第一章第五話 神の外側
門の外は、思ったよりも普通だった。
普通、という言葉を白巫の里で口にすると叱られる。神意の内側に普通はない。あるのは正しさと、その正しさから外れたものだけだ。外れたものは汚れで、汚れは浄められるか、捨てられる。
私は今、捨てられた側だった。
門の陰が背中から離れると、風が肌に直接触れた。白い回廊を通る風とは違う。雑味がある。土と魚と煤と人の汗の匂いが混ざっている。嫌いじゃない、と思ってしまい、すぐに自分に腹が立った。嫌いじゃないと思うのは、ここが生きる場所だからだ。生きる場所を好きだと思うのは、巫女としては不適格だ。
門の前には小さな番所があり、灰色の兵が二人立っていた。白巫の白ではない。あくまで王国の兵の色。白巫家の白が神の権威なら、彼らの灰は人の暴力だ。
「通行証は」
兵の一人が手を出す。
私は黙って首を振った。
通行証は巫女籍と一緒に剥がされた。剥がされたことを説明するのは、命乞いに似る。
「……名前」
「白巫ミサキ」
言った瞬間、空気が変わる。
白巫という姓がまだ効いてしまう。人は白巫家を恐れている。恐れは信仰と同じ顔をする。
だが兵は、すぐに紙束をめくり、指で行を追った。
「……白巫、ミサキ」
声の調子が、わずかに冷える。
「名簿に、抹消印がある」
抹消印。
その一語で、白巫という姓が死んだ。死ぬのは紙の上だけのはずなのに、胸の奥がひやりとする。名が消えるとは、こういう感覚なのかと遅れて理解する。
「出て行け」
兵は手を振った。
追い払う仕草が、あまりにも軽い。昨日まで祈殿で私に頭を下げていた者たちが、今日は同じ手で追い払うだろう。人は神ではなく、制度に頭を下げる。制度が私を捨てたなら、私に頭を下げる理由はない。
私は歩き出した。
背中に視線が刺さる。刺さるのに痛くない。痛くないことが、少しだけ怖かった。
王都の外縁は、灰色だった。
白い石の壁は遠く、家々は木と土でできている。人の声がする。笑い声も、怒鳴り声も、泣き声も、全部混ざっている。祈殿では消されていた音が、ここでは当たり前に存在していた。
道端で、子どもが転んだ。
母親が舌打ちし、手を引く。そこに神意は介在しない。転んだから痛い。だから泣く。泣いたから叱られる。世界は単純で、乱暴で、でも──分かりやすい。
私はふらりと露店の前で足を止めた。
干し魚、野菜、粗い布。生活が並んでいる。巫女として生きていた間、私はこれを見なかった。見ないようにされていた。巫女は生活の上に立つ。生活に触れると、器が汚れるから。
「……あんた、白巫の娘か?」
露店の老人が言った。
声には警戒と、わずかな期待が混じっている。期待される理由が分かる。白巫の名は、困ったときに拝む対象だった。薬や食糧が不足したとき、白巫家は恵みとして配る。恵みは貸しで、貸しは鎖になる。
「違います」
私は反射で言ってしまった。
違う、と言える自分に驚く。違うと言うのは、巫女の言葉ではない。
老人の目が細まる。
「……じゃあ、なんだ」
私は答えなかった。答えられない。
「追放された巫女です」と言えば哀れまれる。「名簿を抹消されました」と言えば避けられる。どちらも、今の私には同じだ。
露店の隣で、若い男がこちらを見ていた。
視線が、値踏みの視線だった。白い衣の女が一人で歩いている。身寄りもなく、後ろ盾もなく、名も薄い。こういう女は、売り物になる。制度が守らない女は、男の都合で処理される。
胃の底が冷える。
冷えが、診殿の冷えと似ていて、私は一歩だけ後ずさった。
「おい」
若い男が声をかける。
私は走らなかった。
