第四章第八話 神意は、命を選ばない
前線の朝は、白い。
霜が草を噛み、土は硬く、息は薄い。薄い息ほど音が立つ。立つ音は敵に聞かれる。だから兵は喋らず、代わりに革の擦れる音だけが列を作った。鎧の継ぎ目、鞍の革、矢筒の紐。擦れる音は、戦争の祈りに似ている。
祈りが必要なのは、勝つためじゃない。
負ける理由を、後から作るためだ。
巫女は、列の中央にいた。
守られているのではない。囲われている。
白衣は戦場では目立つ。目立つものは標的になる。標的になるものは、さらに守られる。守られるほど、逃げられない。逃げられないものほど、使いやすい。
巫女ナユは、袖の中で指を組み、数を数えていた。
一、二、三、四。
息の拍。心の拍。規定の拍。規定通りなら正しい。正しければ、怖くない。
──怖くないはずなのに。
皮膚の内側が薄い紙のように震える。震えは寒さのせいではない。祈殿と違う香。野の匂い。血の予感。鉄の気配。濡れた土の腐り。そういうものが混じると、体は「生」を思い出してしまう。
生を思い出すと、祈りが痛い。
「巫女様」
鎧の男が声を落とした。赤刀衆ではない。王都軍の前線兵。名は知らない。名を呼ばれない兵は多い。呼ばれないから死にやすい。死にやすいから、従う。
「次の丘で、進むか、回り込むか。神託を」
神託をという言葉は、命令の形をしている。
命令の形をしているものは、拒めない。
ナユは頷いた。頷きは同意ではない。作業開始の合図。
小さな鈴が渡される。よく鳴る鈴。正しい音を作る鈴。
正しい音を作れば、折れた音が隠れる──と教えられてきた。
けれど今は違う。正しい音が鳴るほど、折れた音の輪郭が浮く。
ナユは鈴を振る。
澄んだ音が、霜の空気に広がる。
広がった音の端が、ひくりと痙攣した。
痙攣。
呼吸の乱れ。
指先の震え。
どれも「器の問題」にされる。
──違う。
音が、世界の側で折れている。
ナユの喉の奥に、熱いものが溜まる。吐けば楽になる。吐けば、白衣が汚れる。汚れた白衣は正しさを汚す。汚した者は、配置から外される。
外される場所を、ナユは知っている。
名前を呼ばれない場所。
記録に残らない場所。
だから吐かない。
ナユは目を閉じ、言葉を探す。
神意は言葉で降りるのではない。
降りたものに、言葉を当てはめる。
「……回り、込め」
自分の声が自分の耳に遠い。
遠い声は他人の声みたいだ。
他人の声なら、責任も他人のものになる。
兵が息を吐いた。安堵ではない。作業の完了。
「回り込みだ! 列を崩すな! 巫女様を中心に!」
命令が走り、列が曲がる。曲がる列は蛇に似る。蛇は狡い。狡いものは勝つ。勝てば正しい。
その正しさが、誰の命で作られるのかを、兵は考えない。
列が谷筋へ下りる。
谷は湿っている。湿りは靴底を重くする。重い足は遅れる。遅れた足は切り捨てられる。切り捨ては戦場の礼儀だ。
兵の一人が転び、膝を擦った。血がにじむ。
血は小さい。小さい血は見逃される。
見逃された血が積もると、戦争になる。
前方、村が見えた。
煙が薄く上がっている。朝餉の煙だと、誰もが思いたがる煙。
その煙の向こうに、人影が揺れた。
揺れは生活の揺れか、敵の揺れか。
違いは、命の価値を変える。
神官が馬上から覗き込む。前線に同行する神官トウマ。
彼の白い手は、戦場の汚れに触れないように、袖の中にある。
袖の中の手で、彼は世界を切る。
「巫女。神託を。攻撃対象の選別を」
選別。
その言葉が、ナユの背骨に冷たく刺さる。
神意は、救うためのものではない。
誰を切り捨てるかを決めるためにある。
ナユは鈴を振った。
音が空に伸びる。伸びた音が、途中で沈んだ。
沈んだ音の底で、別の音が鳴る。
折れた音。
折れた音は、村の方角から聞こえた気がした。
ナユの視界が、一瞬だけ揺れる。
影が遅れる。
遅れた影が、村の煙と重なり、境界が溶ける。
「……右。……煙の、根」
言葉が途切れる。途切れは器の弱さにされる。
