第四章第七話 最初の矢
矢は、飛ぶ前から血の匂いがする。
冬の朝は薄い。薄い朝は音を拾う。馬の鼻息、革の擦れる音、鎧の継ぎ目の軋み。音が揃っていくほど、兵は「人」ではなくなる。人でないものは迷わない。迷わないものは、よく刺さる。
赤刀衆・第三隊の若い兵、イツキは槍の柄を握り直した。掌の汗が冷える。冷える汗は、恐怖の証拠だ。恐怖を恐怖と認めれば弱い。だから彼はそれを「寒さ」にした。寒さなら正しい。寒さなら耐えられる。
隊列の前方に、旗がある。白い紙垂。白巫家の印。
白は汚れない。汚れない白を守るために、今日、赤が要る。
「──繰り返せ」
指揮官の声が低く落ちた。赤刀衆の隊長ではない。王都の軍属でもない。白巫家から派遣された祈祷付きの監督官だ。鎧は軽く、顔は綺麗で、声が鈴みたいに澄んでいる。澄んだ声ほど命令が刺さる。
監督官が巻物を広げる。巻物には文がある。文は盾だ。盾があれば刃を振れる。
「黒鴉家は神意を汚し、王都を乱し、正統を揺らがせた。
よって、これは討伐ではない。浄化である」
浄化。
その言葉が出た瞬間、イツキの背骨の奥が冷えた。浄化は水でやることだ。火でやることだ。刃でやることではない。だが、刃でやる浄化もある。白巫家は何でも白く言い換える。白く言えば血が目立たない。
「復唱」
声が命令になる。命令は一斉に口へ出る。
「浄化である」
隊列の背後で、誰かが小さく咳をした。
咳は人の音だ。人の音は揃わない。揃わない音は目立つ。
赤刀衆の古参兵が、咳をした兵の後頭部を小突いた。
痛みは音を止める。音が止まれば整う。整えば、正しい。
イツキは唇の内側を噛んだ。噛む痛みで、自分がまだ生きていることを確かめる。確かめるほど、怖さが増す。怖いから、もう一度「寒さ」にする。
行軍が始まった。
王都の門を出ると、空気が変わる。香が薄い。薄い香は現実の匂いを通す。土の匂い。獣の匂い。人の汗の匂い。
そして、どこかに混じる、昨日の火の匂い。
燃やした木の匂いは、遠くても分かる。火は匂いだけで命令する。
監督官が馬上から言う。
「黒鴉家は観測を信じる。観測は疑いを生む。疑いは乱れを生む。
乱れは、神意に対する刃だ」
刃。
刃と言いながら、彼の目は兵の刃を見ていない。
兵は道具だ。道具は痛まない。痛むのは人だけ。
隊列の横を、別の部隊が追い抜いていく。王都の衛兵。槍が長く、顔が若い。若い顔は正義を信じやすい。信じやすい顔ほど、躊躇がない。躊躇がない者は、最初に刺す。
イツキの胸がざらついた。
最初に刺した者は英雄になる。英雄は便利だ。英雄がいれば、誰もが続く。続けば、殺しは集団の仕事になる。
仕事になった殺しは、罪にならない。
昼過ぎ、黒鴉家領の境界に近づいた。
森が濃くなる。木の影が長い。影が長いと、目が欺かれる。目が欺かれると、人は音に頼る。音に頼ると、矢が刺さる。
「止まれ」
監督官が手を上げた。
手を上げるだけで隊列が止まる。止まれる隊列は強い。強い隊列は、壊すときに大きい音がする。
先行斥候が戻ってきた。息が白い。白い息は冷たい。
「黒鴉の哨所が──空です」
「空?」
監督官の眉が動いた。動く眉は、計画にないという証拠。計画にないものは危険だ。危険は、すぐ敵の卑劣に変換される。
「退いたのです。住民も。畑も放棄されています」
監督官が口角を上げた。笑みは薄い。薄い笑みほど怖い。
「逃げたか。罪の自覚があるということだ」
逃げた。罪の自覚。
言い方は簡単だ。簡単な言い方ほど、人を殺しやすい。
隊列は森へ入った。
足元は落ち葉が厚い。厚い落ち葉は音を吸う。音が吸われると、突然の音が怖い。
イツキの鼻に、湿った匂いが入った。土の匂い。苔の匂い。
その奥に、微かな鉄の匂い。
鉄は武器の匂いだ。
武器の匂いは、血の前の匂いだ。
前方で、矢が一本、木に刺さった。
カン、と乾いた音。
乾いた音は、森で浮く。
一瞬、全員が止まった。
止まった一瞬が、命取りになる。
「伏せろ!」
誰かが叫んだ。叫びは遅い。
遅い叫びの直後、二本目の矢が飛んだ。
矢は空を切らない。森では矢は音を立てない。
音が立たない矢は、突然刺さる。
後列の衛兵が喉を押さえ、倒れた。
喉から赤が噴いた。噴いた赤は白い息に混ざり、霧みたいに散る。霧は美しい。美しい赤は、現実味がない。現実味がないものほど、恐ろしくないと錯覚できる。
