第四章第三話 異端は、外にいる
開戦前夜の王都は、静かすぎた。
露店の灯りは増えた。鈴は新調され、香は濃く、笑い声は「続いている」ことになっている。だが、笑い声の隙間に入ってくるのは、風の音ではない。人が息を止める音だ。息を止めるほど、匂いは濃くなる。濃くなる匂いは、甘い香の下から、じわじわと別の匂いを押し上げる。
鉄の匂い。
火より先に来る、血の匂い。
祈殿の奥──観客席から見えない回廊を抜けたところに、白巫家の円室がある。壁は白い漆喰。床は白い石。灯明は規定通りの数。規定通りのものは、失敗しない。失敗しないように数えられているからだ。
円室の中央には円壇。円壇の周囲に座がある。座は高低があり、順番がある。順番は神意だ。順番がある限り、正しさは形を保つ。
上位神官アキラは、円壇の最も高い座に座っていた。女性の指は細く、だが爪の先が白い。力を入れている。力を入れたところで、決まっていることは変わらない。変わらないからこそ、力が必要になる。
長老カンエンが、穏やかな目でアキラを見た。穏やかな目は、刃を隠す。
「王都は落ち着いたか」
穏やかな問い。答えが決まっている問い。
アキラは穏やかに頷く。
「落ち着かせました」
落ち着いた、ではなく、落ち着かせた。
言い換えは世界を揃える。揃えれば、正しい。
円壇の端、文官長のミツルが書板の束を抱えている。紙の角が指に食い込み、指先が赤い。赤い指は血に似ている。血に似た赤は、祈殿では嫌われる。嫌われる色ほど、仕事が回ってくる。
「報告を」
アキラが言うと、ミツルは書板を差し出した。差し出す手が震える。震えは寒さのせいにできる。寒さは外のせいにできる。外のせいにできるなら、内側は正しい。
「南門の騒乱は沈静化。処罰は完了。目撃者は散らし、記録は整えました」
整えました。
整えるという動詞が、この家の宗教だ。
「神意が壊れているという言葉は?」
別の神官が問う。声は乾いている。乾いた声ほど、恐れている。
ミツルは即答する。
「禁句として通達。口にした者は異端。異端は処置対象と明文化しました」
明文化。
紙に書けば現実になる。紙は血より強い。血は拭けるが、紙は残る。残る紙が次の血を呼ぶ。
アキラは頷いた。頷きは同意ではなく、命令の完了だ。
「よろしい。次」
次。
次があるということは、火種がまだ生きているということだ。
円室の空気は薄い。薄いのに重い。重い空気は、人が言葉を慎重に選ぶからだ。慎重に選ぶ言葉ほど、刃が研がれる。
神官の一人が、黒い封蝋の手紙を取り出した。封蝋には黒い羽の印。黒鴉家。
「黒鴉家より。王都の騒乱について観測報告が届いております」
観測。
その言葉だけで、円室の空気が一段沈む。沈みは怒りに似る。怒りに似る沈みは、正義の準備だ。
アキラは手紙を受け取らない。受け取れば、手紙が対等なものになる。
対等は許されない。
「読み上げなさい」
命令は距離だ。距離があれば秩序が保てる。
神官が封を切り、淡々と読み上げる。
「──王都にて神託の反応に物理的矛盾を確認。鈴音の不連続、影の遅延、巫女の生体反応の一致。これは器の個体差では説明できず……」
そこまで読まれた瞬間、別の神官が笑った。笑いは短く、乾いていた。
「死体の向きに続いて、今度は影ですか」
軽蔑は、恐怖の裏返しだ。恐怖があるから嘲笑が必要になる。
長老カンエンが穏やかに手を上げた。笑いが止まる。穏やかな手は、全員の呼吸を止める。
「彼らは、疑うのだな」
疑う。
白巫家において、疑うは病だ。病は切除される。
アキラは手紙に視線だけを落とし、言った。
「疑うのではありません。彼らは作るのです。疑問を」
疑問を作る。
作られた疑問は、民の口に乗る。口に乗った疑問は、祈りより強い感染になる。
「彼らは何を望む」
カンエンが問う。
望みを言わせることで、望みを罪にできる。
アキラは答える。
「正しさの座を、こちらから奪うことです」
奪う。
奪い合い。
玉座の匂いが、円室にも届く。
王族から派遣された使者──若い公卿が円室に控えていた。外の世界の匂いを纏う男だ。外の匂いは甘い香の中では異物になる。異物は目立つ。目立つ異物は、利用される。
