっと締まる。音のない圧が押し寄せて、頭の中が白くなる。
私は思わず立ち上がった。
路地の闇の中で、ひとりで空を睨む。
神の外側なのに。
祈りが、ここまで伸びてくる。
伸びてくるということは──祈りが、うまくいっていない。
うまくいっている祈りは静かだ。呼吸みたいに自然だ。
うまくいかない祈りだけが、余計に強くなる。強くなって、届かせようとする。届かせようとして、歪む。
私は息を吐いた。
白い息が闇に溶ける。
そのとき、路地の入口で足音が止まった。
「……白巫の娘だろ」
昼間の露店で私を値踏みした男と、似た匂いの声だった。
声は二人分、三人分。数がある。
私は後ずさる。
走りたい。走れば追われる。追われれば捕まる。捕まれば終わる──その結論は、さっきより現実的だ。
だが、男たちは私の白衣を見て、少しだけ躊躇した。
白はまだ効く。完全に死んではいない。死んでいないからこそ厄介だ。
「金、持ってるだろ」
「白巫は恵みを持ってるって聞いた」
恵み。
白巫家の貸しが、ここまで染みている。私は貸した覚えなどない。私は施した覚えもない。なのに白のせいで、私は常に持っている側にされる。
「ない」
私は短く言った。
否定の言葉が出ることに、また少し驚く。巫女は否定しない。否定は神意への反抗だから。でも今の私は巫女ではない。巫女ではないなら、否定してもいい。
「嘘つけ」
男が一歩近づく。
臭い。酒と汗と、安い香。祈殿の香の真似をした匂い。真似の方が、元より下品に残る。
私は背中が壁に触れるのを感じた。
逃げ道がない。私の白衣は、いま守りになっていない。目印になっているだけだ。
その瞬間。
胸の針が、鋭く跳ねた。
痛みが、波ではなく線になる。
一本の線が、王都の方向へ伸びる。見えない線。けれど体の内側が、それを線だと理解する。
私は息を呑んだ。
──祈殿で、何かが起きた。
そして、その何かが、いまこの場の私にまで影響している。
男の手が伸びる。
私は反射で、その手を払った。
その瞬間、指先が痺れた。診殿で筆を持ったときの痺れと同じ。
痺れは痛みになり、痛みは吐き気に変わる。
私は膝をついた。
吐き気が込み上げる。胃が裏返る。祈りの湿気が喉を塞ぐ。ここは路地なのに、祈殿の香が鼻を刺す。
「……なんだこいつ」
「薬でもやってんのか」
男たちが引く。
引くのは優しさではない。面倒を嫌う引きだ。面倒は貧しい者が最も嫌う。面倒は金にならないからだ。
私は吐かなかった。吐く前に、吐き気が別の感覚に変わった。
──音。
鈴の音ではない。
鈴のなりそこないだ。
耳の奥で、金属が軋むような音がする。
祈殿の鈴が鳴る直前の、空気の引き攣れ。だがそれが、途中で折れる。
折れる、という感覚だけが残り、音は形にならない。
私は、そこまで来て、理解した。
神託が──うまく降りていない。
白巫家の中で、いつもなら正しい順序で流れるはずのものが、どこかで引っかかっている。引っかかった結果、余計な歪みが外へ漏れている。
男たちが、互いに顔を見合わせた。
「……気味悪いな」
「やめとけ、白巫だ。呪われる」
呪い。
彼らの恐怖が、私を助ける。白巫家が作った恐怖が、白巫家から捨てられた私を守る。皮肉が過ぎて、笑いそうになる。
男たちは舌打ちしながら去った。
去り際に一人が言った。
「……でも、最近白巫の鈴、変なんだよな」
私は、その言葉に背筋が冷えた。
外縁の男ですら気づく程度に、白巫家の正しさは揺らいでいる。
針の痛みが、少しだけ引いた。
私は壁に手をつき、立ち上がる。
路地の奥から、別の足音が近づく。
今度は軽い。慌ただしい。複数の人間が走る音。
灰色の兵だった。
さっきの男たちではない。王国の兵だ。
「おい、そこの白衣!」
呼びかけは命令に近い。
白衣を見て呼び止めたのではない。白衣を問題として呼び止めた声だ。
兵が私の顔を覗き込む。
目が、紙束をめくる目をしている。
「……白巫ミサキ?」
名を呼ばれて、胸がひやりとした。
名が残っている。抹消されたはずの名が、兵の口に残っている。記録から消えた名が、どこかに「控え」として残っている。
「神官から通達だ。お前、動くな」
動くな。
それは保護ではない。拘束だ。
兵は私の腕を掴もうとし、そして躊躇した。
掴むと何かが起きるかもしれない、という顔。白巫の恐怖が、兵の手も鈍らせる。
私は、その隙に言った。
「……祈殿で、何が起きたんですか」
兵の目が一瞬、揺れた。
揺れたのは、答えを持っていないからではない。答えを知っているのに、言ってはいけないからだ。
だが、彼は口を滑らせた。
「……神託が、降り損ねた」
降り損ねた。
そんな言い方は、白巫家ではしない。神託は降りるか、受け取れないかのどちらかだ。神託そのものが躓くなど、想定してはいけない。
「巫女が一人、倒れた。泡を吹いて……」
兵は言いかけて、口を閉じた。
言い過ぎた、という顔。
泡。
神託を受ける器が壊れるとき、そうなることがある。壊れるのは器だ。神意は揺らがない。白巫家はそう言う。
だが──私の胸の針は知っている。
今揺らいでいるのは、器だけではない。
兵が私の前に立ちはだかる。
「とにかく、動くな。今夜は──」
兵の言葉が途中で途切れた。
途切れたのは、兵の口ではない。
空気が、途切れた。
王都の方向から、遠い音がした。
鈴ではない。鐘でもない。もっと鈍い、石が割れるような音。
白い壁の向こうで、何かが正しくない形で起きた音。
兵の顔色が変わる。
祈殿の方角を見て、唾を飲み込む。
「……やべえ」
それは兵の本音だった。
白巫家の白が揺らぐとき、真っ先に困るのは王国の暴力だ。秩序の根が折れれば、剣はどこへ向ければいいか分からなくなる。
私は、息を深く吸った。
胸の奥の針が、静かに熱を持つ。
怒りでも恐怖でもない。確信が、形を持つ熱。
小さな破綻は、もう小さくない。
白巫家の中だけで片付く破綻ではない。
そして──
私が外にいることは、もう都合では済まない。
兵が私の腕を掴んだ。
「来い。上が呼んでる」
呼ぶ。
今さら。
私は抵抗しなかった。
抵抗すれば、彼らは正当化できる。私はそれを許したくなかった。許したくないという感情を持つこと自体が、もう巫女の器ではない。
王都の方角で、もう一度、鈍い音がした。
石が割れる音。骨が折れる音。制度が、軋む音。
私は暗い道を引かれながら、心の中でひとつだけ思った。
──私がいなくても、大丈夫なはずですよね。
その皮肉が、ようやく現実になり始めていた。




