表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/35

第四章第三話 異端は、外にいる


 開戦前夜の王都は、静かすぎた。


 露店の灯りは増えた。鈴は新調され、香は濃く、笑い声は「続いている」ことになっている。だが、笑い声の隙間に入ってくるのは、風の音ではない。人が息を止める音だ。息を止めるほど、匂いは濃くなる。濃くなる匂いは、甘い香の下から、じわじわと別の匂いを押し上げる。


 鉄の匂い。

 火より先に来る、血の匂い。


 祈殿の奥──観客席から見えない回廊を抜けたところに、白巫家の円室がある。壁は白い漆喰。床は白い石。灯明は規定通りの数。規定通りのものは、失敗しない。失敗しないように数えられているからだ。


 円室の中央には円壇。円壇の周囲に座がある。座は高低があり、順番がある。順番は神意だ。順番がある限り、正しさは形を保つ。


 上位神官アキラは、円壇の最も高い座に座っていた。女性の指は細く、だが爪の先が白い。力を入れている。力を入れたところで、決まっていることは変わらない。変わらないからこそ、力が必要になる。


 長老カンエンが、穏やかな目でアキラを見た。穏やかな目は、刃を隠す。


「王都は落ち着いたか」


 穏やかな問い。答えが決まっている問い。


 アキラは穏やかに頷く。


「落ち着かせました」


 落ち着いた、ではなく、落ち着かせた。

 言い換えは世界を揃える。揃えれば、正しい。


 円壇の端、文官長のミツルが書板の束を抱えている。紙の角が指に食い込み、指先が赤い。赤い指は血に似ている。血に似た赤は、祈殿では嫌われる。嫌われる色ほど、仕事が回ってくる。


