第三章第九話 正統の崩落
崩れたのは、玉座ではない。
崩れたのは、玉座が揺れないという前提だった。
祈殿の床はまだ温かかった。灯明の熱。人の熱。香の熱。
甘い匂いが壁に染み込み、息を吸うたびに肺の奥がぬめる。ぬめりは安心に似ている。安心に似ているから、人はそれを信じる。
円壇の縁で、白衣が折り重なっていた。
巫女たちは「下げられた」。自分の足で下りた者はいない。
白い布の端に、乾ききらない赤が点々とついている。赤は拭われ、薄まり、薄まった赤は「なかったこと」にされる。
なかったことにできない赤だけが、床の隅で黒くなり始めていた。
観客席では、王族と貴族が静かに座っていた。
静かに座っているという形だけが、彼らの盾だった。盾があれば、動揺は外に出ない。外に出なければ、動揺は存在しない。
王が立ち上がる。
それだけで祈殿の空気が固まる。固まれば、折れた音も折れない。
「神意は、降りた」
王の宣言は、祈りより強い。
祈りは願いだが、宣言は命令だ。命令は現実を揃える。
アキラは深く頭を下げ、書板に視線を落とした。
すでに書かれている文字──「儀式成功」。
成功が先に書かれているという事実が、この国の強さだ。結果が先に決まり、過程は後から合わせられる。
合わせられるなら、問題はない。
祈殿の端で、運びきれなかった巫女が一人、床に伏せていた。
白衣の下で身体が小刻みに震える。震えは生存の証だ。
生存の証は、場にとって余計だ。
巫女の口元から赤い泡がこぼれ、布に染みた。
染みた赤は広がり、広がる赤は視線を集める。
視線が集まるものは、抑えなければならない。
「処置を」
神官の声は低く、丁寧だった。丁寧な声は刃だ。血を目立たせない。
赤刀衆が静かに近づいた。
足音が軽い。軽い足音は慣れている証拠。
慣れている者は、ためらわない。
巫女の肩が抱えられた瞬間、巫女は一度だけ大きく跳ねた。
白衣の裾が捲れ、太腿の内側に紫色の痣が露わになる。
痣は祈りが肉を押し広げた痕だった。内側から裂けるような色。
観客席の若い貴族が喉を鳴らした。
吐き気を飲み込む音。飲み込めば、品位は守られる。守られた品位は、正統を支える。
赤刀衆の一人が巫女の口元を布で覆った。
布は白い。白い布は清浄だ。清浄な布で塞げば、穢れは広がらない──そう教えられてきた。
巫女の呻き声が、布の中で途切れた。
途切れは終わりに似ている。終わりは静けさを生む。
静けさが生まれれば、儀式は完成する。
アキラは見ていないふりをした。
見ていないふりをするのは、弱さではない。白巫家においては技術だ。
技術を持つ者ほど、上へ行く。上へ行くほど、下を見ない。
そのとき、祈殿の扉の向こうから、音がした。
最初は小さなざわめき。
次に、複数の足音。
最後に、叫び声。
香の層を越えて入ってくる生の音は、祈殿の秩序を汚す。
汚れはすぐに拭わなければならない。
扉が、規定外の叩き方で叩かれた。鈍い音。
鈍い音は、正しさを揃えない。
「……何事だ」
王が問う。
問いは、わずかな揺らぎだ。
揺らぎが王の口から出たという事実が、すでに危険だった。
衛兵が扉を開けた。
隙間から冷たい外気が入り込み、香の甘さを切った。
切られた甘さの下から、鉄の匂いが立ち上る。
「南門で……!」
息を切らした衛兵が叫ぶ。
「巫女が倒れたと! 血を吐いて──
神意が壊れていると叫ぶ者が……人が集まっています!」
壊れている。
その単語は、祈殿に置いてはならない。置いた瞬間、全員が同じ方向を見てしまう。
見ることは、責任を生む。
王の指が肘掛けを強く押した。
白くなった指先は、怒りではなく恐怖に近い。
「鎮めろ」
たった一言。
短い命令は、従いやすい。従いやすい命令ほど、多くの血を呼ぶ。
赤刀衆が向きを変える。
内側の処置から、外側の鎮圧へ。
外で流れる血は、内側を汚さない──そういう理屈が生まれる。
アキラは書板を閉じた。
閉じる音が、やけに大きかった。
記録が完成した。
完成した記録は、現実より強い。
祈殿を出た赤刀衆の背中に、観客席の貴族の視線が刺さる。
視線は命令だ。
「守れ」「隠せ」「黙らせろ」。
口にしなくても伝わる命令ほど、残酷だ。
──そして外。
王都南門の広場は、朝の祭りの準備で賑わうはずだった。
露店の布、香具師の声、子どもの笑い。
それらの上に、別の匂いが覆いかぶさっていた。
血の匂い。
倒れた巫女が一人、石畳に横たわっている。
祈殿から運び出されたのではない。町の端の小さな祠の前で、突然崩れたという。
崩れた瞬間を見た者が、神意のせいだと叫んだ。
叫びは伝染する。伝染した叫びは、数になる。
「見ろよ! これが神意か!」
男が叫ぶ。
男の手は巫女の白衣を掴もうとする。
