第三章第六話 代替は、成立しない
当然代替は、用語だ。
人を指す言葉ではない。──そう教えられたわけではないのに、王都の祈殿に来てから、ユウナはそれを理解してしまった。
控室は、普段使われない部屋だった。畳ではなく板張りで、板は何度も水拭きされている。拭われすぎた木目は、乾いた傷のように白い。窓は小さく、朝なのか昼なのか分からない。時間が分からないと、人は「いつからこうだったか」を忘れる。
ユウナは座っていた。
座っているというより、置かれていた。
背筋の角度。膝の閉じ方。指先の重ね方。髪の結び目の位置。呼吸の速さ。
すべてを指示される。
指示がある限り、迷わずに済む。
迷わなければ、不安は生まれない。
不安が生まれなければ、揺らぎは出ない。
揺らぎが出なければ──神意は、正しく見える。
「香を」
薄い声が、壁に反射して戻ってくる。
香が焚かれる。甘い。甘すぎて、舌の根が痺れる。肺に入った瞬間、空気が重くなり、重い空気は思考を鈍らせる。鈍れば、感じなくていいことを感じずに済む。
ユウナは、それを助けだと思おうとした。
白巫家で「選ばれた」と告げられた夜、確かに誇らしかった。
自分は足りている。足りているから選ばれた。
足りている、という言葉は甘い。甘い言葉は、身体の芯まで温める。
──だが、王都に着いてから、温かさは剥がれた。
選ばれた理由は、足りているからではない。
足りなくても、代わりが効くからだ。
ユウナの手の爪には、薄く土が残っていた。爪の奥の黒さは、白布で拭っても完全には取れない。土は彼女の生活だった。畑の端で祈り、井戸水で手を洗い、髪留めの木札を整えて、夕暮れには鈴の手入れをした。そういう積み重ねが、巫女の人間を作ると信じていた。
だが王都では、その土が邪魔だ。
控室の隅に、白い布が置かれている。
拭け、と言われたわけではない。
置いてあるだけで、命令になる。
ユウナは白布で爪を拭った。爪の黒さは薄くなったが、手の感触が変わった。自分の手が、自分の手ではなくなる。生活の匂いが薄まる。薄まると、代わりが利く。
回廊を歩くとき、足元に黒い筋があった。
拭われた跡。拭われすぎて、逆に目立つ。
何があったのかは、聞かない。
聞く権利はない。
聞く権利があるのは、役割を持つ者だけだ。
役割のない者は、役割のために使われる。
円壇に上がると、光が強かった。灯明の数が増えている。増えた灯明は影を増やし、影が増えると遅れが目立つ。目立つ遅れを、祝詞が覆う。覆えば、誰も見なくて済む。
神官が位置を示す。
「第三環。呼吸は四拍。鈴は合図の後」
合図があるという事実が、すでに異常だった。
本来、神託に合図はない。降りるか、降りないかだけだ。
だが、ここでは降ろす。
ユウナは鈴を取った。新しい鈴。よく鳴る鈴。よく鳴るほど、折れは鋭くなる。折れた音ほど、耳に刺さる。
祝詞が始まる。拍が詰められている。間がない。間がないと考えなくて済む。考えなければ不安は湧かない。湧かなければ、揺らがない。
鈴を振る。
澄んだ音が伸びる。長い。長すぎる。
長すぎる音は、終わり際で必ず「形」を見せる。
音の終わり際で、喉の奥が熱くなった。
熱は上がる。上がる熱は、声になる。
──だめだ。
そう思った瞬間、香が思考を溶かした。
言葉が勝手に前へ押し出される。
「……み……」
音にならない。
音にならない言葉は、神託ではない。
祝詞が被さる。被されると、言葉は形を失う。形を失えば、意味も消える。意味が消えれば、責任が消える。
ユウナの視界が狭くなった。灯明が滲み、円壇が遠ざかる。
──影が、遅れる。
自分の影が、遅れている。
足を動かしてから、影が動くまでに、一拍ある。
その一拍が、耐えられない。
影の遅れは、世界の遅れだ。
世界が遅れているなら、神意は追いつかない。
神意が追いつかないなら、正しさは崩れる。
──だから、見てはいけない。
膝が折れた。床が近づく。床は冷たい。冷たい床は、現実だ。
