第三章第十話 火は、誰のために
火は、暖を取るためにある。
夜を照らすためにある。
祭りを祝うためにある。
──そして、見せしめのためにもある。
王都南門の広場には、朝のうちから赤い線が残っていた。
石畳の隙間に入り込んだ血は拭っても抜けない。抜けないものは隠すしかない。隠すには、上書きする。上書きするには、火が要る。
露店の布が張り直される。
笑い声が演じられる。
香は濃くされ、鈴の音は長くされ、拍は詰められる。
間がなくなれば、疑問が入らない。
疑問が入らなければ、昨日の血は「事故」になる。
事故になれば、正統は揺れない。
だが、揺れないはずの王都は、目に見えない揺れを抱えていた。
人の歩幅が微妙に速い。視線が合わない。子どもが泣き止まない。犬が吠える。
小さな揺れは、大きな揺れの前触れだ。
赤刀衆の隊列が広場を横切る。
隊列は昨日より一段厚い。昨日より槍が多い。
槍が多いのは安心のためではない。安心を作るためだ。
隊列の中央、焔の知る顔がいくつか混じっていた。
赤刀衆は、昔の焔の仲間を狩った手でもある。
同じ刃が、いまは王都の民を脅す。
焔は路地の暗がりで拳を握りしめた。
握りしめた拳が震えるのを、ミサキは黙って見ていた。
「行くな」
ミサキが低く言う。
言葉は命令ではない。願いだ。願いは弱い。弱いから、届かない。
「……見せしめが始まる」
焔が唇を噛む。
噛む痛みで、怒りを現実につなぎ止める。怒りはすぐ刃になる。
「昨日のことを誰かのせいにする。そうしないと、あいつらは正統を守れない」
正統。
その言葉は、昨日の血の匂いより重い。
広場の中央に、柱が立てられていた。
祭りの飾り柱──ではない。
柱の足元には薪が積まれ、油が染み込ませてある。
火の準備。
王都の民が集められている。
集められている、という表現が正しい。
自分から見に来た者もいるが、多くは衛兵に「見ろ」と命じられている。
見ることは、共犯になることだ。
赤刀衆の指揮官が声を張った。
「昨日の騒乱は、神意を汚す者どもの扇動によるものだ!」
扇動。
便利な言葉。
誰かの怒りを「悪」にできる。
「神意を壊れているなどと口にした者は、王都を乱し、正統を揺らがせる敵である!」
揺らがせる敵。
敵という言葉は、刃を正当化する。
柱の前に、三人が引き出された。
一人は昨日叫んでいた男。
一人は石を投げたとされる青年。
もう一人は──昨日、巫女の白衣に触れようとしていた女。
女の顔は青白く、唇が乾いている。
乾いている唇は、叫べない。叫べない者は都合がいい。
「私は……」
女が声を出した。
出した瞬間、赤刀衆の一人が女の頬を打った。
乾いた音。
乾いた音は、広場に響く。
響けば、民は黙る。
「黙れ。神意の前で口を開くな」
口を開くな。
口を閉じさせることで、物語は一つになる。
一つになれば、記録は揃う。
ミサキの喉がひくりと動いた。
白巫の里で見てきた光景と同じだ。
違うのは、ここには観客がいること。
観客がいる処刑は、儀式より強い。
人は、見たものを信じる。
信じたものが、次の刃になる。
焔が一歩、前に出かけた。
ミサキが袖を掴み、強く引いた。
「だめ」
「……あいつら」
「あなたが出たら、あいつらは理由を得る」
理由。
理由があれば、もっと燃やせる。
柱の周りに油が撒かれる。
油の匂いが広場に広がる。
油は火の匂いではない。火の「前」の匂いだ。前の匂いは、人の心を先に燃やす。
指揮官が続ける。
「神意は失敗しない! 失敗するのは人だ! 人の失敗を、神意のせいにするな!」
言葉が整う。
整った言葉は、民の喉に入る。
喉に入れば、民はそれを繰り返す。
繰り返しは祈りだ。
祈りは正しい。
火が点けられた。
最初は小さな炎。
炎は薪に噛みつき、油を舐め、舌を伸ばす。
炎の舌が柱の足元を舐めた瞬間、女が叫んだ。
「違う! 違うの! 私たちは──!」
言葉が途中で割れた。
割れたのは声ではない。
赤刀衆が女の顎を掴み、無理やり上を向かせた。
顎が外れそうな角度。
痛みで声が途切れる。
途切れれば、民は「自白」と受け取る。
「ほら見ろ、罪人は言い訳をする!」
指揮官が叫ぶ。
叫びは扇動だ。
だが扇動を扇動と呼べば、扇動は正義になる。
炎が立ち上がる。
熱が顔に当たり、皮膚がひりつく。
ひりつきは、遠くの痛みを近くにする。
民の中で誰かが泣いた。
泣き声はすぐに別の泣き声を呼ぶ。
泣き声が増えると、怒りに変わる。怒りは、次の石になる。
火は、誰のために燃えている?
