第五章第二話 白は、守らない
白い布は、遠くからでもよく見えた。
朝の霧の中で、白はやけに輪郭がはっきりしている。
旗に結ばれ、腕に巻かれ、胸元に縫い付けられ、あるいは外套そのものになって、村の入口に立っていた。
白は、正義の色だ。
守ってくれる色だ。
少なくとも、ここに来るまでは、誰もがそう信じていた。
村の外れに、列ができていた。
老若男女が混じり、誰も声を張らない。
泣き声も、怒鳴り声もない。ただ、足音と衣擦れだけがある。
列の先頭には、白巫家の下級神官が立っていた。
若い男だ。顔色は良く、声も落ち着いている。
その横に、鎧姿の兵が二人。鎧は新しい。刃こぼれも凹みもない。
傷のない鎧は、これから傷を作る。
「順に進んでください」
神官の声は穏やかだった。
穏やかな声は、人の肩から力を抜かせる。
「神意による保護です。簡単な確認だけですから」
確認。
その言葉は、拒否という発想を消す。
列の中ほどに、少年がいた。
十六か、十七か。背はまだ伸び切っていないが、腕には無駄な肉がない。畑仕事でついた筋が、薄い衣の下に透けている。
隣に、母親がいる。
女は、少年の袖を指先で掴んでいた。
掴んでいるというより、触れているだけだ。
強く掴めば、目立つ。
目立つことは、良くない。
「大丈夫だよ」
少年は、そう言った。
声は思ったよりも高かった。
母親は頷いたが、視線は地面から上がらない。
地面には、朝露が残っている。露は冷たい。冷たさは現実だ。
列が進む。
一人ずつ、白の前に立たされる。
「名は?」
「年は?」
「家族構成は」
問いは短く、順序立っている。
順序がある質問は、正しそうに聞こえる。
少年の番が来た。
「名は?」
答える。
「年は?」
「……十七」
ほんの一瞬、神官の視線が動いた。
それを、少年は見逃さなかった。
「健康状態は」
その問いで、少年は一瞬だけ言葉に詰まった。
健康であることが、なぜここで必要なのか。
だが、考える時間は与えられない。
「問題、ありません」
神官は頷いた。
頷きは、判断だ。
横に控えていた兵に、視線だけで合図を送る。
「この者は、保護対象です」
保護。
その言葉を聞いた瞬間、母親の胸から息が漏れた。
「よかった……」
言葉は、途中で止まった。
「前へ」
兵が、少年の腕を取った。
力は強くない。だが、外せない。
「え?」
少年が振り向く。
「少し、離れていただきます」
兵の声は平板だった。
慣れている声だ。
母親が口を開こうとした、その瞬間──
兵が、視線を向けた。
睨みではない。
怒りでもない。
正しさの視線だった。
「神意による配置です」
配置。
物に使う言葉。
母親の指先から、少年の袖が滑り落ちる。
布が擦れる音が、小さく鳴った。
それが、最後だった。
「すぐ戻りますから」
神官は、穏やかに言った。
穏やかな嘘は、疑われにくい。
少年は、振り返らなかった。
振り返れば、足が動かなくなると分かっていたからだ。
列の後ろで、その様子を見ていた男がいた。
彼の隣には、妻と、まだ幼い娘がいる。
「……あれは、徴兵だ」
小さな声が、列の中で囁かれた。
「違う」
別の声が、すぐに否定する。
「白巫家だぞ。守ってくれるに決まってる」
白は、守る色だ。
そう信じなければ、ここに立っていられない。
その日、少年は戻らなかった。
翌日も、その次の日も。
村の広場に、白い布で覆われた柵が設けられた。
内側は保護区域と呼ばれた。
内側に入った者は、名を記録される。
年齢、体格、家族構成、持病の有無。
記録は正確で、正確だから冷たい。
「この子は?」
神官が、男の娘を指差す。
男は背筋を伸ばした。
「……まだ、幼いです」
「ええ。対象外です」
安堵が、胸に広がる。
「ですが──」
その一言で、安堵は崩れる。
「『器』としての適性は、後日再確認します」
器。
男は、反射的に娘を抱き寄せた。
娘は意味が分からず、父の胸に顔を埋める。
「今は、保護区域へ」
指示は丁寧だった。
拒否する理由が、どこにもない。
夜。
白い布の内側で、焚き火が焚かれた。
火は暖かい。
暖かさは、守られている証に見える。
だが、布の外では家が壊されていた。
『敵の潜伏を防ぐため』
理由は、いつも正しい。
白巫家の印をつけた兵が、無言で戸を壊す。
壊される側は、抵抗しない。
抵抗すれば、「敵」になる。
丘の上から、ミサキはそれを見ていた。
直接関わってはいない。
ただ、見ている。
胸の奥が、重い。
自分が何かをしたわけではない。
それでも、視線が集まる気がした。
「……白は、守らないね」
隣で、翠弧が呟く。
「守るって、言ってる」
「言葉はね」
彼は、焚き火の数を数えている。
火が増えるほど、値段は上がる。
「君がここにいるって知ったら、あの人たち、どうすると思う?」
ミサキは、答えなかった。
答えは、分かっている。
守る。
囲う。
配置する。
どれも、同じ行為だ。
白い布が風に揺れる。
揺れるたび、影が伸びる。
影は、柵の外へも届いていた。
白は、守らない。
白は、選ぶ。
選ばれなかった者は、夜の外に残る。
夜が更けるにつれ、保護区域の内側は静かになった。
静かすぎて、人は小声でしか話さなくなる。
焚き火の近くで、母親が数を数えていた。
声に出さず、指だけで。
一人、二人、三人──。
数え終わるたび、首を振る。
合わない。
どう数えても、合わない。
彼女の隣で、別の女が呟いた。
「……戻ってきてない人、いるよね」
問いではなかった。
確認でもなかった。
事実だった。
「でも……保護、だって」
言い聞かせるように言う。
言い聞かせなければ、崩れる。
そのとき、柵の外から音がした。
木が軋む音。
何かが倒れる音。
誰かが立ち上がりかけ、すぐに座り直した。
立ち上がる理由が、ない。
外は危険だと教えられている。
白い布の向こうで、短い悲鳴が上がった。
すぐに途切れた。
神官の声が、遠くから聞こえる。
「問題ありません。処理は完了しました」
神官は記録板に印を付けた。
印は黒い。乾きが早い。
氏名。年齢。移送。処理。
欄は整っている。
余白は、ない。
紙の上では、誰も泣かない。
数字は静かだ。
数字は、減らない。
減ったのは、人の方だ。
「次へ」
声は変わらない。
変わらない声が、秩序になる。
兵が頷く。
頷きは習慣だ。
白い布の外で、もう一つ戸が壊れた。
処理。
何を処理したのかは、言われない。
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
火の粉が舞い、誰かの袖を焦がす。
小さな焦げ跡。
それだけで、心臓が跳ねる。
母親は、息を殺して祈った。
神にではない。
白に、ではない。
ただ、朝が来ることを。
だが彼女は、もう知っていた。
朝が来ても、昨日には戻れないということを。
白は、守らない。
白は、選ぶ。
そして一度選ばれた村は、
もう何も知らなかった朝には戻れない。
その事実が、この戦争が始まった証だった。




