表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/33

第四章第四話 観測者は、殺される


 夜明け前の空は、紙を湿らせたように灰色だった。

 黒鴉家の見張り塔から見える谷筋は、まだ眠っている──眠っているように見えるだけで、実際は目を開いている。戦争が始まる前の土地は、いつもそうだ。風が音を選び、木々が影を溜め、獣が息を潜める。人間より先に、世界が「来る」と知っている。


 若い観測兵、ユイは、革紐で束ねた書板を胸に抱えていた。

 胸が冷たい。冷たいのに、汗が滲む。汗は恐怖の証だ。恐怖は、ここでは弱さであり、同時に生存の条件でもある。


 書板の中身は、軽い紙の束ではない。

 黒鴉家が拾い集めた()()()()の欠片だった。


 鈴の不連続。

 影の遅れ。

 巫女の身体反応。

 王都南門での処刑。

 そして、それらが「事故」「扇動」「異端の嘘」として塗り替えられていく速度。


 ──神意が壊れている。

 言葉にした瞬間、殺される言葉。


 ユイはそれを言葉にしない。

 言葉にしないで、紙に刻む。紙に刻めば、言葉は刃にならずに済む。そう信じたかった。


「ユイ」


 背後で、塔の長老格の観測官が短く呼んだ。声が低い。低い声は、見送る声だ。


「矢文では運べん。道も危ない。だが、今のうちに動かねば……」


「分かっています」


 ユイは頷いた。頷くと、書板が胸骨に当たる。その硬さが現実の硬さだ。

 観測は、祈りと違って柔らかくない。観測は固い。固いものは折れにくいが、折れたときに大きな音がする。


「渡しは()()()()()だ。名を出すな。相手も名を名乗らん。合図だけで分かる」


「……()()()ですね」


 長老は頷いた。

 黒い糸──黒鴉家が外縁の物流に通す、匿名の協力者網。中立の商人、逃亡者、村の炭焼き、巡礼のふりをした者。戦争が始まる前に、人はいつもすでに戦っている。刃ではなく、言葉と道と金で。


