第六章第二話 正義の奪い合い
白は、増えるほど薄くなる。
村の入口に、白い布が掛けられていた。
昨日までは祈殿の印だった色が、今日は縄の代わりに柱を縛り、腕章になり、額当てになり、槍の柄に巻かれていた。
白が多いほど、誰が本物か分からない。
分からないとき、人は先に殴る。
広場の中央に、男が立たされていた。
立たされているというより、置かれている。人の背中に囲まれ、逃げ道の形だけが消されている。
「名を言え」
言ったのは、白い腕章の若者だ。鎧ではない。布と革の寄せ集め。
だが声は、兵よりも硬い。硬い声は正しい。
男は口を開いた。唇が乾いていた。乾いているのは喉だけではない。
周囲の視線も乾いていた。涙を吸い取るような乾き方をしている。
「……違う。俺は——」
最後まで言わせない空気が、先に押す。
「違う、って何が違う」
「白巫家の使いじゃない。あいつらが来たら——」
白巫家の名が出た瞬間、群衆の顔が少しだけ緩む。
緩むのは安心ではない。理由が手に入るからだ。
理由があれば、殴れる。
白い腕章の若者が、背後を振り返る。
そこには別の白がいた。腕章ではない。肩に白布を掛けた壮年の男。村の外から来た顔だ。言葉に土の匂いがない。
「この村は保護の名で焼かれた。次は焼かせない」
「焼かせない、って誰が」
「俺たちが」
俺たち。
この言葉の境界は、その場で伸び縮みする。便利な境界は、すぐ刃になる。
押し合う背中が軋む。
軋みは熱を生む。熱は正義に見える。正義に見えれば、人は手を汚せる。
広場の端で、母親が子を抱えていた。子はまだ小さい。小さい手が、母の袖を握り直す。
握り直すたび、布が鳴る。鳴る音は、人の生を思い出させる。
母は息を吸い、吐いた。吸って吐くだけの動作に、祈りの形を載せる。
そのすぐ近くで、少年が立っていた。
背はまだ伸び切っていない。頬の線が薄い。目だけが大人の高さに近づいている。
母が、少年の名を呼んだ。
「ソウタ」
呼ばれた名は、音だった。
音は一瞬だけ、その場の冷たさを裂いた。裂いたものは、すぐ戻ろうとする。
少年は母を見ない。見れば戻れなくなると知っている。少年は前を見る。前にあるのは広場ではなく、群衆の結論だ。
白い腕章の若者が言う。
「こいつは、白を偽った」
「証は?」
「証は要らない。火が証だ」
火が証。証が熱を持つと、手続きは溶ける。
肩に白布を掛けた壮年の男が、別の言葉を置く。
「違う。こいつは白巫の手先だ」
「だったら尚更だ」
「尚更、晒せ。吊れ」
晒す。吊る。言葉が揃うと、足が動く。足が動けば、止める理由は消える。
男が声を上げる。
「違う! 俺は——」
その声は、誰の耳にも届かない。届いたとしても、届いたことにされない。
群衆は、聞き取れないふりが得意だ。得意でなければ生き残れない。
縄が用意される。縄は村のものだ。村のものが村を絞める。
誰かが木に登り、結び目を作る。結び目はきれいだった。きれいな結び目ほど、正しい。
少年が一歩前に出かける。
出かけた足が止まる。止めたのは母の指先だ。掴んではいない。ただ触れているだけ。触れられた皮膚が、現実を思い出す。
母は言わない。
言えば物語になる。物語になれば、次は自分が置かれる。
白い腕章の若者が叫ぶ。
「見ろ! これが保護だ! これが是正だ!」
是正。
誰の言葉だったかを、もう誰も覚えていない。覚える必要がない。
必要なのは、今の刃の向きだけだ。
縄が締まった。
男の足が宙で探る。探る足は、地面を踏めない。踏めないものは、声を出す。声は短い。
短い声は、群衆の秩序を乱さない。
誰かが吐いた。誰かが笑った。誰かが祈った。
そのすべてが同じ顔で起きる。
白い腕章の若者が、汗を拭った。
汗は熱い。熱い汗は、正義をした気にさせる。
そのとき、広場の向こうから別の隊列が来た。
白い布ではなく、白い札。木札に押された印。白巫家の印。
それを掲げる兵は、王都の兵だった。鎧が違う。歩幅が違う。
歩幅の揃ったものは、美しく見える。美しく見えるものに、人は従いたくなる。
兵が言う。
「ここは王都の管轄だ。勝手な是正は禁ずる」
禁ずる。この言葉は刃を止めない。刃の向きを変える。
白い腕章の若者が叫ぶ。
「お前らも白を名乗るのか!」
「白は守る色だ!」
「守る? 今さら?」
肩に白布を掛けた壮年の男が、兵に向けて指を突きつける。
「王の名で来たのか。神意の名で来たのか」
「……神意による保全だ」
「じゃあ同じだ」
同じ。
同じと言われた瞬間、区別が消える。区別が消えれば、敵は増える。敵が増えれば、正義の出番が増える。
群衆は、兵を見た。
兵は群衆を見た。
見合った視線は、どちらにも責任がない。責任がない視線ほど、最初に石を投げる。
