第四章第四話 観測者は、殺される
夜明け前の空は、紙を湿らせたように灰色だった。
黒鴉家の見張り塔から見える谷筋は、まだ眠っている──眠っているように見えるだけで、実際は目を開いている。戦争が始まる前の土地は、いつもそうだ。風が音を選び、木々が影を溜め、獣が息を潜める。人間より先に、世界が「来る」と知っている。
若い観測兵、ユイは、革紐で束ねた書板を胸に抱えていた。
胸が冷たい。冷たいのに、汗が滲む。汗は恐怖の証だ。恐怖は、ここでは弱さであり、同時に生存の条件でもある。
書板の中身は、軽い紙の束ではない。
黒鴉家が拾い集めた折れた音の欠片だった。
鈴の不連続。
影の遅れ。
巫女の身体反応。
王都南門での処刑。
そして、それらが「事故」「扇動」「異端の嘘」として塗り替えられていく速度。
──神意が壊れている。
言葉にした瞬間、殺される言葉。
ユイはそれを言葉にしない。
言葉にしないで、紙に刻む。紙に刻めば、言葉は刃にならずに済む。そう信じたかった。
「ユイ」
背後で、塔の長老格の観測官が短く呼んだ。声が低い。低い声は、見送る声だ。
「矢文では運べん。道も危ない。だが、今のうちに動かねば……」
「分かっています」
ユイは頷いた。頷くと、書板が胸骨に当たる。その硬さが現実の硬さだ。
観測は、祈りと違って柔らかくない。観測は固い。固いものは折れにくいが、折れたときに大きな音がする。
「渡しは南の伐り場だ。名を出すな。相手も名を名乗らん。合図だけで分かる」
「……黒い糸ですね」
長老は頷いた。
黒い糸──黒鴉家が外縁の物流に通す、匿名の協力者網。中立の商人、逃亡者、村の炭焼き、巡礼のふりをした者。戦争が始まる前に、人はいつもすでに戦っている。刃ではなく、言葉と道と金で。
「最後に言う。ユイ」
長老の目が硬くなる。
「誰も信じるな。『黒鴉家のため』という言葉も信じるな。正しさは、人を殺す」
ユイは笑えなかった。
正しさが人を殺す──王都の火を見た者なら、笑えない。
彼女は塔を降り、夜の湿り気を吸い込んで歩き出した。
獣道を選ぶ。街道は選ばない。街道は人の道であり、いま人の道は目に見えない槍で満ちている。
森は暗い。暗い森は安心に似ている。
安心に似ているだけで、安心ではない。
枝が頬を掠める。樹皮が袖を引っかける。靴底が土を噛む。
音が出る。出た音は、葉に吸われる。葉が吸わない音だけが、残る。
ユイは耳を澄ませた。
自分の足音の後ろに、もう一つ足音がないか。
ない。
ないという事実が、怖かった。
追跡者は、足音を消せる。足音を消せる者は、殺すことにも慣れている。
夜が少し白んできたころ、谷筋に霧が溜まっていた。
霧は視界を隠す。隠すものは、守りにも罠にもなる。
ユイは霧の中に入った。
霧の中では、世界の輪郭がほどける。ほどけると、距離感が狂う。狂った距離感は、死を呼ぶ。
そのとき、背後で小さな枝が折れた。
ユイは止まらない。
止まった瞬間、追いつかれる。追いつかれた瞬間、言葉が出る。言葉が出た瞬間、終わる。
走る。
走ると、書板が胸の前で跳ねる。跳ねる硬さが、肺を叩く。肺が苦しい。苦しいと、祈りたくなる。祈りたくなると、白巫家の術に似てしまう。似た瞬間、負ける。
ユイは歯を食いしばった。
観測兵は祈らない。観測兵は数える。測る。記す。
霧を抜け、伐り場の開けた斜面が見えた。
切り株が並び、伐られた木の匂いが生々しい。新しい木の匂いは血に似ている。まだ温かい匂い。
ここだ。
ユイは息を整えながら、合図の場所──倒木の根元へ向かった。
根元には、黒い糸が一本、結び目を作って垂れている。
結び目。
合図は生きていた。
ユイは胸の内側が少し軽くなるのを感じた。軽さは油断に変わる。油断は刃より危険だ。
「……黒鴉の?」
背後から声がした。
若くも老いてもいない声。男か女か分からない声。声は人の輪郭を持たない。
