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第四章第一話 正義は、先に名乗った者のもの


 王都の冬は、香が重い。


 朝の空気は冷たいはずなのに、祈殿に近づくほど肺の内側がぬめる。甘い匂いが薄い膜になって、喉の奥を滑らせる。人の声が低くなるのは寒さのせいではない。香が、言葉の角を丸めるからだ。


 その日、祈殿の奥──観客席よりさらに奥──白巫家と王族だけが入れる「内廷」が開かれていた。


 床は白く磨かれ、灯明は規定より増やされている。増やされた灯明は影を薄くする。影が薄いと、遅れが見えにくい。見えにくければ、遅れは存在しない。


 円形の卓の中央に、小さな鈴が置かれていた。触れられていないのに、鈴はそこにあるだけで空気を緊張させる。鈴は音を鳴らす道具ではない。正しさの合図だ。合図がある限り、儀式は失敗しない。


 上位神官アキラは卓の端に立っていた。髪はまとめられ、袖は引きずらない。正しい身なり。正しい姿勢。正しい沈黙。沈黙は、言葉より強い。沈黙は場を支配する。


 王は玉座ではなく、卓の席に座っていた。玉座で語るのは宣言であり、卓で語るのは決定だ。決定は血を呼ぶ。血を呼ぶ決定は、香の中でしか行われない。


 王の右に王妃、左に第一王子。向かいに重臣たち。さらに外周に、白巫家の長老カンエン、調律官、文官、赤刀衆の指揮官が並ぶ。


 全員が、同じ方向を見ていた。


 ──外で流れた血を、どの言葉で包むか。


 最初に口を開いたのは、王妃だった。指先に小さな数珠。光る珠を撫でる動作がゆっくりで、丁寧で、優しい。優しさは、恐ろしい命令を支える。


「昨夜の南門の件。民の動揺は収まったと聞いております」


 王妃の声は柔らかい。柔らかい声は、反論しづらい。


 赤刀衆の指揮官が一歩前に出た。目は乾いている。乾いた目は、数を数える目だ。


「封鎖は拡大しました。昨夜からの逮捕者は七十六。口の軽い者を優先して隔離。遺体の回収と清掃も完了。噂は──」


「噂は?」


 王子がかぶせた。若い声は鋭い。鋭い声は、まだ香に溶けきっていない。


「『扇動者が裁かれた』が主です。『神意を侮った罰』も。……ただ、()()()()を聞いたという者が少数」


 折れた音。


 その単語が卓に落ちた瞬間、灯明の火が一つ、ひくりと揺れた。風はない。扉も閉じている。それでも揺れる火は、言葉に反応しているように見える。


 王妃が数珠を一度止めた。止まる動作は、決定の予告だ。


()()()()は、存在しません」


 ゆっくりと、断言。


 断言は現実を作る。現実が作られれば、聞いたという者が間違いになる。間違いが生まれれば、処理できる。


 王子が頷いた。頷きは同意ではなく、理解だ。理解とは、どの刃をどこに入れるかを知ること。


 アキラが、卓の上の書板を示した。白い紙。墨はまだ濃い。濃い墨は、現実より強い。


「昨夜の件は、()()()()として記録します。原因は、異端の流言」


 異端。便利な言葉。異端がいれば、正統は正しいままでいられる。


「異端は、どこにいる」


 王が問うた。問いは短い。短い問いほど、答えは一つしか許されない。


 アキラは迷わず言った。


「外に」


 外。祈殿の外。王都の外。国の外。境界の向こう。外に置けば、内は清浄になる。


 長老カンエンが穏やかに微笑んだ。穏やかな微笑みは、血の匂いを薄める。


「内に異端がいると言えば、王都そのものが揺らぐ。揺らぐのは、人の心だ。ならば心を揺らさぬ配置が要る」


 配置。白巫家の言葉は、いつも人を物に変える。


 文官が小さく咳払いし、紙束を差し出した。


「王都布告の文案です。『昨夜の騒乱は、黒鴉家の流言によるもの』と」


 黒鴉家。


 卓の空気が一段重くなる。重くなると、呼吸が浅くなる。浅い呼吸は思考を止める。止まった思考は、命令を飲み込みやすい。


 王子が口角を上げた。笑いではない。刃の抜き方を決めた顔だ。


「黒鴉は()()を信仰の上に置く。昔からだ。あいつらの口から出る『事実』は、民にとって毒になる」


 毒。毒なら解毒が要る。解毒は、敵を殺すことと同じだ。


 王妃が、ゆっくり頷いた。


「民は弱いのです。弱いから守る。守るためには、強い言葉が必要です」


 守るため。そこに全てが入る。殺すことも、燃やすことも、口を塞ぐことも、「守るため」になる。


