表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/33

第三章第九話 正統の崩落


 崩れたのは、玉座ではない。

 崩れたのは、玉座が()()()()という前提だった。


 祈殿の床はまだ温かかった。灯明の熱。人の熱。香の熱。

 甘い匂いが壁に染み込み、息を吸うたびに肺の奥がぬめる。ぬめりは安心に似ている。安心に似ているから、人はそれを信じる。


 円壇の縁で、白衣が折り重なっていた。

 巫女たちは「下げられた」。自分の足で下りた者はいない。

 白い布の端に、乾ききらない赤が点々とついている。赤は拭われ、薄まり、薄まった赤は「なかったこと」にされる。


 なかったことにできない赤だけが、床の隅で黒くなり始めていた。


 観客席では、王族と貴族が静かに座っていた。

 静かに座っているという形だけが、彼らの盾だった。盾があれば、動揺は外に出ない。外に出なければ、動揺は存在しない。


 王が立ち上がる。

 それだけで祈殿の空気が固まる。固まれば、折れた音も折れない。


「神意は、降りた」


 王の宣言は、祈りより強い。

 祈りは願いだが、宣言は命令だ。命令は現実を揃える。


 アキラは深く頭を下げ、書板に視線を落とした。

 すでに書かれている文字──「儀式成功」。

 成功が先に書かれているという事実が、この国の強さだ。結果が先に決まり、過程は後から合わせられる。


 合わせられるなら、問題はない。


 祈殿の端で、運びきれなかった巫女が一人、床に伏せていた。

 白衣の下で身体が小刻みに震える。震えは生存の証だ。

 生存の証は、場にとって余計だ。


 巫女の口元から赤い泡がこぼれ、布に染みた。

 染みた赤は広がり、広がる赤は視線を集める。

 視線が集まるものは、抑えなければならない。


「処置を」


 神官の声は低く、丁寧だった。丁寧な声は刃だ。血を目立たせない。


 赤刀衆が静かに近づいた。

 足音が軽い。軽い足音は慣れている証拠。

 慣れている者は、ためらわない。


 巫女の肩が抱えられた瞬間、巫女は一度だけ大きく跳ねた。

 白衣の裾が捲れ、太腿の内側に紫色の痣が露わになる。

 痣は祈りが肉を押し広げた痕だった。内側から裂けるような色。


 観客席の若い貴族が喉を鳴らした。

 吐き気を飲み込む音。飲み込めば、品位は守られる。守られた品位は、正統を支える。


 赤刀衆の一人が巫女の口元を布で覆った。

 布は白い。白い布は清浄だ。清浄な布で塞げば、穢れは広がらない──そう教えられてきた。


 巫女の呻き声が、布の中で途切れた。

 途切れは終わりに似ている。終わりは静けさを生む。

 静けさが生まれれば、儀式は完成する。


 アキラは見ていないふりをした。

 見ていないふりをするのは、弱さではない。白巫家においては技術だ。

 技術を持つ者ほど、上へ行く。上へ行くほど、下を見ない。


 そのとき、祈殿の扉の向こうから、音がした。


 最初は小さなざわめき。

 次に、複数の足音。

 最後に、叫び声。


 香の層を越えて入ってくる生の音は、祈殿の秩序を汚す。

 汚れはすぐに拭わなければならない。


 扉が、規定外の叩き方で叩かれた。鈍い音。

 鈍い音は、正しさを揃えない。


「……何事だ」


 王が問う。

 問いは、わずかな揺らぎだ。

 揺らぎが王の口から出たという事実が、すでに危険だった。


 衛兵が扉を開けた。

 隙間から冷たい外気が入り込み、香の甘さを切った。

 切られた甘さの下から、鉄の匂いが立ち上る。


「南門で……!」


 息を切らした衛兵が叫ぶ。


「巫女が倒れたと! 血を吐いて──

 ()()()()()()()()と叫ぶ者が……人が集まっています!」


 壊れている。

 その単語は、祈殿に置いてはならない。置いた瞬間、全員が同じ方向を見てしまう。


 見ることは、責任を生む。


 王の指が肘掛けを強く押した。

 白くなった指先は、怒りではなく恐怖に近い。


「鎮めろ」


 たった一言。

 短い命令は、従いやすい。従いやすい命令ほど、多くの血を呼ぶ。


 赤刀衆が向きを変える。

 内側の処置から、外側の鎮圧へ。

 外で流れる血は、内側を汚さない──そういう理屈が生まれる。


 アキラは書板を閉じた。

 閉じる音が、やけに大きかった。


 記録が完成した。

 完成した記録は、現実より強い。


 祈殿を出た赤刀衆の背中に、観客席の貴族の視線が刺さる。

 視線は命令だ。

 「守れ」「隠せ」「黙らせろ」。

 口にしなくても伝わる命令ほど、残酷だ。


 ──そして外。


 王都南門の広場は、朝の祭りの準備で賑わうはずだった。

 露店の布、香具師の声、子どもの笑い。

 それらの上に、別の匂いが覆いかぶさっていた。


 血の匂い。


 倒れた巫女が一人、石畳に横たわっている。

 祈殿から運び出されたのではない。町の端の小さな祠の前で、突然崩れたという。

 崩れた瞬間を見た者が、神意のせいだと叫んだ。

 叫びは伝染する。伝染した叫びは、数になる。


「見ろよ! これが神意か!」


 男が叫ぶ。

 男の手は巫女の白衣を掴もうとする。

 掴めば、()()()()を汚すことになる。汚せば、正統は揺らぐ。


