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灰の神託 ―神の席を奪う者たち―  作者: 宮生さん太


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第五章第十話 生きているだけで、罪になる


 炎は遠い。


 遠いはずなのに、灰は降る。


 屋根の端に積もった白は雪ではない。触れれば崩れ、指を汚す。汚れはすぐに風に消える。消えるから、なかったことになる。


 王都は、よく燃える街だと思った。


 燃えるものが多いのではない。

 燃やす理由が多い。


 ミサキは、城下の一角にある仮住まいの部屋で座っていた。椅子は硬い。机は簡素だ。窓は小さい。外が見えるようで、見えない。


 保護という名の囲い。

 監視という名の配慮。


 扉の外に人がいる。足音は立てない。だが、いると分かる。気配は隠せない。


 象徴は、逃げない。


 逃げないようにされているのではない。

 逃げても意味がないと、理解してしまったからだ。


 昼、伝令が来た。


 白巫家は正式に黒鴉家を是正対象と認定。

 王は承認。

 烽火は既に上がった。


 言葉は淡々としていた。

 淡々としているほど、決定は覆らない。


「あなたは守られています」


 黒鴉の若い者がそう言った。声は落ち着いていたが、ほんのわずかに揺れていた。


 守られている。


 その言葉の意味を、ミサキは考えなかった。

 考えれば、分解してしまう。


 守られているということは、奪われうるということだ。

 守らなければならない何かだと、認められたということだ。


 彼女は問い返さなかった。

 問いは、もう終わっている。


 窓の外で、遠くの鐘が鳴る。

 正しい音。

 その終わり際で、わずかに沈む。


 以前なら、胸が締め付けられた。


 今は違う。


 沈む音は、音の責任ではない。

 人が、音を背負わせてきただけだ。


 白巫家は言うだろう。彼女が揺らしたと。

 黒鴉家は言うだろう。彼女が証明すると。

 王は言うだろう。彼女が秩序を乱したと。

 翠弧は言うだろう。彼女が価値を持ったと。

 

 どれも、彼女ではない。だが、どれも彼女を通る。

 机の上には、公示文が置かれていた。


 ──当該巫女ミサキを、黒鴉家観測対象として正式に保護する。


 形式は整っている。文言は冷たい。余計な言葉はない。

 その一文で、彼女は個人ではなくなる。


 その一文の中で、彼女の名は一度だけ使われていた。だがそれは呼びかけではない。


 巫女ミサキ。


 名はそこにある。

 しかし、誰もそれを「彼女」として読まない。


 文字列は役割に接続されている。

 観測対象。保護。是正の要件。


 彼女の名前は、文の主語ではない。

 条件の一部だ。


 かつて祈殿で呼ばれた名は、音だった。呼ばれるたびに、身体の奥がわずかに応じた。

 今は違う。


 紙の上の名は、返事を必要としない。読まれるだけで、完結している。

 そこには彼女の体温がない。名が残っているのに、本人がいない。

 それを、理解した。


 追放されたとき、彼女は巫女ではなくなった。だがまだ、個人だった。


 今は違う。

 個人であることも、必要とされていない。


 象徴は、名を持たない。


 持っているように見えるだけだ。


 彼女は、紙から指を離した。指先に残った冷たさだけが、現実だった。


 守られる。

 掲げられる。

 利用される。


 どれも同時だ。


 ミサキは紙に触れた。

 紙は冷たい。

 紙は燃えやすい。


 自分が、火種だと知る。


 火種は、望んで火種になったわけではない。

 ただ、乾いた場所に置かれただけだ。


 彼女は白巫に戻りたいとは思わない。

 思えない、ではない。

 思わない。


 祈殿では、名はよく呼ばれた。だがそれは、確認のための音だった。


「器は安定しているか」

「神意は通るか」


 呼ばれるたび、彼女は返事をした。返事はいつも正しかった。

 正しい返事だけが残る場所だった。


 外の季節を知らないまま、選ばれた音だけを聞き、整えられた言葉だけを口にした。

 窓はあった。だが開ける理由がなかった。


 あの場所で、彼女は役目だった。

 今は違う。

 

 今は、役目より先に、理由になっている。


 祈殿の中で過ごした日々。

 整えられた言葉。選ばれた音。閉ざされた窓。

 外の空気に触れたのは、追放されたあとだ。

 