 アキラが静かに続けた。


「黒鴉家には、追放巫女がいる可能性が高い。──ミサキ」


 その名を内廷で口にするのは、禁じ手に近い。名は記憶を呼ぶ。記憶は疑問を呼ぶ。疑問は香を割る。


 王子が目を細めた。


「追放巫女は、象徴になり得る。象徴は刃より厄介だ。刃は折れるが、象徴は増える」


 増える前に、摘む。摘む行為に必要なのは、正義だ。


 王が肘掛け代わりの卓を指で叩いた。小さな音。小さな音は、命令の前触れ。


「討伐を」


 その二文字で、内廷の空気が決まった。


 討伐。戦争の言い換え。言い換えれば、血は仕事になる。


 赤刀衆の指揮官が膝をついた。


「御意。まずは黒鴉領との往来を遮断し、商人を検分。噂の流路を断ちます」


 商人。噂の流路。誰も「翠弧」という名を口にしない。口にしなければ、いない。いないものは責任を取らない。


 カンエンが穏やかに言う。


「焦ってはならぬ。焦りは揺らぎだ。揺らぎは人の心」


 その言葉は、誰のための戒めか。赤刀衆のためか。王族のためか。白巫家のためか。──それとも、外にいる者たちのためか。


 アキラは、穏やかな声で答えた。


「焦っておりません」


 即答は焦りの証拠だ。だが誰もそれを指摘しない。指摘すれば、揺らぎが見えるからだ。


 王妃が数珠を撫で直す。珠が擦れる音が、鈴に似ていた。似ている音は、正しさに紛れる。


「民には、何を見せますか」


 王妃の問いは、血の問いだ。


 アキラは淡々と言った。


「秩序を」


 秩序。秩序は見せるものだ。見せるためには、舞台が要る。舞台には、役者が要る。


「見せしめを、続けますか」


 王子が問う。問う声には熱があった。熱は若さだ。若さは残酷さに近い。


 王が頷いた。


「続ける。火は消すな。火が消えれば、人は暗闇で考える」


 考える民は危険だ。考える民は、神意の外側を見る。


 文官がペンを走らせる。文字は滑らかに並び、滑らかな文字は真実に見える。真実に見えるものは、真実になる。


 アキラは書板を閉じ、別の板を差し出した。そこには儀式の再編が書かれている。鈴の種類、香の銘柄、巫女の配置、観客席の増設。増設。増設。増設。


「次の儀式は、予定通り行います。むしろ──より大きく」


 より大きくすれば、折れた音は大勢の中に紛れる。紛れれば、折れは個体のせいになる。個体のせいにできれば、神意は正しい。


 王妃が小さく息を吐いた。


「神意は、失敗しないのですね」


 問いではなく確認。確認は祈りに似ている。祈りに似ている言葉は、反復される。反復は信仰になる。


 アキラが頷く。頷きは命令の完了。


「失敗するのは、人だけです」


 その瞬間、卓の中央の鈴が、微かに鳴った気がした。


 誰も触れていない。

 風もない。

 なのに、音が出た。


 全員が一拍だけ黙った。


 一拍。沈黙。


 沈黙は、言葉よりも多くを語る。

 語るが、記録には残らない。

 残らない沈黙は、なかったことにできる。


 王子が、わざとらしく咳払いをした。咳払いは沈黙を割る道具だ。割れれば、空気はまた揃う。


「では、黒鴉家に問うべきは一つだ」


 王子は言った。


「神意に従うか。従わぬか」


 従うか。従わぬか。二択は人を救う。救うのは思考からだ。思考がなければ、刃は入りやすい。


 王が立ち上がった。

 立ち上がるだけで、正統が立ち上がる。

 立ち上がった正統は、座る場所を守るために動く。


「布告を出せ。軍を動かせ。香を濃くしろ」


 命令が連なる。連なる命令は、もう止まらない。


 内廷が閉じられる。

 扉が閉じると、香は外へ漏れない。漏れない香は、内側の決定を清浄に保つ。清浄な決定は、血を汚れと呼ぶ。


 アキラは最後に卓の鈴を見た。

 鈴は沈黙している。沈黙は成功の証だ。


 だが、沈黙が続くほど、折れた音は耳の奥に残る。


 アキラは誰にも聞こえない声で言った。


「正義は……先に名乗った者のもの」


 祈りのように。

 言い聞かせるように。

 命令するように。


 その言葉が終わった瞬間、灯明の影が一拍遅れて揺れた。

 誰もそれを口にしない。


 口にしなければ、世界は正しいままでいられる。

 ──そう信じる者から、先に戦争を始める


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