第一章第三話 祈る資格
祈ることは、誰にでも許されている──と、外の人は言う。
白巫の里では違う。
祈りは自由ではない。祈りは職務で、資格で、配属で、そして──統治の部品だ。
診殿を出た私に、侍女が一人ついた。白い衣ではない。灰色の衣。白に触れないよう、白を汚さないように働く者の色だ。
「こちらです」
声は丁寧で、目は私を見ない。見ないのではなく、見てはいけないものとして扱っている。さっきまで私は巫女だった。いま私は、まだ巫女のふりをしているだけの何かになった。
廊下を曲がると、空気が変わった。
祈殿に近づくにつれて、香の匂いが増える。甘さが増える。甘さは喉の奥を塞ぐ。私の身体は、甘さを神意に近いと覚えている。覚えているせいで、勝手に息が浅くなる。
──それは、異常だと判定された。
異常。
異常という言葉は便利だ。誰かを外へ押し出すのに、説明が要らない。異常なら、そういうものだ。異常なら、排除しても正しい。
祈殿の前に着くと、侍女は足を止めた。
境界線がある。見えない線。白と灰の線。
「ここから先は……」
侍女が言いかけて、言葉を飲み込む。言葉にすると現実になることを、この里の人間はよく知っている。
私が一歩踏み出そうとすると、背後から硬い声が刺さった。
「止まりなさい」
神官だった。下位の神官。昨日までなら、私は頭を下げて従っただろう。今日も頭は下がる。体が覚えている。だが、胸の奥で何かが動く。遅れて動く影のように。
「白巫ミサキ。今日より祈殿への入室を禁ずる」
禁ずる。
その二文字が、体温を奪った。
「……判定は、後日では」
私の口が勝手に動いた。声は小さく、丁寧で、反抗には聞こえないように整えてある。だからこそ、なおさら不敬だ。疑問は疑問であるだけで罪になる。
神官は眉一つ動かさない。
「判定の場を乱すな。暫定措置だ」
暫定。
暫定という言葉は、いつも永遠の前置きになる。
「あなたは器として不適。祈りの場に置くべきではない」
祈りの場に置くべきではない。
それは祈る資格がないと言っているのと同じだ。
私は、はい、と答えた。
答えてしまう自分が憎い、とは思わない。憎む対象を持つのは、まだ贅沢だ。贅沢は、巫女には許されない。
神官は、私の肩の辺りを一瞥し、続けた。
「控え室へ。おとなしく待て」
侍女が、私を促す。
控え室という名の隔離だ。
私は歩きながら、祈殿の扉を見た。
扉の向こうには、白がある。白く正しい空間。そこに入れない、という事実は、祈りを奪われたというより、呼吸を奪われた感覚に似ていた。
──でも。
扉から離れていくにつれて、私は気づいてしまった。
息が、深くなる。
喉が開く。
胸が広がる。
さっきまで神意に近い冷えで固まっていた背中が、少しだけほどける。ほどけた瞬間、泣きたくなる。泣きたいのに、泣けない。泣くことは、誰かに見つかることだ。見つかれば、また正しく処理される。
控え室は狭かった。
白い畳。白い障子。白い湯呑み。ここも白だ。ただし祈殿の白と違って、ここは人が捨てやすい白だった。汚れても交換できる白。壊れても作り直せる白。
座るよう指示され、私は膝をつく。
正座は祈りの姿勢に似ている。似ているだけで、祈りではない。祈りに似た形を強制されることは、祈りを奪われた者にとって、ひどく残酷だと初めて思った。
(思った……?)