ミサキは、その問いが頭の中に浮かぶのを止められなかった。
火は秩序のために燃える。
秩序は正統のためにある。
正統は王のためにある。
王は誰のために座る?
答えは、香で曖昧にされる。
曖昧にされれば、誰も責任を取らない。
柱の男が、呻き声を上げた。
呻き声は熱で歪む。歪んだ声は獣のように聞こえる。
獣の声は人ではない。人ではないなら、殺してもいい。
その理屈が、観客の胸に滑り込む。
滑り込んだ理屈は、やがて信仰になる。
焔が震える息を吐いた。
「……俺たちも、こうやって殺してきた」
焔の声は、痛みと一緒に出た。
痛みが言葉になったとき、人は初めて自分の罪に触れる。
「違う」
ミサキが言った。
違うと言ったのは、焔を慰めるためではない。
違うと言わないと、自分がここに立っていられなくなるからだ。
「あなたは、止められなかっただけ」
「止められなかった奴は、やったのと同じだ」
焔が笑う。笑いは乾いている。乾いた笑いは泣きに似る。
火は、柱を舐め上がり、衣を焦がし、肉の匂いを立たせる。
肉の匂いは甘くない。甘くない匂いは、香の層を破る。
破れた香の向こうで、人々は本当の匂いを嗅いでしまう。
嗅いでしまった者の目が変わる。
目が変わった者は、どちらかへ倒れる。
──恐怖で従うか。
──怒りで暴れるか。
赤刀衆は、その分岐の前に刃を見せた。
刃はどちらの分岐も鎮圧という一語にまとめる。
処刑が終わるころ、広場の空気は静まり返っていた。
静まりは納得ではない。疲労だ。
疲労は、思考を殺す。思考が死ねば、秩序は生きる。
指揮官が最後に言った。
「祭りは続く! 神意は失敗しない! 疑う者は、王都の敵だ!」
敵。
その言葉が落ちた瞬間、王都の中に目に見えない線が引かれる。
線のこちら側が民。
向こう側が敵。
敵は、いつでも作れる。
作れる敵は、戦争に便利だ。
祈殿へ戻る回廊で、アキラは報告を受けていた。
処刑の完了。暴動の沈静化。封鎖の拡大。口封じ。
「よろしい」
アキラは淡々と言った。
淡々と言える者ほど、上にいる。
「噂の流通は?」
神官が答える。
「扇動者は処刑されたが広がっています。神意は正しいも。……しかし、折れた音を聞いた者が」
折れた音。
そこに触れるな。
アキラは、穏やかな声で言った。
「聞いた者の耳を、静かにしなさい」
静かにする。
それは殺すことだけではない。
配置を変える。隔離する。遠ざける。名を呼ばない。記録を残さない。
白巫家の優しさの形。
長老カンエンが、遠くを見ながら言った。
「火は、燃えたな」
アキラは答えた。
「燃やすべきものを燃やしました」
「燃えるべきでないものも燃える」
カンエンの声は穏やかだ。
穏やかな声は未来を告げる。
アキラは一瞬だけ沈黙し、やがて言った。
「それでも、燃やします」
燃やさなければ、正統が空になる。
空になれば、玉座は奪い合いになる。
奪い合いになれば、戦争になる。
──もう、戦争になっている。
ミサキと焔は路地の奥で、処刑の煙を見ていた。
煙は薄い。薄い煙ほど、長く残る。
長く残る煙は、匂いを街に染み込ませる。
匂いを嗅いだ民は、忘れない。
忘れない者は、いつか刃を持つ。
「……次は」
焔が言う。
言葉の先が続かない。
「次は、もっと大きい」
ミサキが言った。
怖いほど冷静な声だった。
冷静になるしかない。冷静でなければ、ここで壊れる。
祈殿のどこかで鈴が鳴った。
よく鳴る音。正しい音。
その終わり際で、確かに折れた。
折れた音はもう隠れない。隠せないのに、誰も言わない。
言わないまま、火だけが増える。
火は、誰のために燃えるのか。
答えは、王都が次に流す血で書かれる。