セイラみたいに整えられることもない。前線には整える余裕がない。
だから途切れは、そのまま命令になる。
「右だ! 煙の根を抑えろ!」
兵が走る。走る音は土を裂く。
裂けた土の匂いが立ち、ナユの喉が熱くなる。
右手の茂みが揺れ、矢が飛んだ。
飛んだ矢は一本。一本の矢は偶然に見える。偶然なら問題ではない。
次の瞬間、矢は雨になった。
「伏せろ!」
叫び声。
叫び声は、人がまだ人である証だ。
証はすぐに消える。
最前列の兵が喉を射抜かれた。血が噴く。血は温かい。
温かさは、ナユの白衣に飛んで、小さな点を作った。
点は、消せない。
ナユの息が詰まる。
詰まった息の向こうで、神官トウマが言った。
「神意に従え。撤退の判断を」
撤退。
撤退は恥ではない。神意がそう言ったなら、撤退は正しい。
正しい撤退は、誰かの死で成立する。時間を稼ぐ死。盾になる死。
ナユは鈴を振った。
鈴の音が鳴る前に、喉から声が漏れた。
「……っ」
痛い。
胸の内側が、紙を剥がされるように痛い。
剥がされたところから、冷たい風が入る。冷たい風は、命を削る。
ナユは膝をつきかけた。
兵が支える。支えは優しさではない。巫女が倒れれば判断が止まる。止まれば、隊が死ぬ。隊が死ねば、神官が困る。困るのは正統だ。
ナユは目を閉じて言った。
「……退け。……村へ、入るな」
村へ入るな。
その一言で、村の命が決まる。
兵が叫ぶ。
「撤退! 村へ入るな! 神意だ!」
神意。
その言葉が盾になる。
盾になる言葉ほど、刃にもなる。
撤退の列が引く。
引きながら、兵が火矢を放った。追撃を止めるための火。
火が茂みに燃え移り、風に乗って村へ伸びる。
「待って!」
村の方から、人が走ってきた。女だ。子どもを抱えている。
彼女の口が動く。助けて、と言っているのだろう。言葉は届かない。
届かない言葉は、戦場では無音だ。
兵が槍を構える。槍の先が揺れる。揺れる槍は、迷いの証だ。
迷いは危険だ。迷いは命令で潰される。
「近づけるな。敵の偽装だ」
神官トウマの声は冷たい。冷たい声は兵を安心させる。
安心すれば、刺せる。
槍が突き出され、女が倒れた。
子どもが地面に落ち、泣き声が上がる。
泣き声は、香がない場所ではよく響く。
響く泣き声は、兵の心を揺らす。
揺れる心は、神意のせいにされる。
「見るな。進め」
隊列が動き、泣き声は背後に置き去りにされる。
置き去りの声は、すぐに煙に消える。煙は村を包む。
包まれた村は、記録から消える。
ナユは、息を吐いた。吐いた息が赤い。
赤い息は、体が削れている証だ。
削れているのに、誰も止めない。
止めたら、神意が止まる。神意が止まれば、正統が揺らぐ。
正統を守るために、巫女は削られる。
巫女を守るために、村が燃える。
どちらも「神意に従った結果」になる。
ナユは唇を噛んだ。噛んだ痛みで、自分がまだ人だと確かめる。
確かめても、次の命令が来る。
トウマが言った。
「次の判断を。
攻めるべきか、退くべきか。神意は、命を選ばない」
命を選ばない。
その言葉は真実だった。
選ばないから、たくさん死ぬ。
たくさん死ねば、戦争は続く。
ナユは鈴を握り直した。指先の感覚が薄い。薄い指先は、糸を掴めない。
それでも掴む。掴まなければ、落ちるのは自分だけではない。
彼女は目を閉じ、折れた音の方向を探す。
折れた音は、いつも人のところにある。
──神意は、人を救うためじゃない。
──戦争を続けるための言葉だ。
その考えが浮かんだ瞬間、ナユは自分の中で何かが欠けた気がした。
欠けたものの形は、祈殿の床に残った黒い赤に似ていた。
彼女は、声を出した。
「……進め」
進め。
たった二文字が、また別の村を燃やす。
兵が動く。
神官が頷く。
誰も疑わない。
疑えないのではない。
疑えば、ここまでの血が無駄になるからだ。
だから戦争は、剣を交える前から、もう勝手に続いていく。




