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第四章第二話 記録は、書き換えられる


 王都の朝は、紙の匂いから始まる。


 祈殿の香より先に、官房の廊に漂う墨と膠の匂いが鼻を刺す。まだ日が高くないのに、筆はもう走っている。紙は白い。白い紙は清浄だ。清浄なものに書かれた言葉は、汚れた現実より長く生きる。


 文官ユリは机に向かい、指先に残る黒を見下ろした。黒は落ちない。落ちない黒は、働いた証拠になる。証拠があれば、誰かが守ってくれる──そう教えられてきた。


 守ってくれるのは、神意ではない。制度だ。


「次の束だ」


 隣の机から、年嵩の文官が書板の束を滑らせてきた。書板は木だ。木は温かい。温かいのに、そこに書かれているのは冷たい数字と冷たい文言だった。


 ──南門騒乱。死者十七。負傷者多数。扇動者処刑三。


 紙に移された瞬間、十七は十七であり続ける。二十でも十五でもなく、十七になる。数字が確定すれば、誰もその場の匂いを覚えていなくても「十七」という形だけが残る。


 形が残れば、原因も作れる。


「王の御前へ上げる文を、昼までに整える」


 上席文官の声が廊に落ちた。落ちた声は、椅子に座る背を一斉に硬くさせる。硬い背は、正しい姿勢だ。正しい姿勢は、正しい文章を生む。


 ユリは筆を取った。手が震えた。震えは寒さのせいにする。寒さなら恥ではない。恥は筆先を鈍らせる。鈍った筆先は、誤字を生む。誤字は罪になる。


 罪になれば、捨て谷へ行く。


 捨て谷、という言葉が脳裏に浮かび、ユリは息を浅くした。思い出すことは危険だ。思い出すことで、存在してしまうものがある。


 扉が開いた。


 空気が一段薄くなる。香ではない圧だ。白巫家の圧。命令の圧。


 白い衣と、飾りの少ない装束。上位神官アキラが入ってきた。足音がしない。足音がしない者は、いつも一歩遅れてくる。遅れてくるのに、最初からここにいたように振る舞う。


「進捗は」


 アキラは穏やかに言った。穏やかな声ほど、断れない。


「……王へ上申する文案は、半分ほど」


 上席が答える。答えの語尾は揃っている。揃っている語尾は、正しい。


 アキラが頷いた。頷きは評価ではない。許可だ。


()()ではなく、()()に」


 穏やかな声で、言葉が置き換えられる。


 乱心。

 騒乱は群れの動きだが、乱心は個の病だ。個の病なら切り捨てられる。切り捨てれば、全体は健全のまま保てる。


「……乱心、ですか」


 上席文官が慎重に確認する。確認は抵抗ではない。確認は責任逃れだ。責任を避ける者ほど、生き残る。


「神意を疑う声が広がった、という表現は避けなさい」


 アキラは続ける。


「疑う声が広がった、は事実ではありません。

 広がったのは、扇動です。扇動は外部から来る。外部から来たなら、王都は正しい」


 正しい、という言葉が落ちた瞬間、廊の空気が静まった。静まりは同意の形だ。形ができれば、中身は後から詰められる。


 ユリは筆先を紙に落としながら、自分の喉が乾くのを感じた。


 昨日の南門で、倒れた巫女の白衣。

 赤い泡。

 少年の倒れる音。

 火の匂い。


 それらは、ここでは「乱心」と呼ばれる。


 呼ばれた瞬間に、名前は意味を変える。意味が変われば、出来事は別の出来事になる。


 記録とは、現実を写すものではない。

 現実を、作り替えるものだ。


()()の数は」


 アキラが問う。


 上席文官がためらいなく答える。


「十七」


 ユリの指が微かに止まった。十七。昨日、広場の隅で見た死体はもっと多かった気がする。だが()()()()は紙に書けない。紙に書けないものは、存在しない。


「十七、で良い」


 アキラは言った。


「多すぎれば王が怒る。少なすぎれば無能が露見する。

 十七は、適切だ」


 適切。

 数に適切があるということ。

 命に適切があるということ。


 ユリは筆を握る手に力が入った。力が入りすぎると筆が割れる。割れた筆は失敗だ。失敗は、書き換えられる側になる。


 それが怖くて、ユリは力を緩めた。


「次に」


 アキラが言う。


「処刑の記録。

 ()()()()という言葉は使わない。

 ()()に」


 浄化。

 火は浄化になる。刃も浄化になる。

 浄化と言えば、残酷さは清浄に塗り替えられる。


「罪状は」


 上席が問う。


「異端思想の流布。王都騒乱の扇動。神意の汚損。

 ──黒鴉家の影響、と匂わせなさい」


 匂わせる、という命令が出る。

 確定ではない。確定すると責任が生じる。

 匂わせるなら、後で都合よく変えられる。


 都合よく変えられるものが、政治だ。


 ユリの机に、別の束が置かれた。

