第三章第五話 追放巫女の影
王都の外縁は、音が多い。
露店の掛け声、荷車の軋み、子どもの笑い、犬の吠え声。
音が重なっても、互いを消し合わない。
白巫の里では、音には序列があった。祈りが最上で、鈴が従い、人の声は抑えられ、足音は消される。
ここには序列がない。あるのは、生きている雑多さだ。
ミサキはそれを、眩しいと思った。眩しさは痛みに似ている。
痛みは、忘れていた感覚だった。
「……うるさい」
漏れた声に、隣を歩く焔が鼻で笑う。
「当たり前だ。
うるさくない場所は、たいてい死んでる」
焔の声は掠れていた。叫びすぎた声だ。命令しすぎた声だ。
赤刀衆の残党として生き延びる者の声は、いつもどこかで折れている。
ミサキは深くフードをかぶり直した。
白巫家の追手は顔を探す。顔を探す者は、服や歩き方を見ない。
見ないという習慣は、白巫家の病でもある。
──見ない。
見ないから、壊れた神託を壊れていないと言い張れる。
外縁の検問所が見えてきた。
木の柵。槍を持った衛兵。赤刀衆の制服ではないが、視線の硬さが同じだ。
権力の視線は、匂いが似る。
「ここから先は香が変わる」
焔が小声で言う。
「吸い込みすぎるな。
頭が柔らかくなる。柔らかくなると……黙る」
黙る、という言葉が怖かった。
黙るのは安全だ。
だがミサキは、黙らされる側で育った。
「息は浅く。話すな。
目は合わせるな。合わせたら配置される」
焔の忠告は冗談に聞こえない。
配置される。人を物として扱う言葉。
検問。
焔が先に布袋を出す。中には乾いた薬草と銅貨。衛兵が布袋を受け取り、匂いを嗅ぐ。嗅ぐふりだ。
ふりをすることで、賄賂は賄賂ではなくなる。
検問を抜けた直後、焔は一度も振り返らなかった。
振り返る必要がない。通過はすでに確定している。
背後で衛兵が札を一枚、木箱に落とす音がした。
札には印が押される。通過、通過、通過。
押す動作に感情はない。慣れた手つきだ。
誰が通ったかを覚える必要はない。
覚えるのは異常だけだ。
異常がなければ、人は背景になる。
背景になった人間は、街の一部として溶ける。
溶けた者は、疑問を持たない。
疑問を持たない限り、装置は止まらない。
検問所の脇には、木板が立てかけられていた。
日付、通過人数、問題なし、問題なし、問題なし。
文字は揃い、癖がなく、誰が書いたのか分からない。
問題なし、という言葉は便利だ。
問題がなかったのではない。
問題を問題として扱わなかった、という記録だ。
通過した者の顔は残らない。
残るのは数だけだ。
数になれば、人は処理になる。
「行け」
短い命令。
短い命令ほど、長い影を落とす。
ミサキが一歩踏み込んだ瞬間、空気が変わった。
皮膚の上に薄い膜が張る感覚。
膜は匂いではなく、祈りの気圧だった。
「……重い」
「だろ」
焔が頷く。
「王都は祈りで蓋をしてる。
蓋が厚いほど、下で腐る」
腐る。
その言葉が胃に落ちる。
町並みは綺麗だった。石畳は磨かれ、白い紙垂が風に揺れ、神意を讃える旗が規則正しく並ぶ。
規則は安心を生む。安心は疑問を殺す。
露店で蜜菓子が売られている。子どもが笑う。
笑い声の上に、鈴の音が遠くに混ざっている。鈴は祈殿からだ。
音は澄んでいる。澄んでいるのに、どこかで折れた気がした。
「聞こえる?」
ミサキが問う。
「聞こえる」
焔は即答した。
「……折れてる」
ミサキは頷いた。
折れた音は確かにある。
なのに、町は笑っている。
笑っていられるのは、折れた音を折れていないことにしているからだ。
道の角を曲がる。
祈殿へ続く大通りが見えた。人の流れが一方向へ収束している。
収束は、意思ではない。配置だ。
ミサキの影が、一拍遅れて動いた。
