第三章第七話 網の内側
網の内側は、静かだ。
外側でどれほど騒ぎがあっても、ここには届かない。届かないように、作られている。
王都の祈殿、そのさらに奥。白い回廊を三つ越え、香の層を二つ潜り、最後に音を落とす扉を閉めた場所。
会議室には窓がない。
窓がないのは不便ではない。外が見えると、人は外を欲しがる。外を欲しがる心は、揺らぐ。
──揺らぎは、人の心だ。
長卓の中央に、白巫アキラが座っていた。
椅子の背は高く、背後の壁に影が立つ。灯明の火は小さく、影は細い。細い影は誤魔化しやすい。誤魔化しやすいものほど、ここでは価値がある。
卓上には書板が並ぶ。
鈴の音程表。香の配合。祝詞の拍。巫女の配置。
そして、昨日のリハーサル報告──過剰反応の記録。
記録は揃っている。
揃っているから、正しい。
正しいから、問題はない。
問題がないはずなのに、室内の空気は重かった。
重さは香のせいだけではない。
香を濃くしたときの重さとは違う。
これは、誰も口にしない言葉が積もった重さだ。
上位神官の一人が、低い声で言った。
「代替巫女ユウナの件は、どう処理を」
処理。
人に対して使う言葉ではない。
だがここでは、人は器だ。器は消耗品だ。消耗品は処理される。
アキラは書板を閉じ、淡々と答えた。
「器の過剰反応として、里へ戻す。記録は残さない」
「戻す、とは」
問いが生まれる。
問いは揺らぎに近い。
別の神官がすぐに言い換えた。
「保護の名目で隔離、ですね」
言い換えは、網を張り直す行為だ。
網目が揃えば、落ちたものは見えなくなる。
アキラは頷いた。頷きは同意ではなく、命令の完了だ。
「隔離。祈りの場から外す。
それ以上は不要です」
不要。
不要という言葉は、切断だ。切断すれば痛みは感じない。
痛みを感じなければ、誰も罪を認めなくて済む。
卓の端に座る古参の神官が、咳払いをした。
咳は短い。短い咳は病ではない。躊躇だ。
「……大儀式を前倒しにした判断は、正しいのでしょうか」
室内の空気が、さらに重くなる。
正しい、という言葉の裏に、不安が隠れている。
不安は、揺らぎだ。
揺らぎは、人の心だ。
アキラは声を荒げない。荒げる必要がない。ここで求められるのは、平坦な断言だ。
「正しい」
たった一語。
短い言葉は鋭い。鋭い言葉は反論を切る。
古参が、なおも続けた。
「昨日の折れは、以前より深い。
新しい鈴ほど、折れが鮮明になる。
……隠すために新しくしたのに、露わになるのは」
露わ。
その言葉は危険だった。
露わになる、という事実を認めた瞬間、全員が同じ場所を見てしまう。
見ることは、責任を生む。
責任は、玉座に届く。
別の神官が、すぐに噛み砕いた。
「折れは、外縁の穢れのせいです。
揺らぎは外。内は正しい」
外。
便利な方向だ。外に押し出せば、内側は汚れない。
アキラはその言葉に頷き、線を引いた。
「折れは、問題ではない」
室内の何人かが、息を止めた。
問題ではない、という言葉は、現実を上書きする。
アキラは続ける。
「折れが問題になるのは、
それを問題として扱う者がいる時だけです」
つまり、扱わなければ問題ではない。
問題を作らなければ、秩序は守られる。
──秩序が守られるなら、何を捨ててもいい。
卓の上で灯明の火が一度だけ揺れた。
風はない。扉は閉じている。
揺れた理由がないのに揺れる。
影が、一拍遅れて動いた。
誰も、それを口にしなかった。
口にしなければ、存在しない。
沈黙を破ったのは、長老カンエンだった。
白巫家の上層にありながら、声は穏やかで、目も穏やかだ。穏やかさは刃よりも人を切る。
「アキラ。
網は、内側からも破れる」
網。
その単語が室内を冷やした。
内側から破れる。
つまり、敵は外だけではない。
敵は、ここにいる誰かの中にいる。
カンエンは言葉を選ぶように続けた。
「人は、見る。
見たものを、口にする。
口にした言葉は、外へ出る。外へ出れば、都が揺れる」
アキラは答えた。
「見ないようにします」
簡潔で、残酷な答え。
見ないようにする、というのは、目を潰すことではない。
目を持ったまま、見たことにしない訓練だ。
白巫家はそれを、美徳と呼ぶ。
「……それでも見てしまう者がいます」
カンエンの穏やかな声が、少しだけ硬くなる。
「見てしまう者は、どうする」
室内に沈黙が落ちる。
落ちた沈黙は、誰かの喉を締める。
誰も答えない。
答えれば、手を汚すのが自分になる。
アキラが先に答えた。
「配置を変えます」
配置。
人を物として扱う言葉。
その一言で、命の行き先が決まる。
「巫女だけではありません。神官も。
目の向きが合わない者は、外縁へ回す」
外縁。
便利な場所。
都の外れで起きる黒は、都の白には届かない──そう信じられている。