ユイは振り返らない。振り返らないのが約束だ。
約束を守る者ほど、殺されることもある。
「荷を渡します」
ユイは答えた。声が震えないように。震えた声は、相手に人間を渡す。
「置け」
短い命令。
短い命令は、従わせる。
ユイは倒木の上に書板を置いた。革紐の結び目がほどけないように指で押さえる。押さえる指先が冷たい。冷たい指先は、掴み続ける癖を持っている。
「中身は」
声が問う。
問う声には、興味がない。確認だけがある。
「……王都の儀式の記録です。折れた音。影の──」
言いかけて、ユイは口を閉じた。
言葉にしたくない。言葉にすれば、世界がそれを現実として認める。認めた瞬間、殺す理由になる。
相手が笑った気配がした。
笑い声は出ない。笑い声が出ない笑いは、刃だ。
「分かった」
次の瞬間、ユイの背中に冷たいものが触れた。
刃ではない。
硬い棒のような──短い槍の柄のようなもの。
ユイの身体が、まず理解した。
理解の後に、痛みが来る。
肋の下から、鈍い熱が広がった。
熱は痛みだ。痛みは赤を呼ぶ。赤は匂いを呼ぶ。
ユイは膝が崩れるのを止められなかった。
倒木に手をつく。手のひらが樹皮に擦れ、皮がめくれる。皮がめくれる痛みより、腹の奥の熱の方が重い。
「……な……」
声が出そうになる。
出た声は、命乞いに似る。命乞いは人間の最後の祈りだ。
背後の無名の声が、淡々と言った。
「盗賊がいる。ここは危ない。
お前は運が悪かった」
言葉が整いすぎていた。
整いすぎた言葉は、準備された言葉だ。
ユイは息を吸おうとした。
吸った瞬間、喉に鉄の匂いが上がってきた。
口の中に温かい液体が溜まり、唇の端から垂れる。血は、いつも自分の体温を持っている。体温を持っているから、現実だ。
現実が、口からこぼれる。
「……どうして」
ユイはようやく言った。
問いは答えを求めるものではない。
問いは、意味を求める最後の癖だ。
無名の声は答えない。
答えない代わりに、倒木の上の書板を手に取った。
革紐が擦れる音。
紙が擦れる音。
観測の音。
ユイはその音を聞きながら、奇妙な安心に触れた。
奪われた。奪われたなら、内容は外へ出るかもしれない。
外へ出るなら、無駄死にではないかもしれない。
──その希望が、最後に残った。
無名の声が小さく息を吐いた。
「お前は、よく見すぎた」
その言葉は、褒め言葉に似ていた。
褒め言葉に似ているから、残酷だった。
ユイの視界が白く滲んだ。
朝の光が眩しい。眩しさは痛みに似ている。
痛みは遠のき、代わりに冷たさが増える。
冷たさが増えると、世界は静かになる。
静かになると、鈴の音が聞こえる気がした。
よく鳴る音。正しい音。
その終わり際で、確かに折れる音。
折れた音だけが、最後まで消えなかった。
ユイは倒木の影の中で、ゆっくり息を吐いた。
吐いた息が白い。白い息は、空へ消える。
消えるものは、記録に残らない。
──残るのは、別の記録だけだ。
数刻後、伐り場を巡回していた村人が、血だまりの中の死体を見つける。
村人は叫び、衛兵が来て、赤刀衆が来る。
赤刀衆ではない。赤刀衆はまだ動いていない。
そう書かれる。
ま開戦していないから。
「盗賊だな」
誰かが言う。
盗賊。便利な言葉。
便利な言葉は、戦争の前にいつも増える。
「荷は?」
「金目のものはない。若い女だ。……可哀想に」
可哀想に、という言葉が落ちる。
落ちた言葉は、拾われない。拾われなければ、慰めになる。
慰めになれば、次へ進める。
死体は運ばれる。
名は呼ばれない。
記録にはこう書かれる。
──黒鴉家観測兵一名、盗賊被害により死亡。事故。
事故。
事故なら、誰も責任を取らない。
責任がなければ、正義は揺れない。
揺れない正義の下で、戦争は静かに進む。
剣を交える前から。
旗を掲げる前から。
火を上げる前から。
血は、もう流れている。