自分が足を出した後に、影が足を出す。
視界の端で遅れた影が、別の人の影と重なり、境界が曖昧になる。
「……変」
ミサキが言うと、焔が吐き捨てるように言った。
「それが王都の正常だ。
正常ってやつは、だいたい壊れてる」
祈殿前の広場は準備で騒がしい。
木材が積まれ、客席の足場が組まれ、白い布が張られていく。
白い布は覆うためにある。覆えば、見えない。見えなければ、なかったことになる。
ミサキは胸の奥が軽くなるのを感じた。
軽くなる。変な言い方だ。
重い祈りの圧があるのに、なぜ軽いのか。
答えはすぐに来た。
祈殿の方向へ近づくほど、膜が薄くなる。
薄くなるのではない。裂けている。
裂け目の近くにいると、祈りがうまく揃わない。
揃わなければ、正しさが崩れる。
ミサキは、その裂け目の中心に自分がいるような気がした。
焔が急に足を止め、ミサキの腕を掴んだ。掴みは強い。強い掴みは本気だ。
「いいか」
焔が低く言う。
「お前は、何もするな」
「……何も?」
「祈るな。抗うな。助けようとするな。ただ、そこにいろ」
ミサキは言葉を失う。
何もしない、というのは逃げだ。逃げは卑怯だ。
白巫の里では、何もしない者から消えた。
「それでいいの?」
「いい」
焔が噛みしめるように言う。
「お前がいるだけで、向こうの正しさが崩れる。
崩れると、あいつらは焦る。焦ると、押す。押すと、壊れる」
壊れる。
壊れるのは、神託か。秩序か。人か。
全部だ。
広場の端で、小さな出来事が起きた。
荷車が転び、白い布が泥に触れた。
それだけのことなのに、近くの神官が顔色を変えた。
「汚すな!」
怒鳴り声。
怒鳴り声は、秩序のひび割れだ。
ひびが見えた瞬間、人は慌てて塗り直す。
塗り直すために、誰かを叩く。
荷車を引いていた男が殴られた。
殴られた音は乾いている。乾いた音は、祭りの音に紛れない。
周囲が一瞬、静まり、次の瞬間また笑い声で覆う。
覆う。
王都は覆う。
覆う癖が、すでに癖ではなく本能になっている。
ミサキは、殴られた男の頬に残る赤を見た。
その赤が、祈殿の床に残った赤と重なる。
赤はどこにでもある。
どこにでもあるのに、どこにも記録されない。
遠くで鈴が鳴った。
よく鳴る音。正しい音。
その終わり際で、確かに音が折れた。
ミサキは、今度は見逃さなかった。聞き逃さなかった。
折れた音が、自分の骨の奥に触れる。
──これが、私が「呼ばれなくなった」理由。
神意が揺らいだのではない。
揺らいでいるのに、揺らいでいないことにするために、私が余計だった。
余計なものは、追放される。
追放されたものが戻ってきたら、整えたものは崩れる。
焔が、ミサキの肩を押して路地へ入れた。
路地は薄暗い。香の膜が薄い。
薄い膜の向こうで、世界が少しだけ本当の顔を出す。
「ここから見える」
焔が言う。
路地の先、祈殿の白い壁が見える。
白い壁は汚れない。汚れないように、汚れが消される。
「……私、怖い」
ミサキが言った。
怖いのは祈殿ではない。
自分が何もしないことで誰かが壊れるのが怖い。
焔は答えない。答えない代わりに、短く息を吐いた。
「怖いなら、生きてる」
それだけで十分だ、とでも言うように。
祈殿の方角で、また鈴が鳴った。
今度は拍が詰まっている。
詰まった拍は、間を消す。間を消せば疑問が入らない。
疑問が入らない世界は、壊れる。
ミサキは路地の暗がりに身を置き、ただ立った。
焔の言った通り、何もしない。
何もしないことが、最も暴力的な行為になる。
その瞬間──
遠い鈴の音の終わり際で、確かに折れた音が、少しだけ大きくなった。
誰かが、どこかで、焦り始めた。
焦りは、刃より先に血を呼ぶ。