古参の神官が、かすかに唇を震わせた。
「……外縁へ回した者が、外で何かを見れば」
問いが生まれる。
問いは揺らぎだ。
アキラは揺らぎを切り捨てる。
「見れば、さらに外へ」
さらに外へ。
言い換えれば、捨てる。
捨て谷、という言葉が誰かの脳裏を過ぎたが、誰も口にしない。
口にしなければ、捨て谷は存在しない。
存在しなければ、そこへ送ったことにもならない。
カンエンが、ゆっくり頷いた。
「……戻れぬな」
戻れぬ。
それは脅しではない。確認だ。
確認は、合意に近い。
アキラは淡々と頷いた。
「戻りません」
戻らない、と言い切ることで、戻る道は消える。
消えれば、人は前へしか進めない。
前へ進めば、止まれない。
止まれない者は、儀式を成功させるしかない。
会議室の隅で若い神官が口を開きかけた。
言葉が喉で止まる。
止まった言葉は不安だ。不安は揺らぎだ。
アキラが視線だけで封じる。
若い神官は黙った。
黙ることで守れるものがあると信じた。
守れるのは秩序だ。
守るために捨てるのは人だ。
アキラは書板を一枚引き寄せた。
そこには大儀式当日の座席配置が描かれている。
王族、貴族、神官、巫女。
見る者、見られる者。
視線が整うように、角度まで指定されていた。
「観客席が増えています」
文官が報告する。
文官の声は事務的で、事務的な声ほど殺せる。
「王が求めた。正統の確認を見せるためだそうです」
見せる。
見せるために失敗できない。
失敗できないから隠す。
隠すために切り捨てる。
この循環が、王都の祈りだ。
アキラは言った。
「観客席の香を濃く。
思考が柔らかくなれば、疑問は出ない」
「……疑問が出たら」
小さな声。
小さな声ほど、真実に近い。
アキラは答えた。
「疑問を言葉にする前に、拍で覆います。
祝詞を詰める。鈴を長く鳴らす。
意味の隙間を作らない」
意味の隙間。
そこに人は疑いを置く。
疑いを置く場所を奪えば、疑いは育たない。
奪うのは、息の余地だ。
息を奪われた者は、従うしかない。
カンエンが卓の上に指を置いた。
老いた指先が書板の端をなぞる。
なぞった先で紙が僅かに擦れた。
「追放巫女──ミサキのことは」
その名が出た瞬間、室内の温度が一段下がった。
名は力を持つ。力を持つ名は、網を破る。
アキラは間を置かずに答えた。
「不要です」
否定が早い。
早い否定ほど、深いところに触れている。
「必要なのは、秩序です」
同じ言葉を繰り返す。
繰り返しは祈りに似ている。祈りに似ているから正しい。
カンエンは穏やかな目で言った。
「不要なら、追う必要もない」
追う必要。
そこに、皆が触れたくない矛盾がある。
不要だと言い切りながら、追っている。
追っているという事実が、不要ではないことを示している。
アキラは、初めてほんの僅かに呼吸を深くした。
深呼吸の音は会議室では目立つ。
だが誰も、それを指摘しない。
「追っていません」
嘘。
だが嘘は、秩序を守るための真実だ。
「戻す必要があるなら、戻すだけです」
戻す、という言葉の意味は曖昧だ。
曖昧さは便利だ。曖昧にしておけば、誰も責任を取らない。
責任が曖昧なら、合意だけが残る。
合意が残れば、全員が同じ罪を持つ。
同じ罪を持てば、裏切れない。
それが、網の内側の強さだ。
灯明が、もう一度揺れた。
今度は、揺れの後に影が動かなかった。
動かなかったのではない。動きが遅すぎて、目が追えなかった。
誰もそれを口にしない。
口にしなければ、存在しない。
アキラは、最後に言った。
「明日、儀式を始めます」
始める。
始めた瞬間、止める理由は消える。
止められないから、成功させるしかない。
成功とは、記録を揃えることだ。
揃えれば正しい。
正しければ神意は失敗しない。
カンエンが、ゆっくり頷いた。
「……決まったな」
決まった。
その言葉で、全員の背中に同じ重さが乗る。
重さは責任ではない。責任を分割した共同体の沈黙だ。
会議は終わった。
扉が開き、香の層が流れ込む。
香が流れ込めば思考が柔らかくなる。柔らかくなれば、さきほどの決断は当然になる。
当然になれば、戻れない。
アキラは最後に、誰にも聞こえない声で言った。
「神意は、失敗しない」
言い聞かせるように。
祈るように。
命令するように。
その瞬間、祈殿のどこかで鈴が鳴った。
誰も触れていない鈴。
音は澄んでいた。
澄んでいるのに、終わり際で確かに折れた。
折れた音は、網の内側まで届く。
届いてしまうほど、近い。
それでも誰も、口にしない。
口にしなければ、明日は来る。
明日が来れば、儀式は始まる。
始まれば、戻れない。
──網の内側は、静かだ。
静かだからこそ、破れるときの音は大きい。




