第四章第六話 象徴は、歩いている
歩いているだけで、理由になる。
理由になるだけで、刃が集まる。
刃が集まるだけで、人が死ぬ。
それを、私は知ってしまった。
王都を離れてから、空気が薄い。薄いのに、肺が重い。
白巫の祈殿にあった祈りの膜はない。香も鈴も、きちんとした拍もない。
それなのに、胸の内側には、あの膜が残っている。皮膚の裏に貼り付いた薄い紙みたいに。剥がそうとすると痛い。剥がせば血が出る。血が出れば、また誰かが「正しさ」を言い出す。
焔は前を歩く。背中が広い。広い背中は盾に見える。
盾に見えるものほど、よく刺さる。刺されると、盾は盾ではなくなる。
盾じゃなくなった瞬間に、私はむき出しになる。
「疲れたか」
焔が振り返らずに言う。
声が低い。低い声は安心を作る。
安心は危険だ。安心した瞬間、人は足元を見るのをやめる。
「大丈夫」
私は嘘をつく。嘘は簡単だ。白巫の里で、嘘の作り方だけは覚えた。
神意が降りているふり。疑問がないふり。痛くないふり。怖くないふり。
ふりがうまい者から生き残る。ふりがうまい者から、死んだ顔で生きる。
山道は冷たい。夜の前の冷え方だ。
木々が風で擦れ、乾いた音がする。乾いた音は、人の声に似ている。
似ている音を聞くと、心が勝手に意味を探す。意味を探す癖は、祈殿で植え付けられた。
意味は、いつも誰かの都合だ。
峠の手前に小さな集落が見えた。灯りが点々と浮かぶ。
灯りは暖かそうで、暖かそうなものは人を寄せる。
寄れば、見られる。見られれば、値踏みされる。
私はフードを深くかぶり直す。
顔を隠すためじゃない。顔はいつか見られる。
隠したいのは──私が、私の顔をしているという事実だ。
焔が立ち止まって、振り返った。
目が鋭い。鋭い目は、刃だ。
「ここで水を補給する。声は出すな。お前は、ただ俺の後ろにいろ」
「……分かった」
従う。従うのは簡単だ。従っている間、人は責任を持たなくていい。
でも私は、従っているだけで人が死ぬ世界にいる。
責任から逃げても、責任は追いついてくる。
集落の入口に、見張りの男がいた。
槍を持っている。槍の先が土に刺さり、少し揺れている。揺れは眠気だ。眠気は油断だ。
油断がある場所ほど、裏で誰かが起きている。
焔が男に近づき、短く会釈した。
「水を買いたい」
男が焔を見上げる。焔の顔を見る。焔の背中を見る。その背中の後ろ──私を見る。
見られる。
目が止まる。止まった目は、考えている目だ。
考えている目は、値段をつける目。
「……連れは?」
「口が利けない」
焔の声は平らだった。平らな声は嘘を嘘に見せない。
男は一瞬だけ私の手を見る。指先。爪。袖口。
白巫の衣の癖は抜けない。布の扱い方に、里の清潔さが残る。
男の喉が鳴った。
「ほう」
その一音で、私は分かった。
この瞬間に私は、「人」ではなくなった。
何かの札になった。売れる札。守れる札。殺せる札。
焔が銅貨を出す。男は受け取る。受け取る指の動きが早い。早い指は慣れている。慣れは、何度も誰かを売った指だ。
「こっちだ」
男が水場へ案内する。
私は焔の後ろを歩く。歩幅を合わせる。合わせることが正しさだと教わった。
合わせれば安全。合わせれば見えない──そう思い込みたかった。
水場の横に、土壁の小屋がある。扉が少し開いている。中が暗い。
暗い場所は隠す場所だ。隠す場所には、人がいる。
小屋の中から、女が出てきた。
目が細い。細い目は笑っているように見える。笑っている目は、刃を隠す。
「旅の方?」
女が焔に笑いかける。声が柔らかい。柔らかい声は、気を緩める。
焔は頷くだけで答えない。答えないのは、彼が学んだ生き方だ。
答えない者の隣にいる私は、余計に目立つ。
女の視線が、私の首元へ滑る。
そこに何もないのに、見られる。
見られるのは、首ではない。私が首を差し出す未来だ。
「お連れの方……具合が悪そう」
女が一歩近づく。
近づく距離が、少しだけ近すぎる。
香の匂いがした。王都の香と同じじゃない。もっと安い、甘ったるい香。
でも香は香だ。香があるということは、真似ができるということだ。
真似は、正統を壊す。
壊れると、守るための火が増える。
火は、こういう場所にも届く。
焔が女の前に身体を入れた。
「触るな」
声が低く落ちる。
女の笑みが一瞬だけ止まる。止まった笑みの隙間から、冷たいものが覗いた。
「怖いのね」
女が囁く。
怖い。
その言葉が刺さる。刺さるのは、当たっているからだ。
女は一歩下がり、代わりに男に目配せした。
目配せ。合図。
合図がある世界は、祈殿だけじゃない。どこにでもある。
合図がある限り、人は人を配置できる。
焔が私の手首を掴んだ。強い掴み。
掴まれた瞬間、私は自分が「物」になっていることを思い出す。