 赤刀衆の行軍計画。封鎖区域。検問。拘束予定者の名簿。


 名簿には名前が並ぶ。

 名前が並ぶと、人は物になる。

 物になれば、配置できる。


 ユリは名簿の端に、見覚えのある名を見つけてしまった。

 近所の薬師の名。笑いながら飴をくれた人だ。


 ──扇動者協力の疑い。


 疑い、という便利な言葉。

 疑いは証拠が要らない。証拠が要らないものほど強い。


 ユリは視線を逸らした。逸らせば見ていない。見ていないなら、責任はない。責任がなければ生き残れる。


 生き残るために、紙は白いままでいなければならない。


「記録院の封印を」


 アキラが言う。


 上席が一瞬だけ顔色を変える。記録院の封印は、古い記録を触れなくする命令だ。触れられなければ、過去は動かない。動かない過去は、今に都合が良い形で固定される。


「……封印の理由は」


()()()調()()()()()


 アキラは即答した。即答は既に決まっている証拠だ。


「古い記録は埃を生む。埃は咳を生む。咳は声になる。

 声は疑問になる。疑問は不要です」


 不要、という言葉が廊に落ちた。

 不要と判定されたものが、どこへ行くか。

 ユリは思い出さないように、息を浅くした。


 アキラはユリの机の前で立ち止まった。

 ユリの筆先が、紙の上で小さく震えた。


「あなた」


 名を呼ばれる。呼ばれるということは、存在しているということだ。

 存在している者は、使える。


「昨夜の南門の件、あなたは何か見たか」


 穏やかな問い。

 穏やかな問いほど、逃げ場がない。


 ユリの脳裏に、赤い泡が浮かぶ。

 折れた鈴の音が、耳の奥で鳴る。


 だが、それを言葉にした瞬間、世界が別の形になる。

 世界が別の形になれば、自分はここに居られなくなる。


「……いいえ」


 ユリは言った。

 言った瞬間、自分の声が自分のものではない気がした。

 声が自分のものではないとき、人は組織の一部になる。


 アキラは頷いた。


「よろしい。見ていない者が、最も正しい」


 正しい、という言葉がユリの胸に刺さった。

 刺さる痛みは、香では溶けない。


 アキラが去り、扉が閉じる。

 閉じた扉の向こうで、誰かが深く息を吐いた。

 息を吐く音は、罪悪感の形だ。


 上席文官が手を叩いた。


「よし。作業を続ける。()()()は今日中に完成させる」


 正しさを完成させる。

 完成した正しさは、明日、民に配られる。


 配られた正しさは、民の口から繰り返される。

 繰り返しは祈りになる。

 祈りになれば、疑問は罪になる。


 ユリは筆を走らせた。


 ──昨日、南門で起きた乱心は、外部の扇動によるものであり、王都の正統は揺らがず──


 文字が並ぶ。並んだ文字は綺麗だ。綺麗な文字は、血の匂いを消す。

 消えた匂いの代わりに、紙の匂いが残る。


 紙の匂いは、長く残る。


 昼前、別室から運ばれてきた古い巻が焼却炉へ入れられた。

 焼却炉の火は小さい。小さい火ほど、静かに食べる。


 巻の端が燃え、文字が黒く縮む。

 縮んだ文字は読めなくなる。読めなくなれば、存在しなかったことになる。


 ユリは炉の前を通り過ぎながら、熱で乾いた空気を吸い込んだ。

 火の匂いが鼻を刺す。昨日嗅いだ火と同じ匂いだ。


 火は、浄化。

 火は、見せしめ。

 火は、記録の削除。


 ふと、炉の中で紙が爆ぜた。

 小さな音。折れたような音。

 鈴ではないのに、鈴の折れに似た音。


 ユリの背中に冷たいものが走った。


 ──折れた音は、消せない。


 消せないから、書き換える。

 書き換えるから、もっと火が要る。


 夕刻、王への上申文が整った。

 署名が入り、封がされ、蝋が固まる。固まった蝋は、決定の形だ。


 上席文官は満足そうに言った。


「これで王都は揺れない」


 ユリは頷けなかった。頷けば、揺れていたことを認めることになる。

 認めたくないから、代わりに筆を置いた。


 置いた筆の先から、黒い雫が一滴、紙に落ちた。


 黒は白に滲む。

 滲んだ黒は、すぐに拭われる。

 拭えば、なかったことになる。


 だが、滲んだ形だけは、一瞬だけ残った。

 影が遅れるように。


 ユリはその形を見て、胸の奥で誰にも聞こえない声を立てた。


 記録は、書き換えられる。

 書き換えられるからこそ、現実は何度でも作り直される。


 作り直されるたびに、火が要る。

 火が要るたびに、血が要る。


 王都の正しさは、今日も完成した。


 ──完成した正しさの下で、次の崩落が静かに育っていることを、紙だけが知っていた。


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