石が飛んだ。
誰が投げたかは分からない。
分からないのが群衆の強さだ。強いものは止められない。
石が鎧に当たり、乾いた音がした。
乾いた音は、次の音を呼ぶ。次の音は怒号。怒号は免罪符。
「敵だ!」
「偽白だ!」
「白を汚した!」
白が汚れる。汚れた白は、誰でも叩ける。
兵が槍を構える。槍の先が揺れた。揺れは迷いの証だ。迷いは危険だ。危険は命令で潰される。
「押せ」
誰が言ったか分からない。だが命令は、すぐに群衆の命令になった。
押し合う背中が、また熱を作る。熱は、火より早く広がる。
その場の誰も、止めようとしない。止めれば、次に置かれるのは自分だからだ。
王都では、紙が動いていた。
玉座の間は広い。広い空間は、報告を軽くする。軽い報告ほど、王は頷きやすい。
「各地で是正が進行しております」
「白巫家の名がある限り、民は従う」
「王都軍は補助に回っております」
補助。その言葉は便利だ。主導していないことにできる。
王は頷いた。
頷きは同意ではない。逃避の形だ。
「……黒鴉は」
「観測と称し、動きを鈍らせております」
「なら、正しい方が勝つ」
正しい方。
それが誰かは、まだ決めていない。決めないまま進めるのが、王の仕事だった。
同じ頃、白巫家の内部では指示が割れていた。「慎重に」と書かれた札が飛び、同じ札の裏に「迅速に」が重ねられる。
矛盾は、香で包む。包めば見えない。見えなければ無いことになる。
だが、現場は紙では動かない。現場を動かすのは、放置された群衆だ。
村の広場では、白が二つに割れ、三つに割れ、四つに割れた。
割れるほど、誰もが白になれる。白になれるほど、誰もが裁ける。
裁く者が増えると、裁かれる者が足りなくなる。足りないとき、群衆は近い者を選ぶ。
近い者。
昨日まで隣で火を囲んでいた者。
同じ白を巻いている者。
同じ怖さを共有している者。
正義は、余った刃で仲間を切り始める。
少年は、それを見ていた。見ているだけで、胸の奥が乾く。乾いた胸は、声を出さない。
母の指先が、少年の袖から離れた。離れるのは許可ではない。諦めの形だ。
少年は前へ進む。前へ進む足は、もう戻らない。
広場の中央で、誰かが言った。
「……次は、誰だ」
広場の空気が、わずかに動いた。
誰かが言ったわけではない。だが、言葉はすでに置かれている。
「次は、誰だ」
その問いは、人を指さない。指さないから、誰にでも当たる。
群衆の中で、何人かが互いの顔を見る。顔を見るのは、敵を探すためではない。自分が選ばれていないか確かめるためだ。
確認できれば、人は強くなる。
「さっき、止めろって言った奴がいた」
誰かが言う。小さな声だった。だが小さな声ほど、よく聞こえる。
「止めろ?」
「いたよな」
「いた」
証言は、すぐに増える。誰が言ったのかは分からない。分からないまま、言葉だけが広がる。
白い腕章の若者が、群衆を見渡した。
さっきまでの震えは消えていた。震えは、最初の一人が終わると消える。
人は一度越えると、次は簡単だ。
「止めたのは誰だ」
誰も答えない。答えない沈黙は、否定ではない。
同意だ。
肩に白布を掛けた壮年の男が、ゆっくり歩いた。群衆の隙間を縫う。
目を合わせる者はいない。目を合わせれば、選ばれるからだ。
一人の男の前で、足が止まる。
男は三十ほど、土のついた靴。畑から戻ったばかりの格好だった。
「お前だ」
男は首を振る。
「違う」
違う、という言葉はもう弱い。
「さっき言った」
「聞いた」
「確かに」
証言は、また増える。
男が一歩下がる。下がる足に、誰かの踵がぶつかる。逃げ道はもうない。
「違う……」
男の声は、最初の男と同じだった。群衆はそれに気づかない。
なぜなら、気づく必要がないからだ。
白い腕章の若者が言った。
「白を疑う者は」
少しだけ言葉を切る。その続きを、群衆が知っている。
「敵だ」
今度は、群衆の声だった。
石が一つ転がる。誰も拾わない。
だが誰かが拾う。
その順番は決まっていない。決まっていないから、止まらない。
母親が、子を抱き寄せる。
子はもう泣かない。泣くと、音になる。
音は目立つ。
広場の外れで、犬が吠えた。すぐに止まる。
動物は、人より先に理解する。
夜が来る。
夜になると、火はよく見える。
丘の向こうで、別の火が上がった。
もう一つ。
さらに遠くで、また一つ。
誰かが言う。
「……あっちもだ」
白い旗が風に揺れる。同じ白が、遠くにもある。
どれが本物なのか。もう誰も聞かない。聞く必要がない。
白は、もう誰のものでもなかった。
そしてその夜、村で死んだ者の名は、誰にも呼ばれなかった。
それは静かな、問いでも宣言でもなく。
群衆の未来だった。




