第五章第八話 命は、数えられる
公開の朝は、風がない。
風がないと旗は揺れない。揺れない旗は紋を正確に見せる。白地に刻まれた正統の紋は、朝日に照らされ、静かに光っていた。
広場の中央には三段の台が組まれている。白布が張られ、角は丁寧に折り込まれ、縄は均等に垂れている。均等というのは安心の形だ。均等なものは疑われない。
台の下に砂袋が積まれている。乾いた砂は、吸うためにある。吸ったものは見えない。見えなければ、語られない。
広場の端で、書記官が板を広げた。墨を含ませ、淡々と読み上げる。
「本日供出対象、三区画より二十三名。未登録七。要再確認三。列は一区画ずつ進行」
数字は滑らかに並ぶ。口に出しても重くない。
列は静かだった。
静かなのは、諦めが早いからではない。声を出さないほうが楽だと、もう知っている。
前の男が小声で言った。
「終われば戻るんだろ」
誰も答えない。
戻った者の話は、広場ではしない。戻らなかった者の話も、広場ではしない。話さなければ、事実にならない。
柵の向こうでは兵が歩幅を揃えている。ずれがないというだけで、美しいと思ってしまう自分がいる。
母は、自分の靴の先を見つめた。擦り切れている。子に新しい靴を買う約束をしていたことを思い出す。
今日が終わったら。
終わる、という言葉が空虚に響く。終わったあとがあると信じていなければ、立っていられない。
だが列は重い。
前に立つ背中が、わずかに揺れている。震えではない。押される力を逃がすための、計算された揺れだ。
誰も振り返らない。振り返れば、後ろの目とぶつかる。目とぶつかれば、互いの恐怖が形になる。
列は波のようだ。
押され、戻り、また押される。
だが誰も、波と呼ばない。
呼べば、それは事故になる。
母は子の手を握って並んでいた。子の手は温かい。朝は冷えるはずなのに、掌は汗ばんでいる。
昨夜、母は布を一枚多く重ねた。冷えないようにと理由をつけた。本当は、抱き締める口実が欲しかっただけだ。
戻らない子がいることを、知っている。
知っているが、信じない。信じなければ、まだ母でいられる。
遠くで鈴が鳴る。
澄んだ音。長い余韻。
終わり際で、ほんのわずかに沈む。
母は顔を上げる。兵も役人も書記官も、前を向いたままだ。
折れている。
そう思ったが、口にしない。折れていると言った瞬間、それは自分の側の異常になる。異常は排除される。排除は速い。
「詰めろ。間を空けるな」
兵の声が飛ぶ。怒鳴らない。怒鳴らないほうが効く。穏やかな命令ほど、従いやすい。
香が濃くなる。
息が浅くなる。
胸が圧迫されるのは人のせいか、空気のせいか分からない。
母は子の頭に頬を寄せた。柔らかい匂いがする。まだ世界の匂いを知らない匂いだ。
守れると思っていた。守れると教えられてきた。守るために従え、と。従っていれば守られる、と。
後ろから体が押される。誰かの肘が背中に当たり、踵が踏まれる。小さな悲鳴がどこかで上がり、すぐに消えた。
消える悲鳴は秩序を乱さない。乱さなければ、記録されない。
列が一歩進む。
背中が押される。前へ押し出される。母は子の指を強く握る。強く握りすぎて、子が小さく呻く。
ごめん、と言いかける。
言葉は喉で止まる。
柵の内側は狭い。狭さは秩序の形だ。広いと乱れる。乱れは不敬だ。
胸が苦しい。香が濃い。白巫家の香。祈殿と同じ配合。肺に入ると心が少し柔らかくなる。疑問が丸くなる。
だが胸は苦しい。
子が足をもつれさせる。石畳の欠け目に靴の先が引っかかったのだ。母は反射的に腕を引く。抱き寄せる。
その瞬間、後ろから強く押された。
一瞬だけ、列が乱れた。
誰かが足を取られ、誰かがそれを支えようとし、その動きが押し返しになる。
押すつもりはなかった。
だが止める者もいなかった。
