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灰の神託 ―神の席を奪う者たち―  作者: 宮生さん太
六章 正義の空白

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第四話 整理


 王都は、静かだった。


 静かなのは、鎮まったからではない。

 燃えるものが、いったん燃え尽きただけだ。


 朝の光は、焼け跡の輪郭をはっきり見せる。崩れた屋台。割れた甕。踏み潰された供物。白いはずだった布は、灰と煤を吸ってまだらに黒い。黒くなった白は、もう正しさの顔をしていない。


 道の端には、水をかけられた灰が泥になって残っていた。泥は重い。重いものは動かない。動かないものを見ていると、人は終わった気になる。


 終わってはいない。


 王都の外では、まだ火がくすぶっている。街道沿いの村々。白巫の徴発で空洞になった集落。保護区を経験した土地。供出を記録された土地。ああいう場所ほど、火は深く潜る。見えなくなっても、死なない。


 王都は今、灰の街だった。


 人は歩いている。

 だが急がない。


 急ぐ理由が、まだ決まっていないからだ。


 城門の内側で、兵が立っていた。槍は持っている。鎧も着ている。だが視線だけが揃っていない。揃わない視線は、命令が途切れている証だ。命令が途切れた兵は、強そうに見えて一番脆い。


 市場の一角では、焼け残った店の主人が焦げた板を起こしていた。隣の店の主人は、それを手伝わない。手伝わないことが冷たいのではない。次に焼かれるのが自分かもしれないと、もう知っているだけだ。


 白巫家の印が打たれた札が、道端に落ちていた。踏まれ、濡れ、端が捲れている。拾う者はいない。拾えば立場になる。立場は今、火種に近い。


 遠くで鐘が鳴った。


 澄んだ音ではない。

 急がせる音だ。


 警鐘。


 誰も空を見上げない。どこかで何かが起きていることは、もう珍しくないからだ。珍しくない異常は、秩序の顔をし始める。


 王城へ続く坂道には、灰が薄く積もっていた。踏むたびに靴底の下で潰れる。軽いのに、消えたものの重さだけは足に残る。


 玉座の間は、いつも通り広かった。


 広すぎる空間は、人を小さく見せる。小さく見える人間ほど、威厳を必要とする。威厳は、動かない顔でできている。


 王は玉座に座っていた。

 背筋は伸びている。顎も落ちていない。手も震えていない。


 震えていないように見えるだけだ。


 玉座の下には、報告板がいくつも並べられていた。村名。損耗。発火地点。鎮圧状況。行方不明。白巫関連施設の損壊数。どれも数字で、どれも軽い。軽い数字ほど、人を重く潰せる。


