第三章第八話 神意、降下
神意が降りるとき、空は鳴らない。
鳴るのは、音の順番だ。
順番が揃えば世界は正しく、揃わなければ──揃えられる。
王都祈殿は夜明け前から満ちていた。
香。灯明。白衣。観客の息。
息が揃うほど、個人は薄くなる。薄くなれば、扱いやすい。
円壇の外周に巫女が並ぶ。
数は規定より多い。多いのは保険だ。保険があると、人は失敗を恐れなくなる。恐れない者ほど、平気で押す。
巫女セイラは第三環の端で掌を組んでいた。
彼女の指先は冷たい。冷たいのに汗ばむ。
優秀な巫女ほど、失敗が自分のせいになる。自分のせいになるものは怖い。怖いから祈りは濃くなる。
祈りは濃くなればなるほど、音が折れやすい。
円壇の少し後ろ、神官アキラが立つ。
立ち位置は訓練で決まる。神意より前に出ない。だが背後に隠れもしない。
役割の距離。人の距離ではない。
観客席には王族と貴族。
香の層は観客席が最も厚い。見たものを疑問にする前に、疑問が溶けるように。
王は玉座に座っている。
座っているのに、玉座はまだ空いているように見えた。
正統が確定していないからだ。確定は、これから。
鈴が鳴る。
一つ。
二つ。
三つ。
拍は正確で、正確すぎて嫌になる。正確すぎるものは人のものではない。
人のものではないものを、人が扱うと壊れる。
祝詞が始まる。
言葉は古く、意味は曖昧。曖昧だから便利だ。便利な言葉はどんな血にも染まる。
セイラは息を吸い、吐いた。四拍。規定通り。
規定通りの呼吸は、心臓を置き去りにする。
灯明が一つ、揺れた。
風はない。扉は閉じている。
揺れた理由がないのに揺れる。
影が、わずかに遅れて動いた。
──見えた。
見えたのに、セイラは瞬きをして視界を整えた。
整える、という行為は白巫の美徳だ。整えれば正しい。正しいなら問題はない。
鈴が、もう一度鳴る。
今度は長い。長すぎる。
音の終わり際で、ほんの一拍、音が沈んだ。沈んだ音は折れと似ている。
似ているものは、違いを認めなければ同じになる。
祝詞が被さる。
被されれば、沈みは「味」になる。
アキラが小さく手を上げる。合図。
合図があるという異常を、誰も異常として扱わない。扱わなければ異常は存在しない。
円壇の内側、空気が沈む。
沈むのではない。落ちる。
上から下へ、目に見えない重さが移動してくる感覚。
床に叩きつけられ、祈殿の白い石が、きゅ、と鳴った気がした。
巫女の一人が喉を鳴らした。
「……あ……」
声にならない音。音にならなければ神託ではない。
だが、次の瞬間、天井のどこかで鈴が鳴った。
誰も触れていない鈴。
乾いた音が落ちてくる。
一拍。遅れて、もう一拍。
順番が逆。
祝詞が詰まる。詰まりは一瞬。
一瞬なら事故だ。事故は人のせいだ。人のせいなら、神意は正しい。
「……続けて」
アキラの声が低く落ちる。命令。
止めない。止めた瞬間、失敗が確定する。
巫女が膝をついた。
音もなく、崩れるように。白衣が床に広がる。
白が広がると、赤が目立つ。
一滴。
床に、赤い点が落ちた。
セイラの喉が鳴った。
吐き気ではない、と自分に言い聞かせる。吐き気でないなら、仕事は続けられる。
観客席がざわめく。
ざわめきは香に溶け、言葉になりきらない。言葉にならなければ問題ではない。
倒れた巫女の口元から、赤い泡がこぼれる。
泡は息と一緒に膨らむ。膨らむ泡は生きている証だ。
生きている証は、ここでは邪魔だ。
「処置を」
神官が言う。救命ではない。処置。
赤刀衆が静かに入る。足音が軽い。軽い足音は慣れている証拠。
赤刀衆の腕が巫女の脇に入った瞬間、巫女の身体が大きく痙攣した。
白衣の裾が捲れ、太腿の内側に紫色の痣が覗く。
内側から裂けたような色。祈りが肉を押し広げた痕。
観客席の誰かが、布で口を押さえた。
押さえた手が震える。震えは、香で鈍る。鈍れば、人は自分の震えを恥じなくて済む。
アキラは視線を固定しない。固定すれば見たことになる。