止めることは、秩序を疑うことだからだ。
列は止まらない。
母の足が台の足場にかかる。白布の下の木材は乾いている。乾いた木はよく鳴る。
鈍い音が脇腹に伝わる。
息が抜ける。
声が出ない。
肺が焼ける。
なのに、冷たい。
喉が閉じる。
閉じるたびに、世界が遠くなる。
耳の奥で鼓動が鳴る。
鈴より近い音。
まだ、生きている。
生きているのに、列は動く。
生きているのに、足音は規則正しい。
安心の音の中で、自分だけが不規則になる。
それが恥ずかしいと、なぜか思った。
恥ずかしいと思う余裕が、まだ残っていることが怖い。
視界が白く跳ね、次の瞬間、石畳が頬に冷たい。
空気が、入らない。
肺が動く。動くのに、吸えない。口が開く。喉が鳴る。音にならない。
まだ吸えるはずだ、とどこかで思う。
空は青い。旗は揺れない。
鈴が鳴る。
澄んだ音。
余韻。
沈み。
母の視界の端で、子が立ち尽くしている。小さな指が宙を掴む。掴むものがない。
子は、母の顔が遠くなるのを見た。
視界は、大人の膝の高さで切れている。
顔より先に、足が動く。
足だけが規則正しく進む。
母だけが、止まっている。
止まっているものは、邪魔になる。
倒れているのに、起き上がらない。名前を呼ぼうとして、声が出ない。呼ぶと怒られる気がした。怒られると母が困る。だから呼ばない。
呼ばないまま、手を伸ばす。
掴めない。
掴めない手が、空を握る。
「搬送」
短い声。
母は吸おうとする。胸が焼ける。喉が引きつる。空気はすぐそこにあるのに、届かない。
石畳を掴む。冷たい。硬い。現実だ。
母の口が、魚のように動く。
声は出ない。
列は止まらない。
「供出対象一名、群衆圧迫による事故死。列続行」
書記官は板をめくり、墨を置かずに次の欄へ移る。
死亡:一
原因:群衆圧迫
穢れ関与:なし
象徴影響:なし
墨は均等に乾く。均等に乾けば、事実は固定される。
隣の書板にはこうある。
供出完遂率:九五%
異常発生率:許容範囲
許容範囲。
命にも範囲がある。
範囲を超えなければ、問題はない。
母の呼吸は浅く、速く、やがて途切れ途切れになる。
胸の奥で何かが崩れる。
崩れた音は外に出ない。
遠くで鈴が鳴る。
今度は沈みが、少し長い。
兵の一人がわずかに顔を上げる。
ハルだった。
彼は一瞬だけ、倒れた母を見る。軽い、と思った。持ち上げられるほどに。
軽い命。
「子は保護移送」
神官の声。
ハルは子を抱き上げる。子は抵抗しない。抵抗すると叱られると、もう学んでいる。
体温が腕に伝わる。温かい。温かいのに軽い。
守れるはずの重さなのに、奪いやすい重さだ。
彼は自分の掌を見る。震えていない。
震えていないことに、安堵する。
母の口がまだ動いている。音は出ない。
ハルは目を逸らす。
逸らせば任務になる。
逸らせば正義になる。
子が母を見る。
母は最後に、その顔を覚えようとする。覚えておけば、まだ母でいられる気がした。
息が止まる。
止まった瞬間、世界は何も変わらない。
列は進む。
台は白い。
旗は揺れない。
書記官が板をめくる。
死亡:一
供出対象残数:二十二
儀式執行に支障なし
鈴が鳴る。
澄んだ音。
終わり際で、折れる。
だが誰も止めない。
止めれば崩れる。
崩れれば責任が生まれる。
責任は上には届かない。
下で処理される。
誰かが砂を均す。
誰かが布を張り直す。
誰かが列を詰める。
整えられるものだけが、残る。
整えられないものは、記録の外へ落ちる。
命は数えられる。数えられたぶんだけ、広場は整っていく。
本日処理数:一
祭儀執行に支障なし
台は、次を待っている。
折れた音は、誰の耳にも残らない。
残らないから、続けられる。
続けられる限り、正義は壊れない。
鈴は、折れたまま鳴り続けている。