錯覚できる間に、次が来る。
「敵襲! 隊列維持!」
赤刀衆の隊長が声を張った。
維持。
維持という言葉は希望だ。希望があると、体が動く。
だが、敵は見えない。
見えない敵は、恐怖を増やす。恐怖が増えると、誰かが早撃ちする。
早撃ちは、戦争を確定させる。
監督官が馬上から叫ぶ。
「黒鴉の卑劣! 民を盾にせず、影から刺すか!」
影から刺すのは、戦術だ。
戦術は生きるための知恵だ。
だが、戦術は卑劣にされる。
卑劣と言われた瞬間、殺す側は安心する。
卑劣な相手なら殺していい。
イツキは森の奥に、わずかな動きを見た。
動きは影に紛れ、輪郭が揃わない。
揃わない輪郭は、誰でも敵にできる。
──撃て。
誰かの命令ではない。空気の命令。
空気が命令すると、個人は免責される。
イツキは弓を引いた。
引き絞る腕が震える。震えは寒さではない。
寒さではないと認めた瞬間、矢は怖くなる。
彼は矢を放った。
矢は飛び、影に吸い込まれた。
次の瞬間、短い声がした。
人の声。
人の声は、痛みの声。
イツキの胃がひくりと動いた。
吐き気が上がり、口の中が酸っぱくなる。酸っぱさは生の証拠だ。
生の証拠は、戦場では邪魔だ。
「進め!」
隊長の声。
進め。進めという言葉は、後退できないという意味だ。
隊列が前へ出る。
前へ出るほど、矢が増える。矢が増えるほど、誰かが倒れる。倒れるたびに、赤が落ち葉に染む。落ち葉は赤を吸う。吸えば、赤は見えにくい。見えにくい赤は、数を増やす。
森を抜けた先に、小さな集落があった。
家は空。窓は閉じている。
空の家は、無実の証拠にも見えるし、逃亡の証拠にも見える。
見え方は、勝った側が決める。
家の前に、黒鴉家の印が刻まれた小さな祠があった。
祠の前に、誰かが置いた鈴がある。古い鈴。よく鳴らない鈴。
風が吹いた。
鈴が、鳴った。
よく鳴らないはずの鈴が、妙に澄んだ音を出した。
その終わり際で、音が折れた。
イツキの背筋が冷える。
折れた音は、王都で聞いた音と同じだ。
同じなら、これはただの戦争ではない。
監督官が祠を見て、小さく笑った。
「神意を真似る玩具か」
玩具。
そう言うことで、音の恐ろしさを小さくする。小さくすれば、進める。
「焼け」
監督官が命じた。
短い命令。短い命令は火を呼ぶ。
衛兵が松明を投げ入れる。
乾いた家はすぐ燃える。燃え広がる火は早い。早い火は、見せしめに便利だ。
炎が上がる。
煙が上がる。
煙の向こうで、影が動いた気がした。
赤刀衆が追う。追うとき、呼吸が荒くなる。荒い呼吸は獣に似る。
獣に似た者は、人を人として見ない。
森の端、逃げ遅れた老人がいた。
老人は武器を持っていない。手は空。
空の手は無害だ。無害なら殺さない──はずだった。
だが、老人の口が動いた。
「……神意が……」
それだけで十分だった。
神意という言葉は、王都側にとって刃だ。
刃は折られなければならない。
衛兵の槍が、老人の腹を貫いた。
音は鈍い。肉が裂ける音は鈴より現実だ。
老人は声を出さずに崩れた。声を出さない死は静かだ。静かな死は、数を増やす。
イツキの喉が詰まる。
詰まる喉の奥で、さっきの監督官の言葉が反芻される。
討伐ではない。浄化である。
浄化とは、こういうことか。
赤が増える。
増えた赤を、白い言葉が覆う。
覆われた赤は、記録から消える。
消えた赤は、憎しみだけ残す。
隊長が叫ぶ。
「撤収準備! 日が落ちる前に陣を張る!」
陣。
陣を張るということは、ここが前線になるということだ。
前線になった場所は、もう元に戻らない。
イツキは、燃える家を見た。
家の燃える音は、木が泣く音に似ている。
泣く音は、戦場では聞こえないふりをされる。
振り返ると、祠の鈴がまだ揺れていた。
揺れているのに、風はない。
揺れているのは、空気ではない。
何かが、ここで揺れている。
イツキは自分の弓を見下ろし、矢筒を確かめた。
矢はまだある。
まだあるという事実が、怖かった。
矢は飛ぶ前から血の匂いがする。
飛んだ後は、もっと濃くなる。
濃くなった血の匂いは、もう香では隠れない。
そして誰かが言うだろう。
──これは戦争ではない。浄化である。
そう言い続ける者から、先に人間をやめていく。