見たことになれば、判断が必要になる。判断は責任を生む。
責任は、玉座に届く。
次の代替巫女が前へ押し出される。
押し出される、が正しい。自分の足で出る者は少ない。
代替巫女は目が虚ろだ。香が深く入っている。
香が深く入った者は、疑問を持たない。疑問を持たない者は、壊れても声が出ない。
鈴が持たされる。
新しい鈴。よく鳴る鈴。よく鳴るほど折れが目立つ鈴。
代替巫女が鈴を振る。
──鳴らない。
振った。確かに振った。
なのに音が出ない。鈴は壊れていない。別の神官が指で弾けば鳴る。
その者が振ると、鳴らない。
祈殿の空気が凍る。
凍った空気は一瞬で、すぐに香が溶かそうとする。だが溶けきらない。溶けきらないものは、誰かの喉に引っかかる。
観客席の最前列で、若い貴族が立ちかけた。
立ちかけた膝が止まる。止まったのは香のせいだけではない。
周囲の視線が「座れ」と命じたからだ。命令は目でできる。
その瞬間、観客席の端にいる商人風の女が、何気なく扇を閉じた。
扇が閉じる音は小さい。小さい音は、合図に見えない。
だが、風がほんの少しだけ向きを変えた。
香の流れが、一筋だけ、代替巫女の鼻先を外れる。
代替巫女が、短く咳をした。
咳は、意識の端を戻す。
戻った端に、恐怖が触れる。
恐怖に触れた瞬間、人は「生きる」側へ傾く。
生きる側へ傾く身体は、祈りに従わない。
代替巫女の手が震え、鈴を落とした。
鈴が床に当たり、ようやく鳴った。
──遅れて鳴った。
遅れて鳴る音は、順番を壊す。
観客席の中で、誰かが吐いた。
音を立てないように、布の中で吐く。吐瀉は熱い。香に混ざると甘く臭う。
甘い臭いは、儀式の匂いとして処理される。
「……静寂も神意の一部です」
アキラが言う。断言。
断言は意味を生む。意味が生まれれば、鳴らない音も選ばれた結果になる。
代替巫女の膝が崩れた。
今度は骨が床に当たる鈍い音がした。
誰も助けに走らない。
走るという行為は、正しさの列を乱す。列を乱す者は、乱れそのものだ。
セイラは唇を噛んだ。
噛んだ痛みで、自分がまだ「人」であることを確かめる。
確かめた人は、次に『器』に戻るのが怖い。
怖いのに、戻る。戻らなければ、空席になる。空席は、失敗に見える。
王が、ゆっくり立ち上がった。
立ち上がるだけで場が収束する。
収束するのは、人々が王の動きを「正解」として追うからだ。
「神意は、降りた」
王が言う。宣言。
宣言が落ちた瞬間、祈殿の空気が成功へ傾く。傾けば、誰も反対できない。
反対する者は、失敗を望む者になる。
失敗を望む者は、王都では敵だ。
アキラが深く頭を下げる。
角度は規定通り。規定通りなら正しい。正しいなら、折れた音は存在しない。
倒れた巫女が運ばれていく。
白衣の下から赤が床に線を引く。線はすぐに布で覆われる。覆えば見えない。
見えなければ、なかったことになる。
だが床の隅、灯明の影の中で、赤が拭いきれずに残った。
残った赤は黒く乾き始める。黒い赤は、白よりも重い。
セイラの視線が、その黒い赤に吸われかけた。
吸われた視線を、彼女は必死で戻す。戻せば正しい。戻せなければ、揺らぐ。
揺らぐ者は、網の外へ回される。
最後に鈴が鳴った。
よく鳴る音。正しい音。
その終わり際で──確かに音が折れた。
折れた音は、香の層を割って、観客席の耳にも届く。
届いたのに、誰も言わない。
言えば、聞こえたことになる。聞こえたことになれば、今日が失敗になる。
失敗になれば、正統が空になる。
空は、許されない。
王が玉座に戻り、座る。
座った瞬間、玉座は埋まったように見えた。
見えた、という事実が全てだった。
祈殿の外では、祭りの準備が進む。
民は笑い、露店は灯り、音は重なる。
重なる音の上に、今しがた折れた鈴の音が薄く漂う。
それでも記録にはこう書かれる。
──神意、降下。儀式、成功。正統、確定。
代償の欄は、最初から存在しない。