「報告を」


 アキラが言うと、ミツルは書板を差し出した。差し出す手が震える。震えは寒さのせいにできる。寒さは外のせいにできる。外のせいにできるなら、内側は正しい。


「南門の騒乱は沈静化。処罰は完了。目撃者は散らし、記録は整えました」


 整えました。

 整えるという動詞が、この家の宗教だ。


()()()()()()()()という言葉は?」


 別の神官が問う。声は乾いている。乾いた声ほど、恐れている。


 ミツルは即答する。


「禁句として通達。口にした者は異端。異端は処置対象と明文化しました」


 明文化。

 紙に書けば現実になる。紙は血より強い。血は拭けるが、紙は残る。残る紙が次の血を呼ぶ。


 アキラは頷いた。頷きは同意ではなく、命令の完了だ。


「よろしい。次」


 次。

 次があるということは、火種がまだ生きているということだ。


 円室の空気は薄い。薄いのに重い。重い空気は、人が言葉を慎重に選ぶからだ。慎重に選ぶ言葉ほど、刃が研がれる。


 神官の一人が、黒い封蝋の手紙を取り出した。封蝋には黒い羽の印。黒鴉家。


「黒鴉家より。王都の騒乱について()()()()が届いております」


 観測。

 その言葉だけで、円室の空気が一段沈む。沈みは怒りに似る。怒りに似る沈みは、正義の準備だ。


 アキラは手紙を受け取らない。受け取れば、手紙が()()()()()になる。

 対等は許されない。


「読み上げなさい」


 命令は距離だ。距離があれば秩序が保てる。


 神官が封を切り、淡々と読み上げる。


「──王都にて神託の反応に物理的矛盾を確認。鈴音の不連続、影の遅延、巫女の生体反応の一致。これは器の個体差では説明できず……」


 そこまで読まれた瞬間、別の神官が笑った。笑いは短く、乾いていた。


「死体の向きに続いて、今度は影ですか」


 軽蔑は、恐怖の裏返しだ。恐怖があるから嘲笑が必要になる。


 長老カンエンが穏やかに手を上げた。笑いが止まる。穏やかな手は、全員の呼吸を止める。


「彼らは、疑うのだな」


 疑う。

 白巫家において、疑うは病だ。病は切除される。


 アキラは手紙に視線だけを落とし、言った。


「疑うのではありません。彼らは()()のです。疑問を」


 疑問を作る。

 作られた疑問は、民の口に乗る。口に乗った疑問は、祈りより強い感染になる。


「彼らは何を望む」


 カンエンが問う。

 望みを言わせることで、望みを罪にできる。


 アキラは答える。


「正しさの座を、こちらから奪うことです」


 奪う。

 奪い合い。

 玉座の匂いが、円室にも届く。


 王族から派遣された使者──若い公卿が円室に控えていた。外の世界の匂いを纏う男だ。外の匂いは甘い香の中では異物になる。異物は目立つ。目立つ異物は、利用される。


「王は不安を抱いておられる」


 公卿は言う。声は丁寧だ。丁寧さは、恐怖の包帯だ。


「黒鴉家が()()()()()を口にしていること自体が、王都の正統を揺らがせる。揺らげば、諸侯が動く」


 諸侯が動く。

 動く前に、止める。止めるために、先に動く。


 アキラは静かに頷いた。


「正統が揺らいだのではありません。揺らがせようとする者がいるだけです」


 自分たちは正しい。

 揺らぐのは外。

 外を切れば、内は守られる。


 理屈は美しい。美しい理屈は血を薄く見せる。


「黒鴉家の領内で、民が異様な噂を共有しているとの報せも」


 別の神官が言う。


「『鈴が折れた』『影が遅れた』『巫女が燃えた』──そうした言葉が、酒場で」


 酒場。

 民が言葉を持つ場所。

 民が言葉を持つと、秩序が崩れる。


 アキラの爪が、膝の上で白くなる。


「言葉は、刃になります」


 アキラは言った。

 刃になる前に、刃の持ち主を決める。

 決めた刃が、次の刃を奪う。


 カンエンが穏やかに言う。


「敵が必要だな」


 必要。

 その単語が円室に落ちた瞬間、誰も否定しない。否定しないことで、必要は必然になる。


「敵を作れば、民は揃う」


 神官の一人が言う。

 揃う。揃える。揃えるための犠牲。

 犠牲は、外に出す。外に出せば、内は清浄だ。


 公卿が慎重に言葉を選ぶ。


「王は、討伐の名分を求めておられる。

 ただの領地争いでは、諸侯が割れます。宗教の名が必要だ」


 宗教の名。

 神意を旗にすれば、血は聖なるものになる。聖なる血は、汚れにならない。


 アキラが目を閉じた。

 閉じた目の裏に、あの時の祈殿が映る。折れた音。遅れた影。泡の赤。

 それらを()()()()にしたまま、次へ進む。


 進めば、戻れない。

 戻れないことが、正しさになる。


 アキラは目を開け、言った。


「黒鴉家を──異端と定めます」


 円室の空気が、わずかに軽くなる。

 軽くなるのは、決まったからだ。決まれば、人は迷わない。迷わなければ罪は薄い。


 ミツルが書板を取り落としそうになり、慌てて抱え直した。紙の角が指に食い込み、赤が濃くなる。赤は濃いほど血に似る。血に似るほど現実だ。


「文言を」


 アキラが命じる。


「『神意の破綻を流布し、王都の正統を揺らがせ、民を扇動した異端勢力』

 ──それが黒鴉家です」


 定義。

 定義されれば、敵は敵になる。敵になれば、殺しても正義だ。


 カンエンが、穏やかに念を押す。


「黒鴉家は古い。功もある」


 功がある、という言葉は、殺す前の礼儀だ。礼儀があると、殺しが整う。


 アキラは頷く。


「功は認めます。だからこそ、危険です。

 ()()()に見える異端は、民を割る」


 割る。

 割れるのは、玉座の下の床だ。割れ目から血が流れる。


 公卿が静かに言った。


「宣言の後、王都は軍を動かします。

 赤刀衆を先遣に。諸侯には()()として動員を促す」


 自衛。

 攻めるための言葉。

 守るために攻める。攻めるほど守れる。守れるほど正しい。

 正しいから、血が必要になる。


 ミツルが小さく唇を開いた。


「……記録は、どう残しますか」


 記録。

 残すことが、未来を作る。


 アキラは迷いなく答えた。


「残すのは()()だけ。

 迷いは残さない。折れた音も、遅れた影も、巫女の赤も」


 ミツルの顔色が落ちる。

 落ちた顔色は、すぐに取り繕われる。取り繕える者が生き残る。


「はい」


 その返事が、戦争の始まりの音だった。


 円室を出ると、回廊は冷えた。冷えた空気は、香の甘さを削る。削られた甘さの下で、鉄の匂いが濃くなる。

 祈殿の外、王都の夜が黒い。黒い夜は火を欲しがる。火が欲しければ、薪が要る。薪は人だ。


 アキラは立ち止まり、灯明の揺れを見た。

 揺れは小さい。小さい揺れは、見なければ存在しない。


 見ないふりをするのは技術だ。

 技術は、国を守る。


 アキラは誰にも聞こえない声で言った。


「異端は、外にいる」


 言葉を置けば、世界は揃う。

 揃った世界の外側で、誰かが死ぬ。


 祈殿の奥で、新しい鈴が鳴った。

 よく鳴る音。正しい音。


 その終わり際で、確かに音が折れた。


 誰もそれを口にしない。

 口にしなければ、折れは存在しない。

 存在しない折れの上に、宣戦布告が書かれていく。


 火より先に、血の匂いが広がっていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