誰かが肩を掴んだ。掴みは強くない。慣れている掴みだ。慣れた掴みは、人を物として扱う。
「器の反応が過剰です」
神官の声が遠くで響く。
過剰。過剰は個人の問題だ。個人の問題なら全体は正しい。
「調律を続行」
別の声。続行、という言葉は便利だ。止めない理由になる。
ユウナは引きずられるように円壇から外された。白衣が床を擦る。擦れる音が、鈴よりもはっきり耳に残る。鈴は正しさの音だが、擦れる音は処理の音だ。
運ぶ役目は、名前を持たない。
男は白衣ではなかった。
神官でも巫女でもない。
祈殿の裏方で、壊れたものを外へ出す役だ。
彼はユウナの肩に手を掛けた。
力は入れていない。
入れなくても、人は動く。
肩越しに、ユウナの髪留めが見えた。
木札だ。
王都のものではない。
──地方の。
男は一瞬だけ、視線を落とした。
その一瞬で、十分だった。
この巫女は、代替だ。
成立しなくても、困らない。
そう理解するのに、理由はいらない。
彼の仕事は、理解しないことだからだ。
膝が床に当たる瞬間、男は反射的に手を引いた。
血が付くと、後が面倒になる。
白衣は、汚れやすい。
汚れやすいものは、記録に残る。
男はユウナを抱え直し、足を運んだ。
廊下の長さは覚えている。
何度も通った距離だ。
途中、鈴の音が聞こえた。
さきほどより、安定している。
──ああ、次が始まった。
男は歩調を速めた。
過程は、長引かせない方がいい。
扉を開け、ユウナを中へ滑り込ませる。
床に寝かせるとき、首の角度だけを整えた。
呼吸が止まらないように。
止まれば、余計な報告が増える。
男は何も言わず、扉を閉めた。
閉めたあと、一度だけ深く息を吐く。
それが彼に許された、唯一の感情だった。
そして彼は、次の代替のために戻る。
奥の扉が閉まる。
閉まった音で、世界が区切られる。
暗い部屋。香はここまで来ない。代わりに鉄の匂いがする。鉄は血の匂いに似ている。似ているから、思い出す。思い出すと、怖い。
ユウナは横に寝かされた。天井は低い。呼吸が戻らない。喉が焼けるように痛む。痛みは、言葉より正直だ。
──失敗した。
その思考だけが、はっきりしていた。
だが次の言葉が続かない。失敗したからどうなるのか、知らされていない。知らされていないということは、知る必要がないということだ。
扉の向こうで鈴が鳴った。さっきよりも少し安定している。
「……成功ですね」
誰かが言う声がした。
成功。成功という評価が下った瞬間、ユウナの失敗は存在しなくなる。
存在しなくなった失敗は、記録されない。
記録されないものは語られない。
語られない者は、代替にすらならない。
祈殿の中央で、アキラが書板を閉じた。
紙が擦れる。擦れる音が、なぜかユウナの喉の痛みに似ている。
「問題は、解消された」
淡々とした声。
誰も異を唱えない。異を唱えれば、次は自分が過剰になる。
神官の一人が、小さく言った。
「代替は成立しました」
アキラは、わずかに首を振った。
否定は小さい。小さいほど、真実に近い。
「いいえ」
息が止まる気配。
止まった息は、祈りのようだ。
「成立したように見えただけです」
神官たちの視線が揺れた。揺れはすぐに抑え込まれる。抑え込めば、揺れていないことになる。
アキラは続ける。
「だが──それで十分です」
十分。
十分という言葉は、線を引く。線を引けば、その外は見なくていい。
祈殿の外、王都の空で煙が一筋、立ち上った。城壁の外縁。人々は祭りの準備に忙しく、誰も空を見ない。煙はただの煙として処理される。
鈴が鳴る。よく鳴る音。
その終わり際で、確かに音が折れた。
だが祝詞が被さり、拍が詰められ、記録は揃う。
揃った記録の中に、ユウナの名はない。
名がないものは、代替ですらない。
ただ、消費された過程だ。
──代替は、成立しない。
成立したように扱われるだけだ。
そして、その扱いこそが、
最も危険な成功だった。