走ると追われる。追われれば捕まる。捕まれば終わる。
終わる、という結末を避ける術を、私は白巫の里で学んでいない。学んでいないから、学んだふりをする。静かに、何も起きないふりをする。
そのとき、道の向こうで怒鳴り声がした。
兵が誰かを殴っている。理由は分からない。理由が要らないのだ。人の暴力は神意より自由で、自由な分だけ粗雑だ。
若い男の意識がそちらに逸れた。
逸れた隙に、私は歩みを速める。走らない。走るほどの価値があると知られたくない。知られれば、追われる。
角を曲がると、小さな社があった。
道祖神のような、石を積んだだけの祠。木札に乱暴な字で護と書かれている。祠の前には泥水が溜まり、枯れた花が沈んでいた。人が祈った痕跡。祈りの残骸。
私は、そこで足が止まった。
胸の奥が、ちくりと痛む。
影の遅れを見た時の痛み。門を出た時の、針の静まり。全部と同じ種類の痛みが、祠の前で起きた。
吐き気が来る。
喉の奥が締まり、香の甘さではなく、土の湿り気が鼻を塞ぐ。祈殿では甘い香が喉を塞いだ。ここでは、祈りの湿気が塞ぐ。
私は祠から目を逸らし、壁に手をついた。
指先が冷たくなる。冷えが腕を上っていく。冷えは、神意に近い──と教わった。だがこの冷えは、神意ではない。祈りに近い。祈りの痕跡に近い。
祠の前に、誰かが置いた米がある。
虫が集っている。小さな白い虫。米が動いて見える。動いているのは虫なのに、米そのものが蠢いているように錯覚する。錯覚は心の揺らぎだ。揺らぐのは私の心──という結論に逃げるのは簡単だ。
私は、逃げなかった。
逃げずに見てしまった。
祠の影が、揺れた。
灯明はない。風が吹いただけだ。なのに影が、一拍遅れて動いた気がした。あの時と同じだ。あの時は祈殿だった。今は、道端の祠だ。
胸が熱くなる。
怒りではない。恐怖でもない。──嫌悪だ。
神の外側にも、影はある。
神意がなければ、影は揺らがないはずなのに。揺らいで見えるということは、私の器が壊れているのか。それとも、この世界の方が。
私は息を吐き、祠から距離を取った。
距離を取るだけで吐き気が薄れる。さっきまで息が詰まっていたのに、数歩で楽になる。
──近づくほど苦しい。離れるほど楽。
それは祈殿と同じだった。
そして診殿でも言われた。祈殿に入ると息が浅くなる。私は器として不適。
だが、いま起きているのは祈りに対する身体の反応だ。神意に対する反応ではない。祈りの痕跡、祈りの湿度、祈りの残り香──そういうものに反応している。
私は自分の胸元に手を当てた。
巾着はない。糸もない。白巫家の小さな秘密は剥がされた。なのに、体の中にはまだ何かが残っている。剥がせないものが。
陽が傾き始める。
空の色が灰に近づく。灰色が落ち着く色に見えてくるのが、また怖かった。巫女として生きていた頃、灰は汚れの色だった。今は、ただの空の色だ。
宿を探さなければならない。
金はない。持ち物はほとんどない。白衣はまだ着ているが、それは守りにならない。むしろ目印だ。目立つ女は狙われる。祈殿の白は守ってくれた。制度の白は、もう私を守らない。
路地に入ると、湯気の匂いがした。
安い粥の匂い。腹が鳴る。腹が鳴るという現象が新鮮で、私は自分が人間であることを思い出した。巫女は空腹を見せない。空腹は欲で、欲は器を濁らせるから。
店先で、女主人が私を見た。
白衣を見て、顔がこわばる。次に私の手元を見て、こわばりが別の形に変わる。手元が空だ。巫女の白でも、金のない白は信用されない。
「うちは……」
女主人が言いかけて、口を閉じる。