「王は不安を抱いておられる」
公卿は言う。声は丁寧だ。丁寧さは、恐怖の包帯だ。
「黒鴉家が神意の破綻を口にしていること自体が、王都の正統を揺らがせる。揺らげば、諸侯が動く」
諸侯が動く。
動く前に、止める。止めるために、先に動く。
アキラは静かに頷いた。
「正統が揺らいだのではありません。揺らがせようとする者がいるだけです」
自分たちは正しい。
揺らぐのは外。
外を切れば、内は守られる。
理屈は美しい。美しい理屈は血を薄く見せる。
「黒鴉家の領内で、民が異様な噂を共有しているとの報せも」
別の神官が言う。
「『鈴が折れた』『影が遅れた』『巫女が燃えた』──そうした言葉が、酒場で」
酒場。
民が言葉を持つ場所。
民が言葉を持つと、秩序が崩れる。
アキラの爪が、膝の上で白くなる。
「言葉は、刃になります」
アキラは言った。
刃になる前に、刃の持ち主を決める。
決めた刃が、次の刃を奪う。
カンエンが穏やかに言う。
「敵が必要だな」
必要。
その単語が円室に落ちた瞬間、誰も否定しない。否定しないことで、必要は必然になる。
「敵を作れば、民は揃う」
神官の一人が言う。
揃う。揃える。揃えるための犠牲。
犠牲は、外に出す。外に出せば、内は清浄だ。
公卿が慎重に言葉を選ぶ。
「王は、討伐の名分を求めておられる。
ただの領地争いでは、諸侯が割れます。宗教の名が必要だ」
宗教の名。
神意を旗にすれば、血は聖なるものになる。聖なる血は、汚れにならない。
アキラが目を閉じた。
閉じた目の裏に、あの時の祈殿が映る。折れた音。遅れた影。泡の赤。
それらを器の問題にしたまま、次へ進む。
進めば、戻れない。
戻れないことが、正しさになる。
アキラは目を開け、言った。
「黒鴉家を──異端と定めます」
円室の空気が、わずかに軽くなる。
軽くなるのは、決まったからだ。決まれば、人は迷わない。迷わなければ罪は薄い。
ミツルが書板を取り落としそうになり、慌てて抱え直した。紙の角が指に食い込み、赤が濃くなる。赤は濃いほど血に似る。血に似るほど現実だ。
「文言を」
アキラが命じる。
「『神意の破綻を流布し、王都の正統を揺らがせ、民を扇動した異端勢力』
──それが黒鴉家です」
定義。
定義されれば、敵は敵になる。敵になれば、殺しても正義だ。
カンエンが、穏やかに念を押す。
「黒鴉家は古い。功もある」
功がある、という言葉は、殺す前の礼儀だ。礼儀があると、殺しが整う。
アキラは頷く。
「功は認めます。だからこそ、危険です。
正しさに見える異端は、民を割る」
割る。
割れるのは、玉座の下の床だ。割れ目から血が流れる。
公卿が静かに言った。
「宣言の後、王都は軍を動かします。
赤刀衆を先遣に。諸侯には自衛として動員を促す」
自衛。
攻めるための言葉。
守るために攻める。攻めるほど守れる。守れるほど正しい。
正しいから、血が必要になる。
ミツルが小さく唇を開いた。
「……記録は、どう残しますか」
記録。
残すことが、未来を作る。
アキラは迷いなく答えた。
「残すのは宣言だけ。
迷いは残さない。折れた音も、遅れた影も、巫女の赤も」
ミツルの顔色が落ちる。
落ちた顔色は、すぐに取り繕われる。取り繕える者が生き残る。
「はい」
その返事が、戦争の始まりの音だった。
円室を出ると、回廊は冷えた。冷えた空気は、香の甘さを削る。削られた甘さの下で、鉄の匂いが濃くなる。
祈殿の外、王都の夜が黒い。黒い夜は火を欲しがる。火が欲しければ、薪が要る。薪は人だ。
アキラは立ち止まり、灯明の揺れを見た。
揺れは小さい。小さい揺れは、見なければ存在しない。
見ないふりをするのは技術だ。
技術は、国を守る。
アキラは誰にも聞こえない声で言った。
「異端は、外にいる」
言葉を置けば、世界は揃う。
揃った世界の外側で、誰かが死ぬ。
祈殿の奥で、新しい鈴が鳴った。
よく鳴る音。正しい音。
その終わり際で、確かに音が折れた。
誰もそれを口にしない。
口にしなければ、折れは存在しない。
存在しない折れの上に、宣戦布告が書かれていく。
火より先に、血の匂いが広がっていった。