掴まれる側は、掴む側の都合に従う。
「行く」
焔が言った。水の袋を取る。
男が道を塞ぐように一歩出る。
「待て。金が足りない」
足りない。
足りないと言えば、取り立てができる。取り立ては正当化される。
王都も同じだ。正統を守るために足りない。だから血を足す。
焔が銅貨を追加で投げた。
男は受け取らない。受け取らないのは、金が目的じゃないからだ。
「金じゃない」
男が言う。
言い方が短い。短い言い方は、決めている言い方だ。決めている者は迷わない。迷わない者ほど危険だ。
「──その子を置いていけ」
置いていけ。
私は、息を止めた。
置いていけと言われた瞬間、世界が軽くなる。
軽くなるのは、身体が浮くからじゃない。
自分が人ではなく、荷物として扱われたからだ。
焔の手が、私の手首をさらに強く掴む。
強い掴みは、決断の掴みだ。
「無理だ」
焔が言う。
無理だ、という言葉が、相手には交渉に聞こえる。
交渉は、値段を上げる。
女が笑った。
笑い声は小さいのに、やけに耳に残る。
「じゃあ、死んで」
言葉が、軽い。
軽い言葉ほど、殺しに慣れている。
焔が私を引き、身体を回した。
回した瞬間、視界の端で光るものが見えた。槍の穂先。
穂先がこちらへ向く。向くということは、刺すということだ。
私は、思わず足を踏み出した。
避けるためじゃない。
焔の前に出るために。
──やめろ。
頭の中で、焔の声が響いた気がした。
何もしないでいろ、と言ったのに。
でも、私は知ってしまった。
私が黙っていれば、誰かが正しい顔で私を売る。
私が逃げれば、誰かが“正しい”顔で追ってくる。
私が生きていれば、誰かが正しい顔で殺そうとする。
私がここにいるだけで、物語が動く。
物語が動けば、血が必要になる。
私は、息を吸った。
香がない。
鈴がない。
祈殿の膜がない。
それでも、喉の奥が熱くなる。
熱は、里で潰されたはずのもの。
潰されたはずのものが、まだ残っている。残っているなら、私はまだ「器」なのか。
器。
その言葉が、嫌いだ。
嫌いなのに、私はそれだ。
槍が突き出された。
焔が私を引き戻す。引き戻す力が間に合わない。
穂先が私の袖を裂いた。
布が裂ける音は小さい。小さい音は、血の音の前触れだ。
私は目を閉じた。
──折れた音がした。
鈴じゃない。
槍の金属が、空気の中で一瞬だけ詰まる音。
詰まった音の後、穂先が、ほんのわずかに逸れた。
逸れた穂先が、焔の肩をかすめて地面に刺さる。
焔が呻く。血が出る。出た血は、すぐに暗くなる。
女が息を呑んだ。
男が顔色を変えた。
「……今の、何だ」
何だ。
私は答えられない。私にも分からない。
分からないものほど、人は怖がる。怖がると、人は正しい理由を探す。
「こいつ、呪いだ」
誰かが言った。
呪い。便利な言葉。
便利な言葉は、殺しの理由になる。
「白巫の……!」
白巫。
その単語だけで、空気が硬くなる。
王都の物語が、ここまで届いている。
届くということは、翠弧が売ったのか、王都が撒いたのか、黒鴉が漏らしたのか。
どれでもいい。結果は同じだ。
私は、ここにいるだけで、戦争の中心になる。
焔が歯を食いしばって私を引く。
「走れ!」
走る。
走るという行為は、生きるための行為だ。
生きるための行為が、誰かの死を呼ぶ。
私たちは森へ逃げた。背後で足音が増える。声が増える。
増える音は、狩りの音だ。
焔が息を切らしながら言った。
「……分かったか」
分かった。
分かったから、怖い。
「お前は──」
焔の言葉が途切れる。
途切れの隙間で、私の中に言葉が落ちた。
私は、この構造の主人公だ。
主人公でいることが、一番危険だ。
主人公は、守られる。
守られるから、狙われる。
狙われるから、売られる。
売られるから、殺される。
殺されないために、誰かが代わりに死ぬ。
その連鎖の中心に、私は立っている。
森の奥で、焔が立ち止まった。肩の血が黒く滲む。
私が手を伸ばすと、焔が首を振る。
「触るな。お前が触ったら、理由になる」
理由。
私は理由だ。
私が何かをした瞬間、誰かが「正しさ」を名乗る。
私は手を引っ込めた。
引っ込めた手が震える。震えは寒さじゃない。
自分が怖い。
何もしていないのに、世界が折れる。
私が生きているだけで、人が折れる。
遠くで犬が吠えた。追跡の吠え方だ。
焔が息を吐き、短く笑った。
「……ほらな。お前は歩いてるだけで、戦争の真ん中だ」
私は、答えられなかった。
答えられる言葉がない。
言葉がないのに、足だけは前に出る。
象徴は、歩いている。
歩いている限り、火は消えない。
火が消えない限り、血の匂いは薄れない。
──そして、薄れない匂いの中で、人は次の正義を口にする。