「西の街道筋、なお騒擾継続」


 書記官が読む。


「南方二村、白巫施設焼失」


「地方豪族三家、独自に保護令を発布」


「王都内、未登録の処断八件」


 処断。

 王は、その語にわずかに眉を動かした。


「未登録、とは何だ」


 問う声は低い。崩れていない。

 崩れていないから、余計に怖い。


 書記官が答える。


「王命に依らず、神意の名を借りて執行されたものです」


 借りて。

 その言い方は柔らかい。柔らかい言葉ほど、王の耳には安全だ。


 王は言った。


「……それは是正ではない」


 誰も答えない。


 答えない沈黙は、否定ではない。

 同意でもない。


 単に、事態のほうが先へ行っているだけだ。


 王はもう一度、言った。


「これは、是正ではない」


 今度は確認ではなかった。

 自分に言い聞かせる形だった。


 玉座の下に控える実務官が、目だけを伏せた。王都軍の指揮に関わる男だ。顔色は整っている。乱れた街の中で、顔だけが整っている人間は信用しにくい。


「現在、各地で独自判断が増えております」


「独自判断」


 王が復唱する。


 独自判断。

 命令が無いときに、人はそう言う。命令が遅いときにも、そう言う。責任をまだ上に押し上げられるうちは、その語が使われる。


「白巫は何をしている」


 ようやく、その名が出た。


 だが返答は遅れた。


 遅れた答えは、それだけで不吉だ。


「……白巫家内部も、統制が乱れている模様です」


「模様?」


 王の声が少しだけ硬くなる。


「正確な報告は」


「まだ」


 まだ。

 まだ、という言葉は、王の前では本来許されない。だが今は許されている。許されているということ自体が、秩序の弱りだ。


 王は玉座の肘掛に指を置いた。

 力は入れていない。だが離してもいない。


「兵を出して鎮めろ」


 実務官が一瞬だけ言葉に詰まる。


「兵は既に各所に出ております。ただ……」


「ただ?」


「白を掲げた者と、白を否定する者と、王の名を借りる者が入り乱れております。敵味方の線引きが困難です」


 線引き。

 秩序とは線だ。線が引けない場所で、王は弱い。


 王は黙った。


 黙っているあいだ、外でまた鐘が鳴る。

 今度は少し近い。


 王はその音を聞き、初めてわずかに顔を上げた。


 鐘は、まだ王のものであるはずだった。

 だが音だけは、もう王の手を離れている。


「……黒鴉は」


 王が言った。


 それは敗北ではない。

 だが自力では届かない場所に、手を伸ばす言い方だった。


 黒鴉当主はすでに控えていた。呼ばれたときには、もう来ている。黒鴉はそういう家だ。

 未来を言い当てるのではない。必要になる位置に、先に立つ。


「見ております」


 当主は答えた。

 短い。短い答えは、嘘を削る。


「ならば言え。何が起きている」


 王の問いは、怒りの形をしていた。

 中身は恐怖だった。


 当主は一礼し、持参した板を広げた。


 地図。

 赤い印。黒い線。白く塗り潰された空白。


「各地で起きているのは反乱ではありません」


 反乱でないなら何なのか。

 その問いを、王はすぐには口にしない。聞く前から怖い答えは、聞くまでが一番ましだ。


「では何だ」


 結局、聞く。


 当主は答える。


「解放された抑圧です」


 部屋が静かになる。

 その言葉は、神意でも軍略でもなかった。人間の底に溜まっていたものの名だ。


「白巫の権威が消えた土地ほど、早く燃えています。供出、徴発、隔離、保護区画。抑え込まれていたものが、決める者を失った瞬間に上がった」


 王は地図を見た。


 赤い印は、王都を中心に整っているわけではない。

 歪で、勝手で、しかし奇妙に似ている。


「白を掲げる者が複数存在します」


 当主は続ける。


「白巫を名乗る偽神官。地方豪族による独自の保護令。王命を騙る兵。いずれも、白の空席を埋めようとしている」


「空席」


 王はその語を繰り返した。


「正義の席です」


 当主は言った。


「白巫がそこに座り続けていた。今、その席が空いている。空いている席は、必ず奪い合われます」


 奪い合い。

 その場にいる誰もが、意味を理解した。王も、実務官も、書記官も。椅子は一つ。そこへ向かう手は複数ある。


 王は言う。


「ならば、白巫に座らせ直せ」


 それは当然の発想だった。

 崩れたなら、戻す。


 だが当主は首を振った。


「もう遅い」


 王の顔が硬くなる。


「……遅いとは」


「白は、もう誰のものでもありません」


 その一言は、刃より深く入る。


 白は王のものでも、白巫のものでもない。民衆が掲げ始めた時点で、戻らない。正義が複数に割れたとき、それはもう神意ではない。市場だ。


 王は初めて、肘掛を強く握った。


「ではどうする」


 問いは、王のものだ。

 答えは、もう別の家にある。


 当主は板をめくった。


 そこには別の記録。街道の流通。噂の経路。私刑の回数。時間差。

 数字は冷たい。冷たいから、熱を越える。


「火を止めることは、現時点では困難です」


 困難。

 不可能とは言わない。そこにまだ政治がある。


「ただし」


 当主は言う。


「整理はできます」


 王は眉を寄せた。


「整理?」


「秩序に必要なのは、理解できる物語です」


 書記官の筆が一瞬止まる。

 書いていいのか迷う言葉は、本物だ。


「民衆は答えを持ちません。だが結論を欲します。誰が悪いのか。何が間違っていたのか。何を処断すれば終わるのか」


 当主は感情を乗せない。

 乗せないから、正しく聞こえる。


「その結論を与える必要があります」


 王は分かってしまった。

 つまり、犯人が要る。


「誰を」


 王が問う。


 その問いの時点で、もう半分は決まっている。


「それはこれから決めます」


 当主は答えた。


 王の目が細くなる。


「真実ではなくてもよいのか」


 静かに、とても静かに、当主は王を見た。


「今は、それが重要ではありません」


 誰も息をしなかったように見えた。

 実際にはしている。だがそう見えるほど、その答えは冷たかった。


 実務官が口を開く。


「転覆を煽る勢力も出ています。王都外縁で新しい秩序を叫ぶ者、地方自治を口にする豪族、白巫と王を同時に否定する者」


「それを抑えるには」


 王が言う。


「王は残さねばなりません」


 当主は即答した。


「王を倒せば、群衆の正義が正当化される。正当化された群衆は止まりません」


 王にとって、それは慰めではない。

 利用価値の確認だ。


 だが今は、それでもいい。

 利用されてでも残るのが、王の仕事だ。


「白巫は」


 王が言う。


 今度はもう、助けるための響きではなかった。


「切り離します」


 当主は言った。


「制度として」


 死刑でも、粛清でも、焼却でもない。

 制度として切り離す。その方が長く死ぬ。


 外でまた鐘が鳴る。

 今度は長い。


 王は目を閉じた。


 白巫を切り離せば、自分の正統性も傷つく。

 だが傷ついた王権と、燃える国土を比べれば、まだ傷の方がましだった。


「……必要なものは何だ」


 王が問う。


 当主はすぐには答えなかった。

 その沈黙は、答えが既にある沈黙だ。


「まず、罪です」


 王は顔を上げる。


「罪?」


「はい」


 当主の声は、少しも揺れない。


「罪を決めましょう」


 誰も動かない。


 だがその瞬間、部屋の中の空気は一段階先へ進んだ。

 白巫を切り離し、王を残し、群衆に結論を与える。そのために必要なのは、火を消す水ではない。差し出す生贄だ。


 王は理解した。


 理解したが、止めなかった。


 それが承認だった。


 玉座の間の外では、灰の街がまだ息を潜めている。

 外縁では火がくすぶり、名もない握手がどこかで交わされ、椅子を巡る次の話が静かに始まろうとしている。


 だが今、この部屋で決まるのは一つだけだ。


 誰が、罪になるか。


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