私は、自分の胸の内に驚く。
残酷だ、という評価は、神意を疑う一歩手前だ。評価は人の心がする。白巫の教えでは、人の心は常に揺らぐ。揺らぐ心で評価してはいけない。
でも、私は評価してしまった。
控え室の障子越しに、祈殿の鈴が鳴る。
祝詞が聞こえる。
巫女の声が、遠い。
遠いはずなのに、耳に残る。
祈殿の音は、いつもより刺さった。刺さって、痛くて、それでも──どこかで懐かしい。
私は幼い頃、祈殿の裏で泣いたことがある。
まだ巫女になる前。訓練を受ける前。白を着る前。
泣いた理由は覚えていない。
覚えていないのに、泣いた事実だけが残っている。白巫家では、泣いた理由より、泣いたという行為のほうが重要だからだ。泣く子は器が揺れる。揺れる器は神意を歪める。歪める器は──選ばれない。
「泣いている暇があるなら、祈りなさい」
当時の上位巫女はそう言った。
祈りなさい、と。
私は祈り方を知らなかった。
知らないと言うと叱られるから、黙った。黙ると「従順だ」と褒められた。
従順。
従順は、才能だった。
私は疑うという言葉を、ずっと遅れて知った。
それも、教えとしてではない。禁忌としてだ。
疑うな。
問うな。
名を呼ぶな。
記憶するな。
それらは全部、同じ種類の言葉だった。
世界を揺らがせる言葉。
祈殿の音が、ふっと途切れる。
いや、途切れたように聞こえただけだ。障子が風で鳴っただけだ。私は自分にそう言い聞かせる。そうする癖がある。癖があるせいで、異常を異常として報告しない。報告しないから、制度は壊れない。壊れないから、私は今日までここにいられた。
──でも、壊れ始めたのは私の器だろうか。
それとも、制度の方だろうか。
障子の向こうで、足音が止まる。
控え室の前に誰かが立った気配。私の背筋が勝手に伸びる。背筋が伸びるのは祈りの姿勢に似ている。似ているだけで、祈りではない。
障子が開く。
灰色の侍女が、目を伏せたまま告げた。
「本日より、あなたの祈務は停止されます」
祈務。
祈りが職務であることを、改めて突きつける言葉。
「停止期間は、判定が下るまで」
やはり暫定だ。
暫定は永遠の前置き。
私は、はい、と答えた。
答えながら、胸の奥がひやりとする。冷えが内側から触れてくる。診殿で感じた冷えと同じだ。祈殿から離れて息が楽になったのに、冷えはまだ私の中に残っている。残っているという事実が、私の中でまた小さな怒りを作る。
怒りは、祈りではない。
怒りは、資格ではない。
侍女が続けた。
「控え室からの外出は、許可が必要です」
「……監視、ということですか」
言ってしまった。
言葉が口から落ちた。拾えない。
侍女は何も答えない。答えないという形で答える。
答えが沈黙である限り、責任の所在は曖昧になる。曖昧になれば、世界は揺らがない──そう信じている人間の沈黙だ。
私は障子を閉める音を聞いた。
閉められた、と思うより先に、息が深くなった。ああ、と私は思う。閉められたのに、私は楽になっている。閉められたほうが、呼吸がしやすい。
それがどれほど不敬か、私は知っている。
知っているのに、体が先に正直だ。
私は自分の手のひらを見た。
指先の震えはない。診殿で痺れた場所だけが、まだ微かに熱い。冷えではなく、熱。火傷の手前のような、薄い熱。
祈殿の方向を見ないようにして、私は目を閉じた。
空っぽになる。
空っぽになれば、神意が降りる──はずだった。
でも、今日の空っぽは違う。
空っぽにすると、私は私のまま残ってしまう。
残ってしまうことが、怖い。
巫女は、器であるべきだ。
器は自我を持たない。
自我を持てば、揺らぐ。
揺らいだ器は、捨てられる。
私は、捨てられる準備をしているのだろうか。
それとも、捨てられたくない準備をしているのだろうか。
障子の向こうで、祈殿の鈴がまた鳴った。
今度は途切れない。途切れないはずだ。途切れたら困る。途切れたら、世界が揺らぐ。揺らげば、白巫家は困る。
私は小さく笑いそうになった。
笑いは、泣くより不敬だ。
なのに、胸の奥で確信が形になる。
祈る資格を奪われたのは、罰ではない。
都合だ。
都合が悪くなった器は、外す。
外した器が外で何を見て、何を感じて、何を言うか。白巫家は、それを一番嫌う。
だから、監視する。
だから、閉じ込める。
だから、暫定という名の永遠を与える。
私は、目を開けた。
障子の隙間から差し込む光が、畳に細い線を引いている。
その線は白い。祈殿の白と同じ色なのに、ここではただの光だ。神意ではない。ただの現象だ。
ただの現象が、少しだけ美しいと思った。
美しいと思った瞬間、また胸が痛む。痛みが遅れて来る。遅れて来る痛みは、私の心が遅れている証拠みたいで、腹立たしい。
外では、誰かが私の名を呼んだ。
呼び方が丁寧すぎる。呼ばれ方が、処理の匂いをしている。
「白巫ミサキ。判定の準備です」
来た。
私は立ち上がった。
背筋が伸びる。足が震えない。顔が静かになる。巫女のふりが、まだできる。
できるうちに、終わるのだろう。
障子が開き、灰色の侍女が道を示す。
私は一歩踏み出す。
祈殿の白が、遠くで待っている。
もう入れない白。もう祈れない白。
それでも私は、そこへ向かう。
祈る資格を奪われた者が、祈りの名で裁かれるために。