 揺らぎを許さない者が、現れた。


「下がれ」


 赤刀衆の声は低い。低い声は、刃を抜く前の合図だ。

 人々が一瞬だけ黙る。黙った隙に、空気が固くなる。


 固くなった空気の中で、誰かが言った。


「神意が壊れてるって……本当なのか?」


 疑問。

 疑問は芽だ。芽は摘まれる。


 赤刀衆の指揮官が、横の衛兵に目配せする。

 目配せは命令だ。

 衛兵が一人、疑問を口にした男の腕を掴んだ。


「おい、離せ!」


 男が叫ぶ。

 叫びは燃料だ。燃料があれば、火は広がる。


 周囲が一斉に動いた。

 掴む手、押す肩、飛ぶ石。

 祭りの準備に使うはずだった木片が、武器になる。


「やめろ!」


 衛兵が叫ぶ。

 やめろ、という言葉は、やめない者にだけ届く。


 赤刀衆の指揮官が、ため息のように息を吐いた。


「……抜け」


 鞘から刃が抜ける音は、短い。

 短い音ほど、決定的だ。


 誰が最初に斬るか。


 その瞬間は、英雄譚なら輝く。

 だが王都では、最初に斬った者は英雄ではない。最初に斬った者は、全員を共犯にする者だ。


 赤刀衆の若い兵が、一歩踏み込む。

 踏み込みは訓練通り。訓練通りの踏み込みは迷いがない。


 彼の前に、石を投げた少年がいた。

 少年の手は震えている。震えている手は勇気に見える。

 勇気は見栄に支えられる。見栄は簡単に折れる。


「やめろ……」


 少年の声が折れた瞬間、刃が走った。


 赤い線。

 音は遅れて、肉が裂ける湿った音。

 少年が倒れる。倒れた瞬間、世界が静まる。


 静まりは一瞬だ。


 次の瞬間、悲鳴が爆発した。

 悲鳴は数になる。数は怒りになる。怒りは暴力を呼ぶ。


「殺した!」


「神の兵が子どもを!」


 叫びが広がり、広場が波打つ。

 波は人を押し、押された人は倒れ、倒れた人は踏まれる。

 踏まれる音は、骨の音だ。


 赤刀衆が刃を振るう。

 振るうたびに血が飛び、血は石畳に点々と落ちる。

 点々は線になり、線は流れになる。


 衛兵が後退し、隊列を組み直す。

 隊列が整うと、暴力が秩序に見える。

 秩序に見えれば、正当化される。


「鎮圧だ! 鎮圧!」


 誰かが叫ぶ。

 鎮圧という言葉は便利だ。殺しを仕事に変える。


 倒れた巫女が咳き込み、赤い泡を吐いた。

 泡が石畳に落ち、少年の血と混じった。

 混じった赤は、どちらの赤か分からない。


 分からなければ、全体の問題ではない──そういう理屈が、祈殿の内側で完成している。

 完成した理屈は、外にも適用される。


 赤刀衆の指揮官が、倒れた巫女を見た。

 一瞬だけ、眉が動く。

 動いた眉は、すぐに戻る。


「……巫女を運べ」


 優しさではない。

 巫女がここにいる限り、人々は()()を見る。証拠は燃える。

 燃えるものは取り除く。


 巫女が担がれる。

 担がれる白衣の下で、血がまだ滴っている。

 滴りは、消せない。


 消せない滴りが、石畳に、正統の署名をしていく。


 ──祈殿の内側。


 アキラの前に報告が届く。

 短い報告。簡潔な数字。


「死者、十七。負傷者、多数。

 南門周辺は封鎖を開始。暴徒は散りつつあります」


 散りつつある。

 つまり、完全には散っていない。


 アキラは頷かない。頷けば、この数字を肯定することになる。

 肯定すれば、数字は記録になる。記録は残る。


 残るものは、次の揺らぎの種になる。


「封鎖を広げなさい」


 アキラは静かに言った。


「祭りの準備は続行。露店は動かす。

 ()()を見せてはならない。恐怖は疑問を呼ぶ」


 疑問を呼ぶ前に、香で柔らかくする。

 柔らかくした民は、痛みを忘れやすい。


 長老カンエンが、穏やかな声で言った。


「……血が出たな」


 穏やかな声は、刃より深く刺さる。


 アキラは淡々と返す。


「必要な血です」


 必要。

 その言葉が出た時点で、戻れない。

 血が必要だと認めた者は、血を止められない。


「正統は確定しました」


 アキラは書板に指を置いた。

 指が紙に触れる。紙は冷たい。冷たい紙は現実より強い。


「確定した正統を守るのが、我々の役目です」


 役目。

 役目という言葉は、罪を薄める。

 薄まった罪は、共同体に広がる。


 カンエンが、ゆっくり頷いた。


「……網は、張り直された」


 張り直された網の目は、さっきより細い。細い網は多くを絡め取る。

 絡め取ったものの中に、無実が混じる。

 混じった無実は、後で憎しみに変わる。


 憎しみは、戦争の燃料だ。


 祈殿の外で、また鈴が鳴った。

 誰も触れていない鈴。


 よく鳴る音。正しい音。

 その終わり際で、確かに折れた。


 折れた音は、もう隠れない。

 隠れないのに、誰も言わない。


 言わないまま、血だけが増える。


 王都は正統を得た。

 その正統は、最初の大流血で塗り固められた。


 ──崩落は、終わっていない。

 崩れ落ちたものを()()()()ために、次はもっと大きな火が要る。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