 その外で、彼女は見た。

 兵が人を押すこと。名を呼ばれない者が列に並ぶこと理由が後から与えられること。死が記録になること。


 それは多くはない。一瞬だけ見えた光景ばかりだ。

 だが人は、想像する。


 追放された日の夕暮れ、彼女は初めて、列を見た。

 名を呼ばれない者たちが並ぶ列。前を向いたまま、誰も声を出さない。

 一人の女が、子の肩に手を置いていた。その手が、強すぎた。痛い、と子が言わないことを、彼女は覚えている。


 そのとき、鈴が鳴った。

 澄んだ音だった。

 終わり際だけが、沈んだ。

 

 誰も顔を上げなかった。その光景は、長くなかった。

 だが彼女の中では、終わらない。


 想像は勝手に結びつく。断片は形になる。形は重くなる。


 免疫がないわけではない。

 しかし、外界との隔たりは長かった。年相応の心に、年不相応の意味が降り積もる。押しつぶされるほどではない。

 だが軽くもない。


 彼女は自分を可哀想だと思ったことはない。

 可哀想というのは、比べる対象があって初めて成立する。比べる対象を、彼女は持たなかった。


 正しさのために育てられた。

 正しさが崩れるところを見た。

 それだけだ。


 涙は出ない。

 泣く理由がない。

 怒りもない。


 怒れば、誰かの物語になる。

 崩れれば、証明に使われる。


 彼女は、自分の立ち位置を理解してしまった。


 中心ではない。

 原因でもない。

 だが、理由にされる位置。


 理由が必要な世界だ。


 人は、自分の都合を神意と呼ぶ。


 それを彼女は見た。

 自分の存在が、その都合に使われることも。


 罪とは何か。


 祈りが折れたことか。

 戦が始まったことか。

 人が死ぬことか。


 違う。


 存在が、理由になることだ。


 彼女は守ろうとしていない。

 誰かを救おうともしていない。


 守るという実感はない。

 救うという実感もない。


 生きているだけで、罪になる


 あるとすれば、ひとつだけ。

 無意味な役割から。整えられた正しさの器から。それだけは、もう戻らない。


 扉の向こうで、足音が動く。

 監視が交代したのだろう。


 守られている。

 守られているということは、見られているということだ。

 見られているなら、崩れない。

 崩れれば、正しさの証明に使われる。


 彼女は窓を開けた。

 夜気が入り、灰が舞い込む。灰は軽い。軽いのに、重い。

 灰は、燃えたものの残りだ。燃えた証拠だ。

 燃えた理由は、もう誰も言わない。


 灰が頬に触れた。


 熱はない。

 だが、確かに何かが終わったあとの粒子だった。


 指で払おうとして、やめる。払えば消える。消えれば、なかったことになる。

 そのままにする。灰はすぐに溶ける。

 肌の温度で、形を失う。


 消えるのは灰だけではない。

 名も、役目も、正しさも、同じように消えてきた。


 それでも、燃えた事実だけは消えない。


 遠くで誰かが叫んだ気がした。気のせいかもしれない。ここまでは届かない。

 届かない音が、世界のすべてではない。


 彼女は窓枠に指を置いた。木はささくれている。祈殿の柱のように、磨かれてはいない。

 そのざらつきが、現実だった。


 王都の空は赤い。


 白巫は思う。正しい選択だと。

 王は思う。秩序が保たれると。

 黒鴉は思う。記録が残ると。

 翠弧は思う。値が上がると。


 誰も、自分のためだとは言わない。

 だから、火は消えない。


 ミサキは、自分の手を見た。震えていない。

 怖くないのではない。怖さが、静かに座っているだけだ。

 理解が、先に来た。


 生きているだけで、罪になる。


 その言葉を、彼女は心の中でなぞる。

 罪とは、選択ではない。

 配置だ。


 理由が必要なら、ここにいる。

 逃げない。

 別の誰かが理由になる前に。


 それを守ろうとしているわけではない。

 ただ、見てしまった。見た以上、知らないふりはできない。

 彼女は目を閉じる。


 遠くで鐘が鳴る。

 今度は沈まなかった。

 それでも、戦は止まらない。


 生きているだけで、罪になる。

 ならば、その罪を引き受ける。


 それが、わたしの役目だ。


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