「最後に言う。ユイ」


 長老の目が硬くなる。


「誰も信じるな。『黒鴉家のため』という言葉も信じるな。正しさは、人を殺す」


 ユイは笑えなかった。

 正しさが人を殺す──王都の火を見た者なら、笑えない。


 彼女は塔を降り、夜の湿り気を吸い込んで歩き出した。

 獣道を選ぶ。街道は選ばない。街道は人の道であり、いま人の道は目に見えない槍で満ちている。


 森は暗い。暗い森は安心に似ている。

 安心に似ているだけで、安心ではない。


 枝が頬を掠める。樹皮が袖を引っかける。靴底が土を噛む。

 音が出る。出た音は、葉に吸われる。葉が吸わない音だけが、残る。


 ユイは耳を澄ませた。

 自分の足音の後ろに、もう一つ足音がないか。


 ない。


 ないという事実が、怖かった。

 追跡者は、足音を消せる。足音を消せる者は、殺すことにも慣れている。


 夜が少し白んできたころ、谷筋に霧が溜まっていた。

 霧は視界を隠す。隠すものは、守りにも罠にもなる。


 ユイは霧の中に入った。

 霧の中では、世界の輪郭がほどける。ほどけると、距離感が狂う。狂った距離感は、死を呼ぶ。


 そのとき、背後で小さな枝が折れた。


 ユイは止まらない。

 止まった瞬間、追いつかれる。追いつかれた瞬間、言葉が出る。言葉が出た瞬間、終わる。


 走る。

 走ると、書板が胸の前で跳ねる。跳ねる硬さが、肺を叩く。肺が苦しい。苦しいと、祈りたくなる。祈りたくなると、白巫家の術に似てしまう。似た瞬間、負ける。


 ユイは歯を食いしばった。

 観測兵は祈らない。観測兵は数える。測る。記す。


 霧を抜け、伐り場の開けた斜面が見えた。

 切り株が並び、伐られた木の匂いが生々しい。新しい木の匂いは血に似ている。まだ温かい匂い。


 ここだ。


 ユイは息を整えながら、合図の場所──倒木の根元へ向かった。

 根元には、黒い糸が一本、結び目を作って垂れている。


 結び目。

 合図は生きていた。


 ユイは胸の内側が少し軽くなるのを感じた。軽さは油断に変わる。油断は刃より危険だ。


「……黒鴉の?」


 背後から声がした。

 若くも老いてもいない声。男か女か分からない声。声は人の輪郭を持たない。


 ユイは振り返らない。振り返らないのが約束だ。

 約束を守る者ほど、殺されることもある。


「荷を渡します」


 ユイは答えた。声が震えないように。震えた声は、相手に()()を渡す。


「置け」


 短い命令。

 短い命令は、従わせる。


 ユイは倒木の上に書板を置いた。革紐の結び目がほどけないように指で押さえる。押さえる指先が冷たい。冷たい指先は、掴み続ける癖を持っている。


「中身は」


 声が問う。

 問う声には、興味がない。確認だけがある。


「……王都の儀式の記録です。折れた音。影の──」


 言いかけて、ユイは口を閉じた。

 言葉にしたくない。言葉にすれば、世界がそれを()()として認める。認めた瞬間、殺す理由になる。


 相手が笑った気配がした。

 笑い声は出ない。笑い声が出ない笑いは、刃だ。


「分かった」


 次の瞬間、ユイの背中に冷たいものが触れた。


 刃ではない。

 硬い棒のような──短い槍の柄のようなもの。


 ユイの身体が、まず理解した。

 理解の後に、痛みが来る。


 肋の下から、鈍い熱が広がった。

 熱は痛みだ。痛みは赤を呼ぶ。赤は匂いを呼ぶ。


 ユイは膝が崩れるのを止められなかった。

 倒木に手をつく。手のひらが樹皮に擦れ、皮がめくれる。皮がめくれる痛みより、腹の奥の熱の方が重い。


「……な……」


 声が出そうになる。

 出た声は、命乞いに似る。命乞いは人間の最後の祈りだ。


 背後の無名の声が、淡々と言った。


「盗賊がいる。ここは危ない。

 お前は運が悪かった」


 言葉が整いすぎていた。

 整いすぎた言葉は、準備された言葉だ。


 ユイは息を吸おうとした。

 吸った瞬間、喉に鉄の匂いが上がってきた。

 口の中に温かい液体が溜まり、唇の端から垂れる。血は、いつも自分の体温を持っている。体温を持っているから、現実だ。


 現実が、口からこぼれる。


「……どうして」


 ユイはようやく言った。

 問いは答えを求めるものではない。

 問いは、()()を求める最後の癖だ。


 無名の声は答えない。

 答えない代わりに、倒木の上の書板を手に取った。


 革紐が擦れる音。

 紙が擦れる音。

 観測の音。


 ユイはその音を聞きながら、奇妙な安心に触れた。

 奪われた。奪われたなら、内容は外へ出るかもしれない。

 外へ出るなら、無駄死にではないかもしれない。


 ──その希望が、最後に残った。


 無名の声が小さく息を吐いた。


「お前は、よく見すぎた」


 その言葉は、褒め言葉に似ていた。

 褒め言葉に似ているから、残酷だった。


 ユイの視界が白く滲んだ。

 朝の光が眩しい。眩しさは痛みに似ている。

 痛みは遠のき、代わりに冷たさが増える。


 冷たさが増えると、世界は静かになる。

 静かになると、鈴の音が聞こえる気がした。


 よく鳴る音。正しい音。

 その終わり際で、確かに折れる音。


 折れた音だけが、最後まで消えなかった。


 ユイは倒木の影の中で、ゆっくり息を吐いた。

 吐いた息が白い。白い息は、空へ消える。

 消えるものは、記録に残らない。


 ──残るのは、別の記録だけだ。


 数刻後、伐り場を巡回していた村人が、血だまりの中の死体を見つける。

 村人は叫び、衛兵が来て、赤刀衆が来る。


 赤刀衆ではない。赤刀衆はまだ動いていない。

 そう書かれる。

 ま()()していないから。


「盗賊だな」


 誰かが言う。

 盗賊。便利な言葉。

 便利な言葉は、戦争の前にいつも増える。


「荷は?」


「金目のものはない。若い女だ。……可哀想に」


 可哀想に、という言葉が落ちる。

 落ちた言葉は、拾われない。拾われなければ、慰めになる。


 慰めになれば、次へ進める。


 死体は運ばれる。

 名は呼ばれない。

 記録にはこう書かれる。


 ──黒鴉家観測兵一名、盗賊被害により死亡。事故。


 事故。

 事故なら、誰も責任を取らない。

 責任がなければ、正義は揺れない。


 揺れない正義の下で、戦争は静かに進む。


 剣を交える前から。

 旗を掲げる前から。

 火を上げる前から。


 血は、もう流れている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