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灰の神託 ―神の席を奪う者たち―  作者: 宮生さん太
六章 正義の空白

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第十話 沈まない音


 王都は、静かだった。


 静かになった、というより、静かな顔を覚えたのだと思った。


 焼けた門は立て直され、割れた甕は片づけられ、広場の石畳は昨日と同じように朝のうちに掃かれている。

 灰は薄い。薄いが、消えてはいない。目地の奥、壁の継ぎ目、井戸の縁、屋根の影。燃えたものは、きれいにはなくならない。


 市場では、商人が声を張っていた。

 野菜の値を言う声。魚の鮮度を誇る声。布を広げる音。子どもが走る音。鍋の蓋が鳴る音。


 日常は戻る。


 人は、戻る。


 戻らなければ暮らせないからだ。


「あれが象徴だって」

「喋らないらしい」

「黒鴉が全部見てる」

「王は?」

「王は王だろ」


 噂はまだ街にある。

 だが噂は、腹を満たさない。

 しばらくすれば、人はまた値段の話をする。雨の話をする。子の熱の話をする。そうやって国は続いていく。


 広場の中央には、何も置かれていない。

 けれど、人はそこを少しだけ避けて歩く。


 見えない椅子は、もうそこにあった。


 王城では、筆が紙を走っていた。


 王はまだ王だった。

 署名をし、裁可を与え、兵を動かし、税を許し、税を取る。やることは以前と同じだ。


 違うのは、王が国の中心ではなくなったことだけだった。


 書類の脇には、黒鴉の書記が控えている。

 王が言ったことを、そのまま書くのではない。

 王が何を言い、何を言わず、どこで沈黙したかまで含めて、記録する。


 王はそれを知っていた。


 知っているが、止めない。

 止めれば、もっと大きく揺れることを知っているからだ。


「南の街道筋は」


 王が問う。


 実務官が答える。


「鎮まりつつあります。ただ、完全ではありません」


「北は」


「村単位の衝突が継続中。焔を名乗る一団も、王都外ではなお確認されています」


 焔。


 その名が出るたび、空気が少しだけ冷える。


 焔の行方は、知れなかった。


 死んだという報告はない。

 生きていると断じる記録もない。


 ただ、村が焼け、街道が閉ざされ、誰かが旗を奪い、誰かが旗を掲げるたび、その名だけがどこかで囁かれる。


 王は顔を上げた。


「追えるか」


 黒鴉の当主は、静かに首を振った。


「追えます」


 王がわずかに息をつく。


「ただし」


 当主は続けた。


「捕まえられるとは限りません」


 それが現実だった。


 焔は、もはや一人の名ではない。

 燃える側の理屈。

 奪う側の正義。

 押し返す側の怒り。

 誰かがその名を口にするたび、別の場所で火が起きる。


 王は何も言わなかった。


 追えないものを追えと言うのは、王の仕事ではない。

 追えないものがあると知るのも、また王の仕事だった。


 観測の間では、板がめくられていた。


 発火地点。

 私刑件数。

 街道封鎖。

 物流の停滞。

 回復した市場。

 戻った民。

 戻らない民。


「王都内部、安定」


 若い観測者が言う。


「周縁部は」


「静かに見えます」


 当主は、その言い方を聞いて頷いた。


 静かに見える。


 それがいちばん信用ならない。


 窓の外には灰色の空があり、風はゆるい。 

 鐘の音は、以前よりもよく通るようになった。沈みは少ない。音はまっすぐ落ち、まっすぐ遠くへ流れていく。


「安定しましたか」


 観測者が問う。


 当主は答える。


「安定は、状態ではない」


 それから板の上に置かれた札を指で押さえる。


「過程だ」


 その言葉の意味を、観測者たちはもう知っている。


 静かになる。

 人が戻る。

 市場が開く。

 王が署名する。

 象徴が立つ。


 それでも、灰の下には火がいる。


 人が意味を欲する限り。

 中心を欲する限り。

 椅子が見える限り。


 どこかでまた始まる。


 王都の高い回廊に、ミサキはいた。


 誰にも見えない場所ではない。

 だが、誰の手も届かない場所だった。


 彼女は下を見ていた。

 広場。市場。行き交う人。荷車。洗濯物。小さな笑い声。泣き声。値切る声。


 日常は、戻っている。


 彼女は何も言わない。

 言葉を求められてもいない。

 今の彼女に必要なのは、そこにいることだけだ。


 存在は、人に意味を与えられて初めて象徴になる。


 だから彼女はただいる。


 風が吹く。

 衣の裾が揺れる。


 遠くの空に、黒い鳥が横切る。

 その先にある王都の外縁は、静かに見えた。


 丘。

 街道。

 焼けた畑。

 煙のない村。


 静かだ。


 けれど、その静けさが終わりを意味しないことを、ミサキはもう知っている。


 焔はまだ、どこかにいる。


 誰かの顔をして。

 あるいは誰の顔も持たずに。


 火は、名を失っても残る。


 その夜、港には霧が出ていた。


 霧は海と陸の境を曖昧にする。

 曖昧なものは、消える者に向いている。


 小さな船が一艘、灯りも少なく岸を離れる。

 荷は多くない。

 音も立てない。


 船縁に立つ人影は、二つ。


 翠弧は振り返らない。

 ミサキもまた、振り返らない。


 王都の灯は遠い。

 遠いままでいい。


 行き先は決まっていない。

 決まっていないことだけが、今は確かなことだった。


 どこへ行くのか。

 そこで何になるのか。

 二人はそれを話さない。


 話せば形になる。

 形になれば、また意味が生まれる。


 今はまだ、意味の外へ出るだけでいい。


 船はゆっくりと闇へ滑る。


 港の杭。

 岸壁。

 見張り塔。

 それらが少しずつ後ろへ遠ざかる。


 王都には、群衆が残る。


 鐘の下に、人は残る。


 人はまた求めるだろう。

 答えを。

 中心を。

 見上げる先を。


 その声があるところに、椅子は生まれる。


 椅子は目に見えない。

 だが人はそこに座る者を欲しがる。


 欲しがる限り、座を巡る争奪戦は終わらない。


 船はさらに沖へ出る。


 ミサキは海を見る。


 海には席がない。

 少なくとも──

 今はまだない。


 翠弧の口元が、かすかに動く。

 笑ったのかどうかは、暗くて分からない。


 王都の広場には、翌朝も人が立ち寄るだろう。


 市場は開く。

 王は座る。

 黒鴉は書く。


 象徴は、もういない。

 それでも人は、しばらくそこを見る。


 やがて、その姿も薄れる。


 役目を終えた象徴は、時とともに消える。


 だが椅子は消えない。


 見えないまま残る。


 そして人は、またそこに意味を置く。


 遠くで鐘が鳴った。


 海の上から聞いても、それは王都の鐘の音だった。


 沈まない音。


 人の上に落ち、街の上を流れ、丘を越え、海にまで届く音。


 誰のためでもなく。

 それでも、誰もがそこに自分の意味を聞こうとする音。


 鐘は鳴る。


 争奪戦は終わらない。


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