掴めば、正統の布を汚すことになる。汚せば、正統は揺らぐ。
揺らぎを許さない者が、現れた。
「下がれ」
赤刀衆の声は低い。低い声は、刃を抜く前の合図だ。
人々が一瞬だけ黙る。黙った隙に、空気が固くなる。
固くなった空気の中で、誰かが言った。
「神意が壊れてるって……本当なのか?」
疑問。
疑問は芽だ。芽は摘まれる。
赤刀衆の指揮官が、横の衛兵に目配せする。
目配せは命令だ。
衛兵が一人、疑問を口にした男の腕を掴んだ。
「おい、離せ!」
男が叫ぶ。
叫びは燃料だ。燃料があれば、火は広がる。
周囲が一斉に動いた。
掴む手、押す肩、飛ぶ石。
祭りの準備に使うはずだった木片が、武器になる。
「やめろ!」
衛兵が叫ぶ。
やめろ、という言葉は、やめない者にだけ届く。
赤刀衆の指揮官が、ため息のように息を吐いた。
「……抜け」
鞘から刃が抜ける音は、短い。
短い音ほど、決定的だ。
誰が最初に斬るか。
その瞬間は、英雄譚なら輝く。
だが王都では、最初に斬った者は英雄ではない。最初に斬った者は、全員を共犯にする者だ。
赤刀衆の若い兵が、一歩踏み込む。
踏み込みは訓練通り。訓練通りの踏み込みは迷いがない。
彼の前に、石を投げた少年がいた。
少年の手は震えている。震えている手は勇気に見える。
勇気は見栄に支えられる。見栄は簡単に折れる。
「やめろ……」
少年の声が折れた瞬間、刃が走った。
赤い線。
音は遅れて、肉が裂ける湿った音。
少年が倒れる。倒れた瞬間、世界が静まる。
静まりは一瞬だ。
次の瞬間、悲鳴が爆発した。
悲鳴は数になる。数は怒りになる。怒りは暴力を呼ぶ。
「殺した!」
「神の兵が子どもを!」
叫びが広がり、広場が波打つ。
波は人を押し、押された人は倒れ、倒れた人は踏まれる。
踏まれる音は、骨の音だ。
赤刀衆が刃を振るう。
振るうたびに血が飛び、血は石畳に点々と落ちる。
点々は線になり、線は流れになる。
衛兵が後退し、隊列を組み直す。
隊列が整うと、暴力が秩序に見える。
秩序に見えれば、正当化される。
「鎮圧だ! 鎮圧!」
誰かが叫ぶ。
鎮圧という言葉は便利だ。殺しを仕事に変える。
倒れた巫女が咳き込み、赤い泡を吐いた。
泡が石畳に落ち、少年の血と混じった。
混じった赤は、どちらの赤か分からない。
分からなければ、全体の問題ではない──そういう理屈が、祈殿の内側で完成している。
完成した理屈は、外にも適用される。
赤刀衆の指揮官が、倒れた巫女を見た。
一瞬だけ、眉が動く。
動いた眉は、すぐに戻る。
「……巫女を運べ」
優しさではない。
巫女がここにいる限り、人々は証拠を見る。証拠は燃える。
燃えるものは取り除く。
巫女が担がれる。
担がれる白衣の下で、血がまだ滴っている。
滴りは、消せない。
消せない滴りが、石畳に、正統の署名をしていく。
──祈殿の内側。
アキラの前に報告が届く。
短い報告。簡潔な数字。
「死者、十七。負傷者、多数。
南門周辺は封鎖を開始。暴徒は散りつつあります」
散りつつある。
つまり、完全には散っていない。
アキラは頷かない。頷けば、この数字を肯定することになる。
肯定すれば、数字は記録になる。記録は残る。
残るものは、次の揺らぎの種になる。
「封鎖を広げなさい」
アキラは静かに言った。
「祭りの準備は続行。露店は動かす。
恐怖を見せてはならない。恐怖は疑問を呼ぶ」
疑問を呼ぶ前に、香で柔らかくする。
柔らかくした民は、痛みを忘れやすい。
長老カンエンが、穏やかな声で言った。
「……血が出たな」
穏やかな声は、刃より深く刺さる。
アキラは淡々と返す。
「必要な血です」
必要。
その言葉が出た時点で、戻れない。
血が必要だと認めた者は、血を止められない。
「正統は確定しました」
アキラは書板に指を置いた。
指が紙に触れる。紙は冷たい。冷たい紙は現実より強い。
「確定した正統を守るのが、我々の役目です」
役目。
役目という言葉は、罪を薄める。
薄まった罪は、共同体に広がる。
カンエンが、ゆっくり頷いた。
「……網は、張り直された」
張り直された網の目は、さっきより細い。細い網は多くを絡め取る。
絡め取ったものの中に、無実が混じる。
混じった無実は、後で憎しみに変わる。
憎しみは、戦争の燃料だ。
祈殿の外で、また鈴が鳴った。
誰も触れていない鈴。
よく鳴る音。正しい音。
その終わり際で、確かに折れた。
折れた音は、もう隠れない。
隠れないのに、誰も言わない。
言わないまま、血だけが増える。
王都は正統を得た。
その正統は、最初の大流血で塗り固められた。
──崩落は、終わっていない。
崩れ落ちたものを立て直すために、次はもっと大きな火が要る。




