第四章第五話 逃げる者の値段
悪意は、いつも合理的だ。
翠弧はそう信じている。
激情や憎悪で人は殺さない。殺す理由は、もっと静かで、もっと整っている。帳簿に書ける理由、説明できる理由、責任を外に置ける理由──それが揃ったとき、命は軽くなる。
王都裏手の茶屋は、今日も半分だけ開いていた。
表の戸は閉じ、裏の戸だけが軋む音を立てる。軋む音は、客を選ぶ音だ。聞こえない者は入れない。聞こえても、意味が分からなければ入れない。
翠弧は裏戸をくぐり、いつもの席に座った。
柱の影。逃げ道が二つ。天井が低く、刃を振り上げにくい。
生き残る者は、座る場所から選ぶ。
茶は薄い。
薄い茶は、毒を混ぜやすい。混ぜやすいから、逆に安全だ。ここで出される毒は、もっと分かりやすい形をしている。命令とか、金とか、正義とか。
「境界で一人、消えた」
向かいの男が言った。
文官崩れ。王都側の連絡役だ。
肩書きはない。肩書きがない者ほど、仕事が汚い。
「盗賊被害、で処理した」
「でね」
翠弧は頷いた。
処理、という言葉が好きだ。処理されるのは、いつも人だ。
「黒鴉家の観測兵だ。若い女だったらしい」
男は声を落とす。
落とした声は、値段交渉の前振り。
「値は?」
翠弧は即座に聞いた。
同情はしない。同情は、金にならない。
「安い」
男は言った。
「王都としては、想定内だ」
想定内。
その言葉一つで、命は予算に変わる。
「想定内なら、情報は高い」
翠弧は指を二本立てた。
「二つ、売れる」
「三つだろ」
男が言う。
「お前は、もっと持っている」
「持ってるかどうかと、売るかどうかは別だ」
翠弧は茶を啜った。
苦味が残る。苦味は現実の味だ。
「まず一つ目」
男が言う。
「黒鴉家は、どこまで掴んでいる」
「神意が壊れているって話?」
「そうだ」
翠弧は少し考えるふりをしてから答えた。
「完全な証明はない。でも、一致はしている」
「一致?」
「鈴、影、巫女の身体反応、処刑の前後関係」
嘘は言っていない。
だがどの程度の一致かは言わない。
「だから、連中は確信してる」
「何を」
「白巫家が、壊れた神託を正しいことにしているって」
男の喉が鳴った。
「それは……」
「危険?」
「危険だ」
即答。
危険という言葉が出るとき、すでに対処は決まっている。
「二つ目」
翠弧が続ける。
「王都は、黒鴉家を『敵』にする」
「もうしている」
「公式に、だよ」
男は黙った。
黙るということは、事実だ。
「異端認定。往来制限。協力者の拘束。
理由は簡単。外に原因がある」
外。
便利な置き場だ。
「……三つ目は?」
男が促す。
翠弧は、少しだけ声を低くした。
「三つ目は、火をつける理由」
男の眉が動く。
「火?」
「血はもう流れた。次は、火だ」
翠弧は淡々と言った。
「戦争は、始まる前に正当化される。
正当化には、分かりやすい事件が要る」
「誰が起こす」
「誰か」
翠弧は肩をすくめた。
「黒鴉家でも、王都でもない第三者が一番都合がいい」
「……そんな都合のいい存在が?」
「作るんだよ」
男は顔を歪めた。
「誰が」
「誰でもいい。
追い詰められた村人。
異端に仕立てられた観測兵。
逃げ遅れた巫女」
名前を挙げるだけで、死が具体化する。
「分かりやすく血を流してくれれば、それでいい」
男はしばらく黙っていた。
沈黙は、計算だ。
「……それを、黒鴉家にも?」
「少しだけ」
翠弧は同じ答えを返す。
「向こうには、王都がどこまで決めているかを。
王都には、黒鴉家がどこまで掴んでいるかを」
「どっちにも、全部は渡さない」
「全部渡したら、俺が消される」
男はため息をついた。
「お前は、本当に最低だな」
「ありがとう」
翠弧は笑った。
「褒め言葉だ」
男は金袋を二つ、机に置いた。
重い音。
命が音に変わる瞬間。
「……もう一つ聞かせろ」
「何?」
「お前は、どっちが勝つと思ってる」
翠弧は、しばらく答えなかった。
勝敗を口にするのは、危険だ。勝者は、情報屋を嫌う。
「勝つのは──」
翠弧はゆっくり言った。
「正しさだよ」
「正しさ?」
「そう。
白巫家が勝っても、黒鴉家が勝っても、
最後に残るのは『誰かが正しかった』という話」
男は理解した顔をした。
「……人は?」
「残らない」
翠弧は立ち上がった。
「だから、俺は逃げる」
「逃げられると思ってるのか」
「逃げる準備をしてる」
準備。
それが、翠弧の生き方だ。
茶屋を出ると、路地の奥に影が待っていた。
黒鴉家の使い。名は聞かない。
「……話は?」
「した」
翠弧は同じ言葉を返す。
「全部?」
「少し」
影は頷いた。
少し、という言葉の重さを理解している。
「王都は?」
「もう決めてる」
「戦争を?」
「敵を」
敵を決める。
戦争より先にやることだ。
影は歯を食いしばった。
「……我々は、どうすればいい」
翠弧は一瞬だけ、真面目な顔をした。
「証明しろ」
「何を」
「自分たちが正しいってことを」
影は苦く笑った。
「それが、一番難しい」
「だから、値が高い」
翠弧は背を向けた。
逃げる者の値段は、日ごとに上がる。
血が増え、火が近づくほど、賢い者ほど高くなる。
影が去ったあと、翠弧はしばらく路地に立ち尽くしていた。
足は動くのに、動かさない。逃げる準備はできているのに、逃げない。自分でも理由は分かっている。
──見てしまったからだ。
戦争の前夜というものを。
剣も旗も火もないのに、命が値札を付けられていく光景を。
翠弧は、かつて逃げる側だった。
名を捨て、家を捨て、正しさを捨てた。
捨てなければ、殺されていたからだ。
正しい側にいた者ほど、最後は逃げられない。
それを、何度も見てきた。
白巫家の神官が処刑台で語る「秩序」。
黒鴉家の観測兵が必死に握る「事実」。
どちらも、人を救うための言葉だったはずなのに、最後には人を縛る鎖になる。
翠弧は、その鎖の長さと重さを測る役を選んだ。
鎖を断ち切る英雄でも、鎖を振り回す狂信者でもない。
ただ、鎖が誰の首にかかるかを知り、その順番を売る。
卑怯だと、分かっている。
卑怯だから、生きている。
「……だから嫌なんだよ」
誰に向けたでもない独り言が、路地に落ちた。
もしも、どちらかに全部を渡してしまえば、楽になれる。
正義の側についた気になれる。
だが、その瞬間から、翠弧は守られる存在になる。
守られる存在は、使い捨てにされる。
守る者は、最後まで責任を取らない。
責任を取らないから、正しさを名乗れる。
翠弧はそれを、誰よりもよく知っていた。
だから、少しずつ売る。
少しずつ逃げる。
誰にも完全な勝利を与えない。
それが、この世界で一番長く生きる方法だ。
路地の奥で、遠く鐘が鳴った。
祈殿の鐘だ。
正しい音。よく鳴る音。
翠弧は、その音を背に、歩き出した。
一番悪いのは、
一番賢い奴だ。
その言葉を、自分自身に突き刺すように、胸の奥で反芻しながら。