断る言葉を探している。断る言葉には角がある。角がある言葉は恨みを買う。恨みは災いになる。災いは、白巫家が嫌う。
だから、人は優しく断る。
「……今日はいっぱいでね」
嘘だ。中は空いている。
私は頷いた。嘘を責めるのは傲慢だ。傲慢は生き残れない。傲慢を捨てることだけは、私は得意だ。
歩き続ける。
足の裏が痛む。痛むのに、痛みが自分のものだと思える。祈殿の冷えより、生きている感じがする。生きている感じがすることが、恐ろしくもある。
角を曲がった先に、もう一つ、祠があった。
今度は少し大きい。注連縄がある。紙垂がある。立派な祈りの形。
私は、見ただけで吐き気が来た。
喉が締まり、胃が波打つ。祈殿の香の甘さが、突然よみがえる。甘さの下に鉄の匂い。血の味。影の遅れ。胸の針。
私は膝をつきかけ、壁に手をついた。
体が勝手に祈りの姿勢に近づこうとする。跪け(ひざまず)けば楽になる、と体が覚えている。祈りの形は、体に残る。残るからこそ、支配は強い。
──嫌だ。
私は歯を食いしばり、立ち上がった。
祈らない。跪かない。
祈れば楽になるかもしれない。でも、その楽は私の楽ではない。制度の楽だ。私を器に戻す楽だ。
祠から視線を切り、背を向ける。
数歩で吐き気が薄れる。息が戻る。胸の針が静かになる。
私は、笑ってしまいそうになった。
神の外側に出たのに、私はまだ神に反応している。
いや──神ではない。祈りの痕跡に反応している。
それは、器として不適という判定の意味を、別の形で証明していた。
私は白巫家の器ではない。
白巫家の祈りに、適合していない。
なら私は何だ。
道の向こう、遠くの空に、王都の白い壁が見える。
あの中で、いまも祈殿の鈴が鳴っているのだろう。神託は降りるのだろう。降りるはずだ。降りなければ、白巫家は困る。
──もし、降りなかったら?
もし、他の巫女たちにも降りなくなったら?
私は歩みを止めた。
考えてはいけない考えが、遅れて立ち上がる。立ち上がった瞬間、胸の奥が痛む。痛みは、私の心が遅れている証拠みたいで、腹立たしい。
でも同時に、ひどく現実的だった。
白巫家は、私を追放した。
私が歪みだからだと言った。
なら、私が外に出たことで、内側はきれいになったはずだ。
きれいになったなら、神託はもっと安定するはずだ。
──安定しなかったら?
安定しなかったら、歪みは私ではない。
私は、王都の白い壁を見つめた。
夕暮れの光が当たって、壁の影が伸びる。
その影が、ほんの一拍だけ遅れて動いた気がした。
私は息を止めた。
錯覚だと言い聞かせるには、今の私はもう遅すぎた。
神の外側に出ても、影は揺らぐ。
なら、揺らいでいるのは──
私の心ではない。
世界だ。
胸の奥の針が、静かに熱を帯びた。
怒りではない。恐怖でもない。
──これは、確信だ。
その確信を抱えたまま、私は暗くなる路地を歩いた。
宿はまだ見つからない。金もない。守りもない。
それでも、息だけは深い。
深い息をしながら、私は初めて思った。
白巫家が私を追放したのは、情けではない。
恐れだ。
自分たちの白が揺らいでいることを、
私に見られるのが怖かったのだ。
──怖がっているなら。
白巫家は、もう、完全ではない。
私はそう考え、そして、すぐに自分を戒めた。
希望に似たものを持つのは危険だ。希望は人を甘くする。甘くなれば、生き残れない。
なのに、灰色の空の下で、私はほんの少しだけ口角を上げてしまった。
世界が揺らぐなら。
揺らぐ側に、私がいる。
神の外側で息ができるなら。
きっと私は、まだ死なない。
──死なない限り、見届けられる。
白巫家の白が、どこまで汚れていくのかを。




